第5話 深夜の公園でブランコに乗る少女

 仕事帰りにいつも、大きな公園の脇を通る。

 暗くて人気のない道で防犯上よくないことは分かっているのだが、そこが家に帰るのに一番近道なのだ。

 大きな公園。

 この街に引っ越してきたときは、「こんな大きな公園が近くにあって、すごくいい環境。静かだし、休みの日の散歩にもちょうどいい」なんて思ったものだ。

 でも、そんなことはなかった。

 いつも深夜近くになる帰宅時間には、木々に囲まれた公園の黒々とした闇は不安の塊みたいなものでしかなかった。

 その上、やんちゃな若者たちがちょくちょくバイクで乗り付けて、酒を飲んで大騒ぎをしたり、通報でやって来た警察官と大声でやり合ったりする騒音が私の家までばっちり届いて、長い時には明け方近くまで続くものだから、ただでさえ少ない睡眠時間をさらに削ってくれた。

 ついでに、コートだけを身にまとった露出狂の変態は、年間を通じて活動が盛んだった。

 毎日遅くまで働いているもうさして若くもない身では、休日の昼間に公園を散歩する気力もなかった。

 要は、近くに大きな公園がありますよ、などという不動産屋のセールストークにまんまと乗せられたものの、それによるメリットなど何も享受できなかったということだ。

 その日も私は疲れた身体を引きずるようにして公園の脇の道を、家へと向かっていた。

 家に着いたら、服を脱いでシャワーを浴びて、ベッドに横になって、そしてもう何時間かしたら、また朝だ。身支度をして仕事に行かなくてはならない。

 何のために家に帰ってくるのか、それすら見失いそうになる。

 それでもそんな生活はここまでで終わる、という期限が見えていればまだよかった。それまでの間はなんとか頑張ろう、と自分を奮い立たせることもできる。

 けれど、今の状況に終わりは見えなかった。仕事が少しは楽になってくれるのは三か月後か、半年後か、一年後か。それともいつまで経っても楽になんかならないのか。

 それは私には分からなかった。

 ああ、疲れた。

 何も考えたくない。

 とにかく早く横になりたい。

 足元だけを見つめながら歩いていた私の耳に、きいきい、という金属のこすれるような音が公園の方から聞こえてきた。

 どこか懐かしさを覚えるその音は、ブランコの揺れる音だった。

 風も強くないのに、と思い顔を上げる。

 柵の向こうに見えるブランコに、子供が一人乗っていた。

 切れかけた街灯の頼りない明かりに照らされた、時代遅れの赤いワンピース。

 まだ小学校に入学するかしないかくらいの年齢の女の子が、ひとりでブランコを漕いでいた。

 えっ。

 思わず足を止めて周囲を見回す。

 近くに、保護者に当たるような大人の姿はない。

 女の子はたったひとりでブランコを漕いでいる。

 最初に頭をよぎったのは、幼児虐待とかネグレクトとか、そういう物騒な言葉。

 虐待を受けていて、家に入れてもらえないとか、家から追い出されたとか、あの子はそういう子供で、仕方なく公園で時間を潰してるんじゃないかって。

 110番しようか。

 そう思ってスマホを取り出す。

 でも何だか女の子の様子がおかしかった。

 ブランコの漕ぎ方が、何て言うんだろう、ひどく偏執的というか。

 けっこうな勢いがついている。

 ちょうど影になっていてその表情はよく見えないけれど、口元は笑っているように見える。

 ブランコがぐわんぐわんと前後に揺れるたび、それに乗っている女の子の姿は見えたり見えなかったり。輪郭が曖昧なのは、夜の闇のせいだけではない。

 背筋がぞっとした。

 通報とか、そういうことじゃない。

 見ていてはいけない気がする。

 私の中の本能的な部分がそう告げていた。

 多分、この子はこの世のものじゃない。

 私はブランコから目をそらすと、必死にそちらを見ないようにしながら家へと走った。



「あら、こんにちは」

 久しぶりの休日。

 買い物に行こうとした私は、外に出てすぐに一階に住んでいる大家さんに声を掛けられた。

 もう七十歳は過ぎているだろうと思われる大家さんは、柔和な笑顔を浮かべて、まるで実のおばあちゃんみたいに、

「最近はどう? まだお仕事忙しいの?」

 なんて尋ねてきた。

「あ、はい」

 頷く私の顔を見て、そうみたいねえ、と大家さんは頷く。

 一目で分かるほど疲れているみたいだ。

「最近、よく眠れてる?」

「寝てはいるんですけど、睡眠時間自体が短くて……」

 苦笑いとともにそう答えてから、ふと思い出して付け加える。

「あ、でも最近は公園が静かなので、そこは助かってますけど」

 そうなのだ。ここ最近は若者や酔っ払いの騒音が聞こえてこない。おかげで短い睡眠時間でも最低限の休養だけは取れていた。

「そうでしょう」

 大家さんはにこにこと頷く。

「二か月前くらいまではうるさかったものねえ」

「はい。すごかったですよね」

 毎晩のように聞こえるバイクのエンジン音や遠慮のない大きな笑い声。爆竹の音までしていたこともある。

 そういうのが最近は不思議とない。

「みっちゃんに頼んでよかったわ」

「みっちゃん?」

 大家さんの言った言葉に引っかかり、思わず聞き返す。

「みっちゃんって誰ですか?」

「ああ、そうよね。あなたは知らないわよね。みっちゃんはこの辺に昔から住んでる女の子の幽霊よ」

 大家さんはまるで何でもないことのように言った。

「え?」

「公園の騒音があんまりにもひどかったから、みっちゃんに夜あの公園で遊んでってお願いしたのよ。みっちゃんも前からあそこのブランコとか滑り台が気になってたみたいで。二つ返事でオーケーしてくれて」

「え? え?」

「やっぱり本物は効果覿面よねぇ。あんなに威勢良かった若い子たち、みんなおっかながって来なくなっちゃったでしょう。酔っぱらいも変質者も」

 大家さんは感心したように、うんうん、と頷く。

 えっ、ちょっと頭が追い付かない。

 みっちゃんはすごくいい子だから、今度会ったらお礼でも言ってあげてね、と言い残して、大家さんは優雅に去っていった。

 騒音対策に幽霊って。

 カラスよけのために鷹匠を呼ぶみたいなことなのだろうか。

 あまりに気になりすぎて、その日の夜、公園に行ってみた。

 誰もいなかった。

 ブランコは微かに揺れていたけど、きっと風のせいだろう。

 無人の公園は静まり返っている。

 まあそれはそうだよね。幽霊なんてそんな、ねぇ。……私、休みの日に何やってるんだろ。

 急に虚しくなって帰ろうとしたら、トンネル状の遊具からあの女の子がすぽりと顔を出した。

「あっ」

 ばっちり目が合ってしまった。

 この間は影になっていて見えなかったけど、整った可愛い顔をしていた。

 目尻から真っ赤な血みたいな涙が流れていることを除けば。

 女の子はじっとこちらを見ている。

「あの」

 とりあえず何か言おうと思って、私は口を開いた。

「ありがとう」

 そう言うと女の子はきょとんとした顔をした。

 慌てて説明を付け加える。

「みっちゃんのおかげで公園が静かになったって、大家さんが喜んでたよ。私も助かってるの。だからありがとう」

 それを聞くとみっちゃんはにいっと笑って、またひょいっとトンネルの中に引っ込んだ。

 その日はもうみっちゃんは出てこなかったけれど、今度出会ったときには一緒に遊んでみようかと考えている。



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