二文乙六 生誕 (12)侍従長
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は高校二年生。
強気の留学生エリーと、愛情深い彼女「ベーデ」の間で微妙なバランスをとる毎日。
親友の留学期間も残りあとわずか。彼女にとって晴れ舞台となる定期演奏会への客演練習が始まる。
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穏便に済むよう「オーストリア人の気持ちはなかなか理解し難いです」とでも訳そうかな、と思案する。
「アハハ、こりゃ噂に違わず手強そうだね。これじゃ、泉堂がやられるのも当然だな。」
交響楽団OBで、これまで指揮を担当してきた現役芸大生の泉堂さんが苦笑いしている。
其の間もエリーはぴくりとも笑わない。彼女が此の曲に懸ける想いがとてつもなく大きいのか、それともこれまでの交響楽団とのやりとりがそうさせるのか、僕には其の段階では想像しかねた。
「えっと、君は…?」
マエストロが漸く気が付いたように、エリーの後ろに背後霊のように影薄く、ぼーっと突っ立ている僕に掌を向けて訊ねてきた。
「Er ist Mein Transparent.(彼は通訳です)」
「成る程。意訳者か。 Sind Sie ihr Lieb?(彼氏かい?)」
「いえ、普段のお世話役です。」
「侍従長か。大変だね。お姫様のお世話は。」
「Nein, Ich bin nicht Princess. Ich bin nur...
(私はお姫様ではありません、ただの…)」
「分かったよ。冗談だってば。」
マエストロが苦笑いしながら両手を上げた。
「じゃあ、一回、通してみようか…。」
ジャケットを脱ぎ、ドレスシャツの腕まくりをしたマエストロの腕は運動部の僕でさえ刮目するくらいの筋肉だった。
僕はそれだけでも圧倒されて了ったのに、生の指揮者の迫力というものを初めて眼前にして、文字通り目をパチクリしていた。
同時に、天地創造という曲を初めて聞いた。
良いところ取りとは言いながら、曲名に恥じない迫力と荘厳さを持った曲であることはすぐさま理解できた。終曲まで通し終わって、マエストロがタクトを置く。
「…。」
非常に渋い顔を隠さない。そして言葉を選んでいる。
「…じゃあ、最初からやっつけていくか。」
再びにこやかに口を開くと、一曲めから指摘と共におさらいを始めた。
やがてエリーの詠唱の部分に来た。
「ガブリエルの詠唱につながる導入の処がス~ッと自然に入らないな。管が強すぎる。もっとお腹にためて、気分的にはpppくらいの優しさで維持して。其の空気の儘でガブリエルが自然に入れると良いんだけど。其処、小節番号…番からもう一回。」
演奏が始まり、そして止まる。
「ガブリエルはもう少し力を抜けるかな。」
エリーは指摘をはねつけた。
「いいえ、此処は神の栄光を初めて讃える部分ですから、力は抜けません。」
「じゃあ、表現を変えよう。天使とはいえ神の偉功に驚きを隠せない。其の喜びで初めて歌い始める訳だから、其の驚きを一息呑んだ感じで伝え出して呉れないか。」
流石にこうなるとエリーは理解出来ない。僕が意訳することになる。
「天使は単なる神の代弁者ではない。また、神の行為を最初から知っている訳ではないのだから、神の偉大さは認識していても最初に感じるのは驚きである。其の驚きを表すのは単純な強調ではなく謙虚さである。神の使いである天使だからこそ表せる謙虚さを歌で表現して欲しい。」
「Ja.」
エリーは淡々と従った。
進んでいくに連れ、エリーと交響楽団、合唱団、そして練習指揮者の泉堂さんが、何故衝突していたのかが分かってきた。
エリーは天地創造の歌詞、即ち旧約聖書の詞をカトリック教徒として素直に理解し、発言するときにも、其の儘を日本語で表現する。
其処には《神の偉大さ》と《ハイドンが込めた想い》許りが力強く表現される。
日本人は、それを耳にすると杓子定規だと理解する。だから歩み寄った答を返せない。
宗教的な理解の異なる両者が言い争う許りで解決の糸口が全く見出せないのだ。
そうしているうちに互いに対する不信感が高まり、にっちもさっちもいかなくなって了った。
