二文乙六 別離 (1)よくお聴きなさい

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は高校二年生。

 終始強気の留学生エリーと、愛情深いツンデレな彼女「ベーデ」との間で微妙なバランスをとる毎日。

 山あり谷ありだった一年間の留学生活を終え、エリーが学校を離れる日が訪れた。

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 離校式の朝がやってきた。

 留学生達にとって、離校式は此の学校での卒業式になる。

 其の日は、教官も正装し、留学生も制服ではなく母国の正装で出席するのが習わしで、夫々の母国の大使館からも来賓が来る。関係者にとっては着校式よりも重要な催事だった。

 式の最後には基幹年の国の留学生が代表として挨拶をする。つまり、今年はエリーの役目だ。


 *     *     *


 壇上に来賓が揃い、其の中には、以前エリーの誕生日パーティで挨拶したオーストリア大使館のヨハンさんの姿もあった。

 着校式と同じく、山名先生の先導で留学生が現れた。英国、フランス、夫々の民族の正装。そして、最後がオーストリアのエリー。


「…えぇっ?」

 女の子達が息を呑むとも、声が漏れるともつかない反応が、皆の正直な感想を代表していた。


 エリーは眼鏡を外し、アノ誕生日の時とはまた違った、おそらくオーストリアの伝統的なドレスに身を包み、普段の三つ編みよりも更に複雑に編み込んだ髪には、小さいながらも其の輝きで充分に存在感のあるティアラを乗せていた。

 普段の彼女をよく知らない三年も一年も、其の艶姿にざわついていた。


 式の開始が宣言され、講堂内に式典としての静寂が訪れた。

「国歌演奏。」

 君が代に始まり、順番に国歌が演奏されていく。ゴッド・セイブ・ザ・クイーン、ラ・マルセイエーズ。離校式では留学生のこれまでの努力と親交に敬意を表する意識を強調するためか、国歌も放送音源ではなく、交響楽団と混声合唱団が責任を持って演奏する。


 最後、ゆっくりとエリーが進み、壇上中央に立った。

 其の顔は中央正面より上をキリリと見据え、全ての生徒に向かって心持ち微笑んでいるようにも見えた。

 交響楽団指揮者が鼻息荒くタクトを振り下ろして演奏が始まった。


「?」

「これって、ドイツの国歌なんじゃないの?」


 演奏の始まった厳かな曲は、着校式で耳にしたものとは全く違った、それでいて聞き覚えのある曲だった。


「違う、此の歌詞は…帝政オーストリアだ…。」

 古府川が呟いた。


 着校式で目にした《貝のように閉じた目と口》ではなく、エリーは直立不動で、講堂の高い窓から差し込んでくる日の光を見返すように、引き締まった目を開いて立っている。

 其の姿は、まるで栄誉礼でも受けているが如く気高く、演奏されている曲を全身に浴びていた。歌うことも出来ない僕らが迚も失礼に感じるほど威厳に充ち満ちて、


「よくお聴きなさい。これが我が祖国、Österreichの国歌です!」


 と言わん許りに。


 Gott erhalte, Gott beschütze!

 Unsern Kaiser, unser Land!

 Mächtig durch des Glaubens Stütze,

 Führt er uns mit weiser Hand!

 Laßt uns seiner Väter Krone

 Schirmen wider jeden Feind!

 Innig bleibt mit Habsburgs Throne

 Österreichs Geschick vereint!

 Innig bleibt mit Habsburgs Throne

 Österreichs Geschick vereint!


 神よ保ち給へ、神よ守り給へ!

 我らの皇帝、我らの国を!

 皇帝は、信仰の助けを通じて力強く、

 智慧の腕を以て我らを導き給ふ!

 先祖代々の帝冠が

 我らをあらゆる敵から守りなむ!

 オーストリアの運命は維持されよう

 ハプスブルクの帝権と共に!

 オーストリアの運命は維持されよう

 ハプスブルクの帝権と共に!


