第18話 凶兆の一つ
ボクは前の世界の記憶を失ったわけじゃない。
ただ、今はその記憶を引き出しにくくなっている。
それくらいしないと他言語、しかも異界の言葉を真に理解出来ないと思った。
というのが半分。もう半分は悪魔言語の禁止令が出ていること。
とは言え、流石に2年と半年も経つと少しずつ、分かってくる。
「座学用の本はこれくらいかな」
二年間の座学の授業で、ふと気がついた。
流石に保健体育は早すぎるが、生命、生物に関する話の一部が出てこない。
そして三年目の終わり頃、一部の生徒の二次性徴が始まるころ、性教育が始まった。
性交、出産には膨大な魔力が必要なため、魔力量が低いうちの性交は命に関わる。
そのため本能的に魔力量が出産に耐えうる年齢にならなければ、恋愛、性欲などの感情は生まれない。
間違っても興味本位でそういうことを行うなというものであった。
確かに命の危険を犯してまで青春するものではない。
逆を言えば、しっかり子供を産みたければ、慎ましく生活して、無駄に魔力を消費するなという教訓を教える講義だった。
だけど、やっぱり出てこない。
ここまで徹底するのか、と首を傾げたことがある。
——古代の文明ではさして珍しくない慣習だ。珍しいことではない。
「……」
「ソリス、…何ぼーっとしてるの?」
「ふぇ⁉…あ、えっと」
声が聞こえた気がした。その出所は分かっているけれど、こちらの言語では表現できない。
だから、何も言えない。
人間にとって言葉の発明ってとっても凄いことだった。何となく思うこと、それとなく気付くこと。それらを詳らかに出来る。ううん、そうする為に生まれたのかも。
「やだ。本当にぼーっとしてたの?心の中で考える時も、アルテナ語で。大丈夫?」
「あ…、うん。できてる…と思う」
「神官長様からの言いつけなの。ソリスには悪いけど、そこは厳しく言わせてもらうわよ。…で、明日からの合宿の準備はできた?」
「出来たよ。算術、地理、歴史、聖書…、あとエステリア様の包帯と眼帯‼」
「最後の二つって本当に要るの?」
「ボクの力を封印しないといけないんだから」
「そっかそっか。それじゃ、お姉ちゃんがまた巻いてあげるね」
ボクは神官長と相談して、前世の言葉を封印する方法を模索した。
その結果、神官長とその時のボクが導き出したのが、この二つだった。
だからボクは左腕と左目を封印する。
「大丈夫。合宿中はボクが一人で巻かないといけないんだから」
「それもそうね。でも、先に体を洗ってきなさい。巻くのはその後だからね。あ、そうだ!久しぶりに洗いっこする」
「え…、だ、大丈夫。ボク一人でもちゃんと洗えるし」
「えー。最近冷たいー。お姉ちゃん、さみしいー」
□■□
ライブスが俺に半眼を向けている。
「ソリスのお姉さん、こないだ初めて見た。めちゃくちゃ美人…、なぁなぁ。一緒に体を洗ったりとか…」
「してない!…前はしてたけど」
「マジかよ‼俺も呼んでくれよ‼」
そんなライブスにロザリーが半眼を向ける。
「何、馬鹿な事言ってるのよ。それに美人ならここにいるわよ。ソリス。アンタのお姉さんと私、どっちが美人?」
「おいおい。貴族令嬢の言葉とは思えないぞ。それに、そういう意味じゃないんだよ。確かに顔だけ見れば…、いや。まだ子供だな」
「なんですって?」
ボクはライブスとロザリーの三人で居ることが多い。
今も目的地に向かって歩いている。貴族令嬢って馬車に乗って移動するイメージがあるし、実際にそうらしいけど、ロザリーは進んで歩いている。
勿論、山道を歩くのも合宿の授業の一つってのもあるんだけど。
因みに同じ神官枠のニースはボクの後ろ。気遣っているのと監視をしているのと。
あと、ボクが眼帯をつけているのは彼女しか知らない。基本的に左目は髪の毛で隠しているし、固定用のひもは神官長が取り寄せたもので、殆どボクの髪と同じ金色の糸で、知らなければ気付かないくらいの逸品だ。
「ね。ライブスのお父さんとお母さんの農場って牛さんとか豚さんも飼ってるの?」
「ん、そりゃそうだよ。ま、管理してるだけだから、何となくしか知らないけど」
