一音六 自学 (1)イカカイの方面

【ここまでの粗筋】

 主人公「駿河轟」は、第一高等学校の一年生。

 中学卒業直後から交際を始めた同級生の盟友「ベーデ」とは別々の進学先。

 女子高に進学して地味な毎日を送るベーデとは対照的に、「応援部」に入った駿河は個性的な先輩の洗礼を受ける日々。

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 入学から二か月、高校最初の定期試験の結果は惨憺たるものだった。


「おい駿河、どうだったい?」


 部室で今川カイゼルさんが、興味深げに訊ねてきた。入団以来、駿河轟の轟の読み「go」をドイツ語で言えば「gehen」だということで、応援部での僕の呼ばれ方はゲーエンで定着して了った。ゴウという音で定めるか、トドロキという訓で定めるか、いろいろ揉めていたが、判り易くてヨシ、ということで前者に決まった。


「どうもこうもないですよ。先刻さっき進路面接で志望を言ったら、それは志望じゃなく無謀だと言われましたよ。こういうものを惨憺たる結果と言って、其の進路はまさに暗澹たるものだとも。」

「まあ、進路面接なんぞ言っても、今回と三年最後の二回しかないから、そう腐るな。それにしても、其様な韻を踏んで言われるほどか? どれ見せて見ろ。」

 今川カイゼルさんに、成績表を渡した。


「あ? 数学二十二点、生物四十五点、地理六十二点、英語十七点、現国二十一点、古典七点…お前、志望職業は何だ?」

「…外交官です…。」

「何? 生命保険のか?」

「それは、外交員でしょう…。」

「そうだな。お前、ずっと日本在住だろ? 帰国子女ではないよな。」

「そうです。」


「はあ、何だって現国と古典を合わせても三十点いかないんだ?」

「さて…。」

しかも英語も二十点切り、地理がまともに見えるくらいだな。それだって赤点ギリじゃないか。アッハッハ、こりゃ良いや。」

「笑い事じゃないですよ!」

「だって、俺の成績じゃないもの。」

 今川カイゼルさんが、真顔で言っている。


「失礼します…。 な~に? 駿河君ゲーエン初体験ヴェルゼ?」

 小林ヘルツさんがニヤニヤしながら部室に入ってきた。


「お前の後輩とは思えんな…。」

 成績表が今川カイゼルさんから小林ヘルツさんの手に渡る。ニヤニヤしていた彼女の顔が見る間に般若のように変わっていく。


「うえ! 駿河君ゲーエンッ!」

「はい。」

「私は君を此様こんな風に育てた覚えはないわよッ!」

「僕も此様な風に育った覚えはないです。」

「失礼します…。 あら、お賑やかだこと。」

 久我ゾンネさんが扇子をバタつかせながら登場。


「誰の~?」

 小林ヘルツさんから成績表を奪い取って眺め入る。


「ウァ! 何、これ?」

 汚いものでも掴むように親指と人差し指で摘まれた成績表がぶらぶらしている。


「其様な持ち方しないで下さいよ。僕のです!」

「だって、馬鹿が伝染うつるもの!」

「あ、酷い言われ方ですね。」

「そりゃ、言われるよ、ね~!」

 小林ヘルツさんと久我ゾンネさんが、声を揃えて顔を見合わせている。


「お前、まさか教科書なんか勉強していたんじゃなかろうな?」

「していましたよ…だから、此様な点数なんじゃないですか。」

「誰も駿河ゲーエンに、勉強の仕方、教えて遣らなかったのか?」

「だって、小林ヘルツが教えてると思ったもの。」

「あら、男は男同士でしょ?」

「あ、小林ヘルツ冷たいんだなぁ。自分のところの後輩くらい最初は自分で面倒みろよ。」

「そんなことを言ったって、常時いっつも男同士でどっか行っちゃうじゃないの?」


久我ゾンネも誘惑してる暇があったら、勉強くらい教えてやれよ!」

「あら、勉強は自分でするものよ。それに一中ピンの優等生になんか畏れ多くて教えられませーん。」


「そもそも一年の面倒は二年の仕事だろ?」

「なんか一生懸命やってるから大丈夫だと思ったし。」

「聞かれないからもう誰か教えたと思ったし。」