「かっこ良いな…。」


 誰かの呟きが多くの生徒の素直な気持ちを表していただろう。しかし、誕生日と重なる今日の此の姿は、僕に言い知れない不安ももたらしていた。


 級友達には今日一日だけの《晴れ姿》か《お遊び》にしか映らなかったかも知れないが、僕には必ずしもそうは思えなかった。

 昨日まで目の前でドタバタと一緒に騒ぎ、遊んでいた彼女が、本当は何か自分の手の届かない世界の存在であることが徐々に明らかになってきたように思えて、寂しい胸騒ぎが止まらなくなっていた。


 彼女が前日、口にした

「明日は私が私に戻る日」

 その本当の意味。


 彼女は演奏が終わると、普段のクセなど微塵もない流暢な日本語で挨拶に入った。


「お集まりの皆さん。今日は、私たち三人のために…。」


 *     *     *


 離校式は淡々と終わり、講堂のロビーには、山名先生とヨハンさんが出て居た。先生は頻りに頭を下げ、ヨハンさんは恐縮して「頭を上げて下さい」と言っている。


「彼女が一人でやって来て、今日まで何事もなく過ごしてきたこと自体が奇跡なんデスから、コレくらい何でもありマセンよ。」

「最後に、然もヨハンさんの前で、こうなるとは…。」

「イイエ、最初に《特別扱いしないでください》とお願いしたのは私達の方デス。ソレに留学生のための国歌演奏なのデスから、立派な国歌演奏デシタ。私は何も困らずに報告出来マスよ。はい、国歌が演奏されマシタ、と。」


 矢張り、あの帝政オーストリアの国歌演奏は意図していないもののようだった。


「Herr Suruga!」

 声を掛けて良いものか、黙って通り過ぎた方が良いのか、迷っているうちに、ヨハンさんから声を掛けられた。


「駿河は、此のことを知っていたのかな?」

 先に先生が僕に訊ねてきた。


「何のことですか?」

 昨日、エリーが言っていた「明日をお楽しみに」と「私が私に戻る」という意味がこれだとは知らなかったし、アノ曲が今の時代にどういう意味を持つものなのかも勿論知らなかったので、僕は正直に答えた。


「まあ、先生、もう其の話は止しマショウ。Herr Suruga.一年間、彼女を有り難う。」

「いいえ、此方こそ、色々とお世話になりました。」

「此の日を迎えて、彼女を無事に国に帰すことが出来て安心していマス。君の力は大きかった。」

「微力ながら。」

「何かあれば、直ぐに帰国という約束デシたから、本当に感謝していマス。」


 僕は、ヨハンさんの大袈裟にも思える感謝の言葉に少し戸惑ったけれど、留学生を一人預かるということは大変なのだろう、くらいにしか思っていなかった。


 *     *     *


「Suruga! Suruga! Kommen Sie Hier! schnell! schnell!」

(駿河!駿河! こっちに来て! 早く!早く!)


 大きな声が聞こえたと思ったら、エリーが中庭の噴水の前で飛び跳ねて手を振っている。僕は、ヨハンさんに一礼してから彼女に駆け寄った。


「Suruga! 約束、写真撮ろう!」


 興奮すると辿々しくなるエリーの日本語が、殆ど分からなくなっている。

 式での姿、ほぼ其の儘の彼女は、どうやら付き添いの人らしい女性に自分のカメラを渡して早口のドイツ語で何かを言っている。


「ホラ、早く! 今日はベーデから許可貰ってるから、安心シテ。」


 エリーは僕と腕を組むと、はしゃぎながら何ポーズか写真を撮って貰っていた。

 奇妙なことに、写真部の生徒がカメラを構えようとすると、先生がそれをやんわりと制止して、他の留学生を撮影するように促していた。


 何かに急かされているのか焦るように写真を撮り終えたエリーは、「じゃあ、あとで」と言い残し、カメラを持った付き添いの人たちと着替えに消えていった。


 其の後、教室に現れたのは、普段の三つ編みでお下げで眼鏡姿の、ドジでオッチョコチョイなエリーだった。


「そうそう、これじゃなきゃ分かんないよ」


 誰かの声に教室が湧いた。

 彼女も笑っていた。


「私もたまにはおめかしシマス。」

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