二文乙六 表象 (1)全てが当然なのよ


【ここまでの粗筋】

 主人公の天然「駿河轟」は第一高等学校に、ツンデレ彼女である「ベーデ」は名門女子高に通う二年生。

 駿河は「金髪碧眼」のゲルマン少女留学生「ェリィ」と共に巻き込まれた「調整委員会」の難局も、ェリィの肝の太さと補佐役の先輩の助力で乗り越えた。

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 梅雨のはしりがやって来た五月の花冷えの頃。


「何? 随分と草臥くたびれてるわね?」


 渋谷駅の井の頭線脇にあるビル。其処の何階かにある、あまり一見さんは訪れないような(と言っても敷居が高いのではなくて、入口が非常に分かり辛いだけだったのだけれど)カフェ・レストランの席でベーデが問い掛けてきた。


「ん?」

「先刻から窓の下ばっかり眺めてて、視線が虚ろよ?」

「そうかい?」


 確かに僕は綺麗に磨かれた窓の下に見える、複雑な線路を行ったり来たりしている銀座線のオレンジ色の電車を所在もなく眺めていた。


「忙しいの? 最近、夜に電話してもまだ帰ってないことが多いけど。」

「ああ、級長やってるからな。何か催事になると実行委員と一緒になぁ…。」

「貴男が級長じゃあ世も末ね。」

「そうだなぁ…。」

「嫌だ、愈々疲れてるわね。言い返しもしないなんて。」


 ベーデは今度こそ本当に心配そうに訊ねている。


「心配?」


 銀座線からテーブルの上に目を戻して、目の前に居るベーデに視線を合わせた。


「何よ、生気の抜けたような顔をして…。」

 鳥渡ちょっと驚いた風に彼女が首を引っ込めた。


「忙しいのは確かかもなぁ。」

「何もかも自分で抱え込んでると、また中学校の時のようになるわよ?」

「え?」

「ほら、靴を履き忘れたり、ズボンを履き忘れたり…。」

「あはは…はぁ。」


 僕は実際に疲れていた。というよりもベーデの言うように《草臥くたびれていた》という方が正しいかも知れなかった。

 級長の仕事だけが忙しい訳でもなく、応援部だけが忙しい訳でもなく、留学生ェリィのお世話役だけが忙しい訳でもなく、勉強だけが忙しい訳でもなく、兎に角、何だか色々雑多にあり過ぎて《回っていない》状態に近付いていた。


「はぁ…じゃないわよ。本当に大丈夫?」

「ん? 忘れるって言えば、昨日、駅に自転車忘れた…。」

「ほらぁ。」

 ベーデが顔を蹙めて睨んでいる。


「抱え込んでいる訳じゃなくて、どれもしなきゃならないことなんだけど。」

「達成目標を高く見積もり過ぎてるとか、時間配分が間違ってるとかは?」

「ん~、そういうことは、全然考えてない。」

「私が《はぁ》だわね。」

「ごめん。」

うしたら元気が出るか知ら?」


 眠気と気怠さで重い瞼をもって顔を上げると、彼女はゆっくりと瞬きをして心配な中にも優しそうな面立ちで此方を見ている。


「其の表情で優しいことを言って呉れるだけで元気になるよ。」

「本当に?」

 小首を傾げて眉をハの字にしている。


「ほんと。心配して呉れる人が居るだけで凄く嬉しい。然も、普段なら人の心配なんかしそうに見えない人がして呉れるとなれば尚更だ。」

「なんか余計なことも聞こえたけれど、私も役に立ててるようで嬉しいわ。」


 僕にとって、気丈な彼女の存在は生活の張りだった。

 前向きで挑戦的な彼女の言動は、時として不器用な伝え方のことはあっても、常時いつも前進するための原動力だった。そして、時折見せる包み込むような温もりと真っ直ぐな優しさは、心の安寧だった。


「静かだなぁ…。まるで音を消したテレビを見ているみたいだ。」

「濡れると鬱陶しいけれど、雨もこうして見ている分には落ち着くわね。」


 僕らは窓下の銀座線のガード越しに見えるハチ公口の交差点を眺めながら呟いた。


「これだけの人がみんな夫々の生活を持っているって、不思議に感じることないか?」

「何?」

「電車に乗っていて見える無数のビルの窓の一つ一つにさ、仕事をしている人や生活をしている人が居るんだよ。自分の知らないビルや、行ったこともないビルの中にも人が居て、其処に考えや行動があるんだよ。」

「其様なこと考えてるの? 此の忙しいときに。」

「ただの思いつきさ。」


 運ばれてきたグラタンを突きながら他愛もない会話を遊ばせた。


「貴男、此処に来ると常時いつもポテトグラタンね?」

「お前は常時いつも違ったものを頼むなぁ。」

「それは、折角なら色々試してみたいもの。貴男は余程お気に入りなの? それとも保守的なの?」

 彼女はグラスに注がれた水をストローで飲んだ。


「考えるのが面倒なこともあるけれど、冒険は好まないのかもな。」

「妙なところで女性的なのね。」

「そういうお前は、此処じゃ常時いつもストローで飲むなぁ?」

「だって、今は昼間よ。西村でならともかく、こういうグラスに自分の唇の跡が付くなんて耐えられないもの。」

「そうか?」

「そうよ。」


 彼女は黙々と、小気味よく綺麗にマカロニを口に運んでいる。


「あれだけ人がいっぱい居てもさ、本当に知り合える数なんて其の内のほんの一部だろう?」

「そうね。」

「其の一部の中でだけでしか相手を選べないっていうのは、どうなんだろ?」

「何か不満なの?」

「俺は偶々たまたまお前と巡り会えて幸運だったと思っているんだけどな。」

「有り難う。じゃあ、それで良いじゃない。」

 少し不思議そうで、少し用心した眼差しで此方を見ている。


「不思議だなぁ、と思ってさ。」

「全てが《当然》なのよ。運命という言葉は使わないけれど、自分の言動と環境から計算されて起こるべくして起こった結果なんだから、素直に受け容れれば良いんじゃない? もしも嫌なら行動を起こせば良いだけで。」

「ふーん。言われてみればそうだな。」


「何か不安でもあるの?」

「去年は常時いつも何か言い知れない不安があったけど、今は大丈夫だ。」

「何故解決したの?」

「不安の原因は自分で自分の道を決めてないから、だと分かったから。」

「へぇ、其の割には優柔不断と訳の分からない長考癖が治らないわね。」

「考えてるだけまだましさ。考えていないと不安になる。」

 彼女がナプキンで口を軽く押さえ、正面から僕を見た。


「時には、其の時の思いつきで動いてみたら? 日々の小さなことは。」

「ん、考え過ぎも良くないかもな。」

「じゃあ、ご馳走さま。」

 彼女がレセプトのボードを此方に押し出した。


「げ!」

「カウンセリング料よ。」

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