三文乙六 手紙 咲き誇った桜が潔く散り去っても
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は高校三年生。
愛情深いツンデレな彼女「ベーデ」と終始強気の留学生エリーと三人で、山あり谷ありの二年生時代を過ごしたが、三年になると共に、ベーデは留学、エリーは帰国。
高校入学以来、濃厚過ぎた二年間を送ったことで、反動が懸念される十七歳。
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エリーが国に帰り、続けてベーデまでもが居なくなることが決まり、それでも当然、三年の新学期はやって来る。
学校では受験対策が一切無い一方で、学習内容をさらに深く掘り下げ、関連する教科を同時に学ぶ併合講義が始まる。数学と物理、歴史と政治経済、古文と日本史、化学と生物、語学と世界史等々。
三月末の教科登録までは、まだエリーの面影を胸に抱いて意気込んではいたものの、いざ授業が始まると唯一の精神的な支柱だったベーデからの音信も途絶え、何を心の頼りとして進んで行けば良いのか、皆目見当もつかない状況になって了った。
そして、彼女の出発を契機として日々の生気は完全に失われ、当然、成績もするすると面白いように滑り落ち、精神的な立ち直りや解決について何の手がかりも得られない儘に二ヶ月半が過ぎた。
* * *
「Herr Suruga!(駿河さん!)」
「駿河…駿河…。」
後席のイチから鉛筆で突かれて漸く気が付いた。
「どうしました? フロイライン・ヴィルヘルムスの事でも思い出してましたか?」
「Richtig!(そのとおり!)」
誰かが間髪入れずに答えて、教室内がドッと沸いた。
「Nein…Wetter des Frühlings brachte mir Schläfrigkeit.」
(いいえ、春眠暁を覚えず、になっていただけです。)
「困りますね、将来を背負う日本の若者が新学期からそれでは…。」
「失礼しました。」
「良いですか、皆さん、此処での高校生活もあと一年です。しっかりして下さい。」
「駿河は三年を留年してないからもう一年あります。」
イチが大真面目に答えて、また教室内が沸いた。
「Nein…それは間違いです…。皆さんは、きちんと三年で卒業して、待っている社会に貢献するべきです。」
「おぉ…。」
「皆さんが一日休めば、日本の発展は一日遅れます。国民として学んでいる立場なら、国の将来を思い、しっかりと学業に励まなければなりません。」
ハンス先生の言葉に教室が静まった。僕の耳にはエリーの言葉が重なった。
「世界を見渡したとき、自国のことを思わないのは、余程の貧しい人々か、無政府主義者か、日本の若者くらいです。近代国家の若者としてはあまりに情けないです。」
「オシ、勉強するぞ!」
「Ja, 頑張って下さい。では、Herr Suruga, 前回の要約をお願いします。」
「あ、すみません…。」
「Ah…それでは紡ぎ終わった糸車じゃないですか…。」
「勢い許りで、カラカラ空回り。」
「Ja, Es ist Richtig...(はい、おっしゃるとおりで…。)」
* * *
「おぉい、元気出せって。」
「あぁ…。」
「お前、此の儘だと、ハンス先生じゃないが、卒業出来ないぞ?」
「おぉ…。」
「放っとけって。大体、今まで此奴は、良い目ばっかりみてきたんだから、此処いらで反動があって当然だ。」
「あぁ…。」
「エネルギー保存の法則か?」
「あぁ…。」
「んだよ。ちゃんと聞いてんのか?」
「おぉ…。」
「そうだ! ヨーサンどうだよ。ヨーサン。お前、中学校の時、仲が良かっただろ!」
「あぉ…。」
「馬~鹿。一高の三島と言えば、S、K、Yの三大予備校でも名の知れ渡った才色兼備の才媛だ。」
「あぁ…。」
「おまけに、これまでベーデやらエリーやら、目の前で派手に見せ付けられてきたのに、今頃ノコノコと、ど~も~なんて出て行ってみろ、一発でぺしゃんこだ。」
「おぉ…。」
「しっかりしろよぉ。」
「あぁ…。」
「いっそ、女断ちするか? 女断ち!」
「おぉ…。」
「馬鹿馬鹿しい、目の前に居るなら兎も角、遠くに居なくなった女共のことで傷ついてるような奴に付き合っちゃいられん。放っとけ、放っとけ。」
