母と私

 土曜の早朝。平日よりスーツ姿が極端に少ない駅構内を歩いた。


 小さなバッグひとつで急行に乗り込む。そういえば、就職して家を出るときも荷物が少なかったことを思い出した。


 現在の居住地と実家は、中途半端な遠距離にある。


 気軽には行けない距離だ。少し顔を出すだけでも一日仕事になる。そのことを言い訳にしていたのだと、今さら気づいた。


 帰ろうと思えばいつでも帰れる。でも、私はそうしなかった。


 もしかしたら、心のどこかで分かっていたのかもしれない。


 電車が、ビル群から少しずつ離れていく。高層ビルがまばらになって、住宅地ばかりの景色に変わっていく。


 長い時間、電車に揺られると、田畑が点在するようになる。


 何度か乗り継ぎをして、小さな駅に降り立つ。空気のにおいは、子どものころと変わっていない。


 母はひとり暮らしだ。


 弟妹たちも就職や進学で、すでに家を離れている。さみしそうにしているかと思いきや、案外そうでもないらしい。ごくまれに連絡を取ると、いつも忙しそうにしている。


 今日も予定があるらしい。


「近くに新しくカフェができてね。職場のひとと行くのよ」


 母はベランダで洗濯物を干しながら、楽しそうに私を振り返った。


「そうなんだ……。この間はごめんね、おばあちゃんの三回忌。仕事で来れなくて」


「いいのよ、形だけだし。さっさと済ませちゃったわ! あの日はね、私も用事があって」


 楽しそうに、その「用事」を話してくれる。お花の教室らしい。


「お友だちとね、一緒に通ってるの」


 ベランダに続く扉をカラカラと閉める母の後ろ姿を眺める。私と同じで、母も痩せている。華奢な背中だ。


「そうなんだ」


 子どもを三人抱えて、仕事をして。大変だったろうと思う。だから、今は自分ひとりの時間を大切にしてほしいと思う。幸せになってほしいと思う。


 仕方のないことだった。私は少しだけ、犠牲になっただけなのだ。


 いや、違う。犠牲なんかじゃない。


 家族はチームだから、私もその一員だから、協力し合っただけ。


 思考がぐるぐるとめぐる。胸の奥が妙に気持ち悪い。


「お昼、食べて行く?」


 母の明るい声に、ハッとして顔をあげる。


「カフェで何か買ってこようか」


「……ううん。おばあちゃんのお墓参りして、帰る」


 作り笑顔でしかいられない自分がイヤだ。


 母は本心から笑っていることが分かって、余計に。


「そう? ま、行き来するだけで時間かかるものね」


「うん」


「あ、お茶でも淹れるわね」


「ありがとう」


 幸せになってほしいと願っている。


 本当に、そう思っている。


 でも、私はそこには加われない。一緒にいるとたぶん、堂々巡りをして、ずっと胸の奥が気持ち悪いままになる。


 母は何も悪くない。私が勝手に悲しくなっているだけ。


 心を込めて作ってくれたごはん。あっさり味の煮物。今でも思い出すと、やさしい気持ちになれる。そのことだけが救いだった。


 あの日の小さな背中は、自分で抱きしめればいい。


 母が淹れてくれた紅茶に口をつける。母が身支度を整える間に飲み干す。


 約束の時間に間に合うように、一緒に家を出た。少し歩いて、私は祖母のねむる墓地へ。母はカフェがある新興住宅地のほうへ。


 細い三叉路で別れた。


「気を付けてね」


 明るく手を振る母に、私はうなずいた。


「うん、ありがとう」


 また、何か理由があれば、ここに来る。


 それは、何もなければ決して来ないという裏返しで。そういう場所でしかないことが悲しかった。


 ほっそりとした後ろ姿に向かって、私は小さく手を振った。


「……おかあさん、またね」

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