三文乙六 花香 もう一生隣に座って呉れないのか
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は高校三年生。
愛情深いツンデレな彼女「ベーデ」と終始強気の留学生エリーと三人で、山あり谷ありの二年生時代を過ごしたが、三年になると共に、ベーデは留学、エリーは帰国。
一気に周囲が寂しくなった駿河は、その反動ですっかり抜け殻状態に。
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エリーからの手紙で多少励まされはしたものの、まだ《独り立ち》というものの経験が無かった僕は、寧ろ其の反動の方が大きく、梅雨以降はトコトン自暴自棄と言って良いような日々が続いた。
少しでも気になる女の子が出来れば、直ぐに想いを打ち明けては当然断られ、其の都度、自業自得の自己嫌悪という不安定な精神状態に陥る。
元々運動の出来る好青年というものでもなく、見た目は日に焼けて運動部系とは言っても、どちらかと言えば中身は哲学系だったので、明るく活発で一般的な女子に「すぐさま」好かれる訳もない。
加えて、殆ど面識もない相手に、「告白」とまではいかなくても「貴女が気になります」と打ち明けたところで、「はぁ?」と言われて
「
中学校時代の知己の陰口が自分の耳に入るようになっても、それを恥とも感じないほどに精神的に鈍くなってしまっていた。
* * *
「
「色々って何を?」
「そりゃ、色々さ。恋
「其様なこと考えてやしないさ。」
「でも、今のお前は、そうにしか見えないぞ。」
「そうか?」
「ああ、言い難いが、何というか、
「そうか…。」
「少しは女子のことを忘れてみる時間も必要だ。
「いや、有り難う。」
余程見るに耐えなかったのか、七月の応援部引退の直後、イチに呼び出されて忠告された。
《あわれ》という一言が、凍りついて酷く痺れて了った感覚を突き刺すように、鋭く深く入り込んできた。
エリーが帰国したことも、ベーデが留学したことも、周囲の目から見れば造作もない日常の一コマに過ぎない光景であって、一週間、二週間なら兎も角、数ヶ月もそれによって神経衰弱で憔悴しているなどというのは、十八歳にもなろうという人間において《甘ったれている》ようにしか見えない。
イチが苦々しく口にした《あわれ》という言葉は、不条理や物の無常観に翻弄される《哀れ》ではなく、人の情に無闇に縋ろうとする憐憫の《憐れ》であることは明らかだった。
《私は貴男をそんな男に育てた覚えはない。恥を知れ》。
ベーデかエリー、本人が目の前に居れば、そう言って頬を強く張られていたに違いない。
* * *
それからは、出国前のベーデの忠告通り、僕は勉強だけに没入した。
学校での授業、空き時間、帰宅後、電車の中…、兎に角他に思いを廻らせないためにも
高校最後の夏休み、其の年齢にとって全てのことを忘れるためには受験勉強が都合のよい逃避方法だった。
* * *
九月。学期末試験は禁欲的な勉強の御蔭か、なんとか入学以来最高の成績をあげた。そして、紀年祭のクラス演目でも、生徒と来場者の人気投票は総合第一位となり、級長の面目も保つことが出来た。
鳥渡見には一時期の非道い状態から脱しているように見えていただろうが、僕自身にとって全てが元の儘ではないことは当然だった。
課業、課外生活が充実していても、何か全てが四角四面で、計画したことを予定通りにこなし、成果をあげている、其様な味気ない感覚がいつまでもつきまとっていた。
* * *
応援部は引退したものの、普段は足駄履きで、相変わらず破帽を被り、普段の(破れた)学生服で、ノタノタと学校に通っていた。
混んだ電車は気疲れするので、中学時代に戻ったように朝の早い時間の空いた電車の、
其様なある日、集中していたドイツ語の対訳本から意識を戻される香りに気がついた。香水のような強いものではなく、シャンプーやリンスのそれでもなく、そっと淡い、懐かしさをそそるような穏やかな花の香りだった。
(ん?)