「管理だけ?貴族の真似事ね。解体して捌いて、物々交換してってイメージだったわ」
「そういうのは従業員の仕事だよ。ま、指導する必要があるから、一通りは出来るけど?」
「…つまり、動物の解体は出来る。だったら…、何故…」
その時、背後から気配がした。耳元で「ソリス?」と聞こえる。
神官家系ニースは、知恵と伝聞の神「メルキュリ」の加護を持つ。
もしかしたら、考えていることまで見透かされているのかも。
だったら、こっそり考えることも出来ない。
とにかく彼らはボクのもう一つの人格をひた隠しにする。
そこまでするなら殺したらいいのに…なんて考えたくもないけど。
「ん。ソリス、どうした?」
「え?いや…。そういえば最近、お肉食べてないな…って」
「お肉ねぇ。やっぱり神官は嫌うのかしら。神学校の食堂には肉料理がないわね。私とライブスは朝食と夕食は勝手に食べてるけど」
「マジ?俺だって食べてねぇのに?流石はお貴族様だな。」
「はぁ?どういうことよ。だって…」
ボクたちはずっとお喋りをしているが、先生からのお咎めはない。
理由はちゃんとついてきているからだ。
向かっているのはアクアス山系の隣の山であるディーネ山。アクアス山頂から見て南西に位置する。
そこからならグラスフィール領が見えそうだから、とリーネから出来れば様子を見てきてと言われてもいる。
それはさて置き。山道をもうすぐ10歳になる子供たちが歩く。誕生月は違うし、二次性徴の始まり時期も違うから、身長はバラバラ。
ライブスとロザリーは成長時期が早いから、山道も平気そう。
一方、後ろを歩くニースはしんどそう。
「はぁ?お貴族のお嬢様は知らねぇの?そいつんち、魔牛病を出したせいで家畜が殺処分されたんだぜ」
「え…、何…それ」
わざわざ立ち止まり、振り返って言ったのはデイツ。
そして何?と言ったのはボク。
「てめぇ…、知ってたのかよ‼」
「当たり前だろ。そのせいで肉が高騰して大変だったんだぜ。公爵様が兵を動かさなきゃいけないからって、一部の道も封鎖された。通行料も高くなって、おふくろがピキピキだった。いい迷惑なんだよ」
「はぁ?どうせその分、料金上乗せしたんでしょ。逆に儲かってウハウハだったんじゃない?」
「ケッ。お嬢様が知った風な事を。高い高いって睨まれて、愚痴を言われるのは俺達商人なんだからな。それくらい当然だろ」
やっぱり何か変。
良い機会だし、そういえば話したことが無かったから言っておく。
人々は迷っている。凶兆を知るたびに恐怖している。
世界の終わり、なんてものではなく、文明の崩壊を危惧している。
そして、文明の崩壊を齎すモノの存在も、実は分かっている。
「でも、そういうことだったの。それって凶…」
「えっと、魔牛病って…、一体」
「人間しか持っていない筈の魔力を動物が手にしてしまう病のことよ」
「先祖代々言われてることだ。飼育してる動物を放置すると魔物になる。だから、最期まで大切にするようにって。ちゃんと守らせていた筈だ」
「どうだか?お前んとこ、アレクス信仰もしてるって聞いたことあるんだけどな」
魔王が復活するとか、神々が怒って天変地異をもたらすとかじゃない。
人間が起こす大戦争。だから——
「ソリス…」
「ひ…‼はい‼」
えっと、なんだっけ。確か、いくつかの凶兆が重なると、それを利用する人が出る。
「確かに雇われてる人間にいる。それに太陽信仰は別に悪いことじゃないだろ。特に農家にとっては雨と太陽は大事なんだ」
「ま、俺達はどっちでもいいんだけどな。そこの貴族のお嬢様はどう思うか…」
「アレク国の独立は、私たちアールブ領には関係ないわ。…そもそも王が動くべきなのよ」
ボクが生まれる前に起きた、人々の反乱も凶兆の一つ。っていうか、これはそのまんまだ。
そしてその凶兆を耳にして喜ぶ者と、そうでない者がいる。
これがボクがボク自身を隠さないといけない理由でもある。
だからこそ、ボクを殺せば良かったのにと思う。
最初の一手、反乱国アレクの近くの孤児院に送ったのは、それが狙いだったとしか思えないのだから。
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