「分かりました…皆さん、冷たいですね…。」

「まあまあ、お前まさか、推薦で大学に行こうって訳じゃないんだろ?」

「ええ、まあ一応一般で。」

「なら、別に成績表の点数なんか、それほど気にすることじゃぁない。」


「でも、お前、此の成績じゃ大学進学以前に二年に上がれないぞ。」

「寧ろ大学に行ってからの成績に影響するわよ。」

「あの、皆さん、心配して下さるのは有り難いんですが、僕はどうしたら良いんでしょう?」

 そう言った途端、皆が一斉に息を潜めた…。


「良いですよ、もう分かりました!」

「まあまあ、そう腐るな。お前、生物と地理でもう少し頑張れば《イカカイ》に入れるぞ。」

「おお、そうだ、そうだ。」

 今川カイゼルさんが膝を叩き、真面目ぶった顔で賛同している。


「何ですか、其の《イカカイ》って、医学部進学か何か目指すんですか?」

「違う違う、其の《医科》じゃあない。」

「有る意味天才肌の人たちの集まりよ、全科目25点以下の人間が集まってるサロン。」

 小林ヘルツさんが、鳥渡ちょっと近付きたくないというニュアンスで説明した。


「否々、あれはあれで、芸術系に立派な進学実績を残している。」

「僕は、どうも《イカカイ》の方面ではないみたいなんですが…。」

「じゃあ、素直に勉強しろ。」


「…私が教えてあげようっかぁ?」

 部室の端っこの方で机の上に足を投げ出し、黙ってドイツ語の雑誌を読んでいた久我ゾンネさんが漸く口を開いた。


敬遠いいですよ。久我ゾンネさんに教わったら、成績が悪くなるより、もっと悪いことが起きそうですから。」

「オシ、よく言った、駿河! 良いぞ! 日本一! ヨッ!」

 今川カイゼルさんが手を叩く。


「其様なこと言って、あとで泣き言いっても知らないよ、僕ぅ?」

 久我ゾンネさんは相変わらず雑誌から目を離さずに、独り言のように呟いている。


「大体、久我ゾンネさんだってイカカイの人たちと似たような成績なんじゃないですか?」


 僕は、彼女が試験期間中、肩凝りに悩む人のように「あ~駄目、全然駄目、うわぁ駄目…。」と、譫言のように言っていたのを思い出した。


「そうねぇ、確かに最近は全然駄目ね。」

「お前が駄目だったら、俺たちはとっくの昔に放校だ。」

 今川カイゼルさんが新聞を投げ出した。


「意外と…良かったりするんですか? 久我ゾンネさんて?」

 不安になって小林ヘルツさんに聞いてみる。


「そう、意外と、ね。」

久我ゾンネは十傑から出たことがない。『全国模試』で。」

「へ?」

「三傑に入れないときは駄目、五傑に入れないときは全然駄目。だそうだ。」

「ほぉぉぉぉ…小林ヘルツさんは?」

 僕は、一中ぼこうの星だった小林ヘルツさんを振り返った。


「私? おほほほ、百傑に入るか入らないかが良いところ。」

「全国ですか?」

「そう。」

「あらぁ…。他の皆さんは?」

「聞くな。」

「以下同文。」


「…久我ゾンネさん?」

「ダメ、絶対教えてあげない!」

 久我ゾンネさんは雑誌を乱暴に放り投げると、彼方あちらを向いて言い放った。


「其様な、意地悪言わないで下さい…。」

「じゃあ、勉強の後に奉天飯店の全部載せ湯麺をご馳走して呉れるなら、教えてあげる。」

「え…それじゃ一週間分の小遣いが…。」

「だって、私は君と似たり寄ったりのダメ~~な成績だもの。」

「うううう…。」


「そうねぇ、僕ちゃん可哀そうだから、ご馳走して呉れたら、其の代わり、毎日お茶をご馳走してあげる。」

「お、駿河、プラス・マイナスでみればお得だぞ!」

「でも…奉天の全部載せは…。」

「決断だ、決断! 男は度胸!」


「分かりました。じゃあ…お願いします…。」

「ダ~メ、全然、心が籠もってない。」

「此の通りです!」

 最敬礼で頭を下げた。


「分かったわ。じゃあ、教えてあげる。」

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