途中にある大きな乗り換え駅で、隣に座っていた女子学生が立ち上がったとき、其の香りがふわりと漂った。
(ああ、此の娘か…。)
清々しい淡青色の制服は、其の駅から乗り継いだ先にあるS女学院のものだった。
去りゆく後ろ姿の髪は長く、綺麗に切り揃えられ、乱れないようにまとめられている。背筋はすっきりと伸び、鞄を持って歩く姿が実に整った風情で、其の空間だけが全くと言って良いほど隙が無かった。
その後、毎日の電車で、あることに気が付いた。
彼女は、僕より後の駅で乗って来る。そして、隣が空いていれば、必ず其処に腰を下ろす。
ドイツ語の対訳本に顔を向けながら、視野の端に映る彼女の様子を窺っていると、先ず正面に立ち、気持ち程度の小さな会釈をしてから空席に背を向け、スカートに手を添えてからトンと座る。
其の一連の
座っている間も、膝の上に鞄を置き、更に其の上に両手をきちんと重ねて、背筋を伸ばしてお行儀良くしている。
彼女の存在に気づき始めてから一か月が過ぎた。少しずつ秋が深まり、素足に足駄履きでは涼しさが《心地良く》から《厳しく》なってきた。同時に、破れた学生服では文字通り隙間風が身に沁みるようになった。
毎日の健康に必要以上に気を遣うほどの年齢でもない僕は、普段から欲望の赴く儘に暴飲暴食を繰り返していた訳で、時折其のツケが朝に回ってきた。
つまりはお腹を壊して了って途中下車を余儀なくされるのだ。朝晩が冷え込む秋口は、其の頻度が非常に高くなる。そしてある朝、到頭、あろうことか彼女が僕の隣に座った途端に勢いよく立ち上がり、猛然と電車を降りて
それは、僕にとっては全くの生理的な非常事態以外の何物でもなく、それこそ一刻を争う体調の変化だった訳だが、何も知らない人の目から見れば、何かに意識が昂じて席を立ったかのように見えたかも知れない。そして、隣席に座った途端に鼻息も荒く、地を蹴るように出て行かれたとあっては、件の彼女にしても気持ちの良いものではなかっただろうと想像に難くなかった。
* * *
果たして翌日から彼女を見掛けることはなくなった。
翌々日も、其の次の日も。そして一週間が過ぎた。
そして何日かが過ぎ、半ば諦めてドイツ語の対訳本と対面していると、制服のソックスが視界に入った。
以前と何も変わらないように、彼女は僕の隣に音もなくストンと座った。空気が少しだけ動いた。ほっとした反面、矢張り悪いことをして了った気が湧いてきて、動悸が起こった。
(どうしよう、謝った方が良いかな…。)
考えているうちに手の力が抜け、対訳本が落ちた。
乱れた心の権化は足駄の上を転がり、ご丁寧に彼女の、そう、塵一つなく綺麗に磨かれた靴の上にバサリと音を立てて落ち着いた。普段なら、失礼を詫びて直ぐに取り上げるところなのに、今日は金縛りにあったように身体が毫も動かない。
すると、彼女はごく自然に片手で自分の鞄を押さえ、空いた手で対訳本を取り上げた。そして、下に落ちた時の埃を払うように軽くサッサッと本を撫でてから、右手で本を持ち、其の手首に下から軽く左手を添えて、
「どうぞ。」
と、差し出した。
自分と同じくらいの背の高さの人から出ているとは思えないくらい小さな声だったけれど、芯の通った澄んだ声だった。
「有り難う。」
「あ、あの、先日は大変失礼しました。体調が悪くて…、気を悪くされていたらすみません。決して他意は無かったんです。ごめんなさい…!」
学帽を掴んで脱ぎ、頭を下げた。
彼女は一瞬
「私、ご迷惑をお掛けしているのかと思いました…。」
「いえ、其様なことは無かったです。あの時は、僕がお腹を壊しただけで…、あ、否…すみませんっ。」
「どうぞ、もうお座りになって下さい。それをうかがって安心しました。」
其の後をどうして良いか分からず、僕はぼーっと突っ立った儘だったので、彼女の言葉に救われ、興奮で少し乱暴に席に座り直した。
「では、また明日…。」
「…あ、どうも。」
僕が座ると同時に、電車は乗り換え駅に到着し、彼女は立ち上がって軽く会釈すると長い髪をふわりと靡かせて降りて行った。
(また明日?)
謝って安堵した筈なのに、別の感情でドキドキしている自分に気が付いた。
それまで意地になってしか出来なかった受験勉強も何か目的めいたものに変わったような気持ちがした。その方が危ういというか、思春期の男なんぞ、実に単純なものだ。
* * *
翌日、
翌々日も、其の次の日も、僕の臨席には先客が居た。
隣席が三日続けて埋まっていた朝には、彼女は僕に会釈をすると少しクスッと笑ってから、空いていた他の席に座った。
金曜日。漸く隣席が空いた儘電車は駅に到着した。彼女は焦らず静かに僕の隣まで来ると、くるりと向きを変え、普段のようにスカートに手を添えて、ストンと腰を下ろした。あの穏やかな花の香りがふわりと漂った。
そして、鞄を膝の上に置き、両手を重ねてから一息ついたように、
「おはよう御座居ます。」
と会釈をしてきた。
此方は、ドキドキしながら会釈を返すのが矢渡だった。
「はぁ、可笑しかった…。」
「え…、何がです?」
「だって、毎日毎日、もう一生、隣に座って呉れないのか、というようなお顔をしていらっしゃるんですから。昨日は思わず笑って了いました。ごめんなさい。」
「其様な顔をしてましたか?」
「ええ、でも、私、少し嬉しかったです。」
「何故です?」
「それは…、自分を待っていて呉れる人が居たら、何か嬉しいものではありませんこと?」
「まぁ、そうですね。」
「嫌な人でもない限り、何か張り合いがあるというか。」
「張り合いですか。」
「そうです。」
最近、彼女を待つことに少しの幸福感を持っていた僕は、其の言葉に少し幸福な共感を感じた。
「
「学校の教科書なんです。」
「まぁ、そうなんですか?」
「貴女は
「有り難う御座居ます。学校が厳しくて…時折窮屈に思えます。」
確かにS女学院と言えば、全国に其の名が轟きわたるほどの名門お嬢様学校だ。
普通なら僕らなど、近寄ることも出来ない高嶺の花だ。五メートル以内に入ろうものなら、箸で摘まれてポイされかねない。こうして会話をしているだけでも奇跡のような話だ。
「お気を付けてどうぞ。」
すっと立ち上がると、彼女はそう言い残して電車を降りて行った。
僕は其の後ろ姿と、声を思い出して週末の勉強に励んだ。普通は顔なり表情なりが先に出てくるものだが、全く出てこない。どうして出て来ないか。それは実に単純な理由で、小心者でまともに顔を見ることも出来なかったからだ。
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