「あぁ…。」
「ちゃんと家に帰れよ?」
「おぉ…。」
* * *
「ああ、駿河、此処に居たか。」
山名先生の声がした。
「此処が君の居場所か?」
「まあ、其様なとこです。」
講堂から少し下った生垣の中の空間。
エリーはここでよく花の蜜を吸っていた。
そこに寝転がっていた僕の横に、先生はよっこいしょと座る。
「フロイライン・ヴィルヘルムスが居なくなってから抜け殻みたいだな。」
「親友を失えば、誰だってそうでしょう。」
「そうだな…中学時代からの彼女も留学だって?」
「…誰が先生に僕の慰めを頼んだんですか?」
「まあ、自棄になるな。彼女のお世話役は確かに君の心に傷を負わせて了ったかも知れない。申し訳ない。」
「傷なんかじゃありません。立派な想い出です。」
「そうか。ヨハンさんに聞いたよ。君、彼女のプライベートの誕生パーティーに呼ばれたんだって?」
「ええ。」
「よく、他の皆に黙っていて呉れたな。」
「言い触らすようなことでもありませんし、今は留学して了った彼女からのアドバイスもありましたから。」
「彼女も一緒に招待されたのか?」
「ええ、知り合ってから分かったそうですけれど、遠縁の親戚なのだそうです。」
「差し支えなければ、名前は?」
「三条亜惟です」
「君、三条さんの娘さんの彼氏だったのか?」
「そういう呼ばれ方は付属品のようで心外です」
「いやいや、失敬」
「先生は三条をご存知なんですか?」
「あ、いや第一中学校時代の彼女の話を先生方から聞いただけだ。」
先生が嘘をついているのは直ぐに分かった。大人たちが何を隠そうとしているのか、何を守ろうとしているのか、其様なことは僕にはどうでも良かった。
普通に、当たり前に学生生活をしている僕らのような年頃の者には、今、それを知ったところで何も為す術など無いことを、分かり始めていたからだ。
「
先生は内ポケットから何やら取り出した。それは白い封筒で、表に綺麗なペンの字でzum Herr Suruga(駿河さんへ)と書いてあった。紛れもない見慣れたエリーの字だった。裏返すと蝋封がされていた。
「先生、これ…。」
「彼女の出来る精一杯のことだ、後は察して呉れ」
「…はい。」
* * *
僕は差出人の住所も無く、切手も貼られていない封筒を持ち帰り、自分の部屋で丁寧に封を開けた。
中には離校式の日に撮ったエリーとの写真と、美しいエンボスの入ったレターパッドが入っていた。
綺麗な、それでいてクセのある、彼女の字だった。
親愛なる日本の友 駿河
慌ただしいお別れから早くも二か月が過ぎましたが、お元気でしょうか?
私には、此の二か月が、二年にも二十年にも感じられました。きっと駿河も同じ気持ちだと思います。
お約束の離校式での写真を送ります。
私の一生の宝物。
駿河も一生の宝物にして下さい。
遙か遠く離れた日出づる国でのあなたとの日々は、決して色褪せることなく私の心の中に在ります。
それと同じく、私も、あなたの心の中にずっと在り続けましょう。
さようなら、とは言いません。
咲き誇った桜が潔く散り去っても、必ずまた花開くように、いつかまたきっと逢えますから。
古き東方帝国より あなたのエリー
追伸 ただのお返事ではなく、住所が変わるなど、本当に伝えなければならない大事なことがあれば、エーステァライヒ大使館のヨハンさんに手紙を託して下さい。私のもとに届けて呉れるでしょう。ベーデの留学の話は聞きました。駿河、貴男の判断は立派です。私は益々貴男と、そして日本が好きになりました。
彼女からの手紙を受け取って、暫くはカンフル剤になったものの、其の後は逆に睡眠薬になって了った。
手紙の内容から考えて、彼女が生半可な気持ちではなく、本当に心から丁寧に書いて呉れたことは分かっていたし、其の決意や彼女自身が抱えていることの大変さもよく分かった。それだけに、追伸の「本当に大事なとき」でなければ返事を書けないことも分かっていた。
ただの返事を書いたとしても、それは彼女の許に届きこそすれ、答えはないだろう。僕らと同じ年頃の彼女は、もう真剣勝負の世界で生きようとしているのだから。
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