二文乙六 表象 (2)無理しなくて良いの

 エレベータの扉が開くと、急にテレビの音量を上げたように雑踏の喧噪が飛び込んできた。


「うわ、凄い湿気…。」

「雨と、人熱ひといきれだね。」

「うーん、鳥渡ちょっと避け度いわぁ。」


「銀座線にでも乗るかい?」

「どうして?」

「思いつき。」

「良いわ。付き合ってあげる。」


 *     *     *


 先刻さっきまで上から見下ろしていた複雑な線路を通って、オレンジ色の車両が重たい響きと、スコンスコンという軽妙なポイント通過の音を立てて乗車ホームに入って来た。

 リベットが打たれている重厚な車両の扉が開いて、クッションの利いた席に座る。昼下がりの銀座線は、始発の渋谷駅から乗る人もまばらで、車内は閑散としていた。


「ん?」


 端に座った彼女ベーデは、僕の片手を取って自分の膝の上に置くと、両手でそっと挟んだ。


「これが自分の心に正直で、なおかつ自然な動作っていうものよ。」

「流れるようにやったね。」

「行き過ぎた作為のない自然な動作には、常に当然の理屈があって無駄が無いから、円を描くように流れるの。」

「千利休みたいなことを言うねぇ。」

「天気に相応しいでしょ?」


 発車前の静かな車内に、モーターの音が響き始めた。


 *     *     *


「え?」


 此の季節、窓を開けた銀座線の車内では隣に座っていても大きな声を出さないと会話が出来ない。駅に着く度に途切れ途切れの会話が続く。


「女の子ってのは、常時いつも何かこう心ときめく香りがあるもんだな。」

「それはね…。」


 ホームの発車ベルがけたたましく鳴ってドアが閉まる。

 彼女は微笑んだまま黙っている。駅に着く直前で車内の照明が一瞬消えて非常灯が点く、架線ではなくて送電レールから電気をとっている銀座線と丸の内線の特徴だった。

 そして、ドアが開くと会話も再開する。


「…それはね、女の子だからよ。」

「それじゃ答えになってないだろ? 禅問答じゃないんだからさ。」

「じゃあね…。」


 またドアが閉まり、路面電車のような轟音を立てて電車が走り始める。電車の横揺れに合わせて、人気の無い車内の吊り革が綺麗に揃って揺れている。


「…動物だから。」

「一言の下だなぁ。」

「男だって一緒よ?」

「男の匂いか?」

「ええ…。」


 銀座に着いて車内が賑やかになった。僕は自然に彼女の膝の上から手を抜いた。彼女は(勇気がないわねぇ…)と言わんばかりの笑みで見ている。


一高うちはさ、フライドポテトみたいなニオイだぞ?」

「匂いと言っても、そういう物理化学的なものとは違うわよ。」


 電車が京橋に近付く。


「次の次で降りよう。」

「ええ。」


 日本橋。また電車の中が少し空いた。


「でも、女の子は良い香りがするぞ?」

「それは女の子だもの、良い香りもするわよ。」

「だから答えになってないって。」


 三越前に到着した。

 改札口を出れば目の前が三越の本店入口だ。

 黙った儘エスカレータを上がる。一階の中央には此処のシンボル、巨大な天女の像が吹き抜けで聳え立っている。


「人間の願望の最たるものね…。」

「こういうの、嫌いかい?」

「ううん。美しいものは好きだわ。」

「まさに、見上げてこそ、って感じだな。」

「憧れはいつだって見上げるものよ。」


「憧れって手が届くものなのかな。」

「手にし度いから形にするのよね。香りだって、こう在り度いっていう匂いを付けるんだもの」

「男は香水ってあまり付けないけど」

「男の香りもあるけど、仄かな香りの向こうに其の人の人間像を垣間見るのよ。」


「フライドポテトの向こうにか?」

「ムードがないわね、そういう香りじゃなくて動物的な直感の香りよ。」

「女性の香りは化学的な感じだけどなぁ。」

「でも其の向こうに人間としての女性を感じている筈よ。」

「はぁ、成る程…。」


「だから、全ては願望なのよ。此の天女の像のように。」

「あ?」

「感覚は客観的かも知れないけど、観念は主観的なものだわ。だから香りも偶像も結局はそれを通して相手に対する自己の願望でしか有り得ない。」

「それじゃ擦れ違わないか?」

「擦れ違わずに合致したときが必然なんじゃないの。一方的なものは偶然よ。環境に言動が一致してこその必然よ。」


「此の天女も綺麗だと思うけど、お前にはそれ以上の何かを感じるな。」

「そう、それが私に届いているからこそ必然なの。私も貴男にそれを感じているから。」


 若草色のワンピースがサラリと微かな音をたて、彼女は僕の肩に頭を預けてきた。

 リンスの香りと共に、彼女らしいシャボンのような優しい香りがふわりと漂った。


「お前と一緒で良かった。」

 手を回して髪の毛にそっと触れた。


「駿河に会えて良かったわ。」

 彼女の手がそっと僕の膝の上に置かれた。


「無理しなくて良いのよ?」

「何が?」

「貴男はいつだって一生懸命やっている。何もかも100%なんて、神様じゃないんだから求めないで。」

「でもベストは尽くす。」


「ん~。だけど、最後まで残すべき一番大事なものは分かってるわね?」

「僕の女神様だ。」

 彼女の肩を軽く叩いた。


「よろしい。それだけ分かっていれば安心だわ。しっかり頑張っていらっしゃい。私はいつだって帰りを待ってるから。」

「有り難う。」

御許みもとに。」

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