三文乙六 小春 (1)魚を釣り上げて了うと…

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は高校三年生。

 愛とツンデレの彼女「ベーデ」や強気の留学生エリーが次々と去る中、漸く寂しさから立ち直った駿河は、通学電車で知り合った女学生と奇妙な縁が出来た。

 だが、彼女はベーデの従姉であることがわかり、混乱する。

 -*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-



 何も考えられず、何も出来ない儘に寝て了った日曜の明くる日、つまり月曜日の朝。


「おはよう御座居ます。」

「おはよう…。」

「あら、此方を向いても下さらないんですね。」

「向いて欲しい?」

「朝の挨拶くらい、気持ち良くしませんこと?」


 僕は、ドイツ語の対訳本を見ていた手を休めて、シィちゃんの方を向いた。


「お・は・よ・う。」

「取って付けたような言いぶりが気に入りませんわ。」

「じゃあ、電車変えたら? それとか別の席に座るってのはどう?」


 隣に座って憤慨している彼女を見ずに、対訳本を見つめた儘答えた。


「つい土曜までは彼様あんなに優しくして下さったのに、此の変わり様…、本当に殿方というものは魚を釣り上げて了うと…。」

「…鳥渡ちょっと待って!…」


 彼女の言葉を、小さな声というより、顔を上げて彼女を見る「態度」で遮った。


「何ですの?」

 彼女は目をぱちくりとさせて、小首を傾げている。


「他の人が誤解するようなことを言わないの。」

「だって、そうではありませんか?」

 徐々に彼女の声の調子が強く、大きくなってきた。


「まあ、待て。一緒に電車を降りるから。」

「もう、都合が悪くなると、直ぐに『黙れ!』って、これだから殿方は。」


 冷静な様子できつく文句を言っている彼女の横で、僕は顔から火が出るような思いで残りの数駅を過ごした。

 彼女の乗り換え駅で、一旦降りてベンチに座る。


「何ですの? お話って。」

「電車の中で、魚を釣ったとか、釣られたとか、そういう話をするもんじゃないよ。ましてやS女学院の生徒ともあろうものがさぁ。」

「あら、ではお訊ねしますが、一高そちらの方同士なら良いんですか? 亜惟姉様なら良いんですか?」

「それでも駄目。」


「では、『奪われた』とでも言いましょうか?」

「余計悪いでしょ。」

「分かりました。駿河さん、結局、責任を取り度くないんですね?」

「…大きな声でもっと変なことを言わないの。通る人が誤解するでしょ?」


 S女学院への乗り換え駅で降りたのは失敗だった。

 目の前を通っているS女の生徒たちが、歩きながらクスクス笑っている。


「何が誤解ですの?」

「喫茶店に行ったくらいで《責任》なんて言葉を使うからだよ。…もう女房気取りで…。」

「…!」


 しまった、と思ったってもう遅い。ベーデやエリーと話していたときの軽口癖がつい出て了った。

(殴られる…)

 と思ったものの一撃は飛んで来ず、心配になって彼女を見ると、鞄の上にうっ伏している。


「あ…ごめん。其様そんなことを言う心算つもりじゃ…。」

「…非道ひどい…。」

「あ、あ、其の…。」

「私にはサクランボのへたを口の中で結ぶのを見せてくださらなかったくせに…。」

(あ、否、あれ、そっち?)


 どうやら頭に血が上ると人の話をよく聞かなくなるらしい。

 と思えば、いきなりガバリと起き上がり、乱れ髪のまま上気した顔で此方を向いた。


「では再びお訊ねしますが、駿河さんには、最初から下心はありませんでしたか? 学園祭にご招待した時も、喫茶店に連れて行って下さった時も、其の微塵もありませんでしたか?」

「ん~…。」


 とても痛い所、というか完全に急所を一発で突いてくる。


「ほら、ご覧なさい。それが狡いと言っているんですわ。」

「だって…状況が変わっただろう?」

「何の状況ですか? 亜惟姉様ですか?」

「…オ、オウ…。」

「私、亜惟姉様の従妹だと言わなかったら、今頃、どうされていたんでしょう?」

「おっそろしい質問を淡々とするね、君は。」


 驚いて彼女を見ると、乱れた髪を直しもせず、極めて真面目な顔で此方を睨んでいる。

 目元と眉がはっきりしているだけに、切れ長のベーデや杏仁・逆さ三日月形のエリーより余程威力があって怖い。


「姉様に分かりさえしなければ浮気をしても構わないんですか? それで気が変わって本気になったら、私に乗り換えるんですか? 駿河さんの気が変わらなければ私は簡単に捨てられて了うんですか? 私は一体何ですか? 代用品ですか? お黙り菓子ですか?」