マエストロがマエストロたるのは、言葉を超えた解説力を持っていることだと感じた。
常に自分が感じている曲想と演奏者が感じている曲想を突き合わせる。
演奏者が曲想について意見を述べるときも何手先までも読んでくる。
つまりは《音楽に関する会話》が成立している。
言語だけでは音楽の改善は出来ない。また、コンサートを作り上げるには音楽だけでも互いの意思疎通も出来ない。随所に実演奏とスキャットと解説を織り込むことでマエストロはエリーと見事に会話をしていった。
其の日、エリーは心配していた《議論》に陥ることもなく、無事に練習を終えることが出来た。
彼女は機嫌が良いのか悪いのか、マエストロに握手とともに一言挨拶をして黙々と片付けをする。
マエストロは忙しそうにジャケットを羽織って、
「じゃ!」
と全員に声を掛けて立ち去ろうとした。
「あ、そうそう。」
何か忘れ物でもしたかのように戻り、僕ともう一度握手をしながら、出口へと誘った。
「…ありがと。助かったよ。」
「いえ、先生の話力の御蔭です。」
「君の意訳がなければ通じなかっただろ? 僕は彼女の性格を知らないから、彼処まで言葉として訳せない。現役のお世話役だから出来ることさ。」
「微力ながら。」
「音楽家は音楽に頼る。それは正しいんだけど、コンサートには言葉が必要でね。」
「門外漢ながら、そう感じました。」
「其の言葉が足りないと、衝突しちゃうんだ。だから、このコンサートには君が絶対に必要だ。お願いね!」
「あ…。」
マエストロは、僕の肩をぽんと叩くと、にっこり笑って手を挙げて元気良く出て行った。
「マエストロは、何て言ってマシタ?」
「また通訳して呉れだってさ。」
「ね、私が言った通りデショウ?」
「そうだなぁ…。君が理解出来るように表現した日本語は、確かに君には通じないな。」
「Ja.」
「あと何回あるの?」
「二回デス。」
「分かったよ。」
「お願いシマス。」
彼女は珍しくペコリと頭を下げた。
* * *
演奏会当日。
可成りの人の入りに驚いた。まさに満員御礼状態。
おそらくエリーの個人的な知人というか、お祖父様とお祖母様とご両親関係の知人も多いのだろうということは、其の客層からも見てとれた。
「普段が地味な割には、時々ドカンと派手なことするよなぁ、エリーは。」
イチが隣の席で呟いている。
「彼女の芯は、噛んでも噛んでも噛み切れないぞ。」
「お? 彼女を味わったような言い方するじゃないか。ベーデは良いのか?」
「良くないわよ!」
いきなり、当人の声と共に後ろからスパーンッ…と殴られた。
「…来たならば、先ず正面から『こんばんわ。ご機嫌如何?』だろう!?」
後頭部をさすりながら言うと、ベーデは正面に回って来た。
「こんばんわ。紳士の皆さま、ご機嫌如何?」
恭しくスカートの裾を摘んで会釈をしている。
「順序が逆だろ。それとも何か? お前は俺に何か分の悪い発言があるのを常時待ってから登場か?」
「あら、待ってる訳じゃなくて、私が貴男を見つけると大抵都合の悪いお話の真っ最中なだけよ。それだけ確率が高いってことは、さぞや濃厚に味わっておられたのでしょう?」
気持ちの悪いほど丁寧に言い終えると、彼女は其の儘僕の前の席に腰を下ろした。
「…済まん、鳥渡、前を…。」
「大変だな。妻帯者は。」
級友たちに失敬して前の列に周り、彼女の横に座った。
「
ベーデは普段のように、つんと澄まして前を向いた儘言った。
「俺とお前の仲で其様な一言は要らん。」
僕も前を向いた儘言い返した。
「あら、今日は珍しくレッド・バトラーなのね。男友達の前だから強がってるの?」
「一言断っている間に、美しい君の隣に誰か他の男が座ったら嫌だからだ。」
「へぇ…。」
彼女は流し目で此方を見て少し満足そうに笑った。僕は其の顎に軽く手を添えて口づけをした。
「…よろしい、機嫌を直してあげるわ。」
彼女は座り直して前を向いた。
「…ア痛ッ!」
満足そうに座っている彼女とは好対照に、僕の方は再び後頭部を打たれた。
「ラブ・コメディの見料だ、取っとけ! それと、早く唇に付いた紅を拭けッ!」
イチたちが笑っていた。
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