 軽いジャブなど無しに、いきなり真っ正面からのストレートパンチの連続だ。こんな派手な攻撃、ついぞ今まで受けたことがない。


「大体、駿河さんは、亜惟姉様と今でも付き合っている、って本当に正面きって言えるんですか?」


 もう、ほぼクリンチに近い状態。


「どうなんですか? 素振りだけ見せておいて、ピンポンダッシュで逃げるなんて、狡いではありませんか。」


 既にリングにダウン状態で、カウントが始まっている。


「…ごめん、少し時間を呉れないか。」

「良いですよ。どのくらいですか?」

「二日くらい。」

「分かりました。では、木曜の朝の電車で。」


 *     *     *


 彼女が言うことは、至極もっともだった。

 エリーが居なくなり、ベーデまでも逢えない状態になった中で現れた彼女に、僕が心を奪われなかった筈がない。

 学園祭の招待に心が躍り、銀座での待ち合わせに足が軽くなったのも事実だった。

 ベーデが、エリーが、僕にとってどういう存在だったのか。また、今現在、どういう存在なのか。

 二人とも、『愛惜いとおしい』という表現が適切なことは分かっていた。でも、現実に今は、両者共に手の届かないところに居る。

 それも自分で努力すれば何とかなる訳でもない。それを覚悟で待ち続けるのか否か。そして、それは相手も望んでいることなのか?

 ベーデは出国のとき、「今は確かに彼氏、彼女だけれども、此処から先は自由意思」と言った。

 エリーは「きっとまたいつか逢える」と言い、書いてもきた。好対照な二人だったけれど、今はどうしようも出来ない。僕は、どうすれば良いのか。


 *     *     *


「駿河…!」


 安埜先生の声で我に返った。物理Ⅱの授業中だった。


「非常に真剣な思索中に…、誠に申し訳ないが、前まで来て、此の問題を解いては貰えないだろうか…。」

「先生、駿河はフラウ・ヴィルヘルムスのことで頭がいっぱいいっぱいで。」

「いやいや、S女学院の憧れの君だと聞いたぞ。」

「えぇ~、そうなのぉ? じゃあ三条さんはどうしたの? ヒソヒソ…」


 女子のヒソヒソ話ほど怖いものはない。

 階段教室の一番後ろから最前部まで下り、二段黒板を見ると、偏微分の問題が描かれていた。


「では、此方こちらは古屋が解いて呉れ。」


 隣の問題はデンが当てられた。下りて来るなりデンは、

「あんた、しっかりしなさいよ。見ていらんないわよ。」

 と囁き、隣の黒板で単振動の問題を解き始めた。

 中学校の応援団同期に叱咤されるほど堪えることはない。


 僕は偏微分を解きながら考えた。


(何でもつながってるんだよなぁ…)


 最初は縁も所縁ゆかりもないような微分、積分が、物理Ⅱになると、驚くほど簡単に問題を解く道具に変身する。

 其処まで辿り着かなければ、微分も、積分も、物理も、本当に役立ったとは言えない。


 ベーデも、エリーも、シィちゃんも、偶然に出逢ったということでは一緒だ。僕は自らの動きを其の偶然と彼女たちの意思に任せきっていた。もし今度も自分で踏み出すこともなく、中途半端に終わらせたら、何も見えない儘で終わって了うかも知れない。


 問題を解き終えそうになる直前、何か自分勝手な気もしたが、

(所詮、他人の心の中は分からないんだから、自分で答を出すしかないか…)

 と同時に、彼女が言った「答を出さないのも、一つの答えです」という言葉を思い出した。


「そうか、答を出さないのも手か…。」

 思わず口に出して呟いた。


「否、答は出して呉れ…。」

 横で安埜先生が泣きそうな声で言い、教室内がドッと湧いた。


「あ、出します、出します、今、書きます、はい。」

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