四足歩行の転校生

小野繙

四足歩行の転校生

 ヤバイ転校生が来るらしいぞ、とお調子者の吉田君が息を切らしながら教室に駆け込んできたので、クラスの面々は顔を見合わせてその言葉の意味を計りかねていた。これが単に「転校生が来るぞ」ということであれば、「嘘だあ」とか「どうせ吉田情報でしょ」と呆れつつも本当に来るかもしれない転校生の姿を思い思いに想像していたものであるが、ヤバイ転校生という言葉には何かしら簡単に済ませてはいけないような力がある。「何がどうヤバイんだよ」と誰かが聞くと「それは知らんけど」と吉田君が返すので、教室は興奮したジャングルの如く盛り上がる。どう考えてもそこが一番大事だろ、吉田お前適当なこと言うなよとクラス中から怒声が飛び交うが、「でもマジでヤバイとしか職員室の先生も言ってなかったんだよ、それ以上はわかんねーよ!」と唾を飛ばす吉田君の姿を、教室の隅から美保は見ていた。

 ヤバイ転校生?

 美保は眉を顰めた。そのフレーズは美保にも刺さる。一年前のちょうどこの時期、転校デビューに華麗に失敗した美保にとっても。

 中途半端な時期に転校させてしまってごめんな、とは単身赴任を嫌がり転居を伴う転勤を押し切ったパパの言葉だが、本当にそう思っているなら単身赴任してくれれば良かったのに、というある種の毒を呑み込んで、知らない生徒たちに混ざりながら知らない中学校の敷地へと恐る恐る足を踏み込んだのが転校初日のことである。あの日、美保はママに言われた通りに職員室に行き、担任を名乗る黒田先生に二年二組の教室の前まで連れてこられたのだけれど、入って良いぞーという言葉に従いクラス中の視線を引き連れて黒板の前まで歩みを進めた美保は、それでは自己紹介、と言われた瞬間に頭の中が真っ白になってしまって、教室をざわめかせるには十分な時間のフリーズを経て先生の声で我に返り、ようやく蚊の鳴くような声で床を見つめながらボソボソと行った陰気な自己紹介が良くなかったのだろう、転校初日にも関わらず、美保に話し掛けてくる生徒はクラス委員を名乗る松浦さん以外に誰も居なかった。松浦さんは「大丈夫、きっと斉藤さんにも友達ができると思うから」と温かな笑みを浮かべて去って行ったのだけれど、その他人任せの慰めは暗に松浦さんが美保と仲良くなる気がないことを示していたし、そもそも美保の名字は斉藤ではなく佐藤だった。

 以来、美保は靴を隠されたり机に落書きをされたりクラス中からガン無視されたりということは決して無かったのだけれど、名前呼びが活気良く飛び交うこのクラスでどの生徒からも佐藤さんと呼ばれる立ち位置を獲得し、教室の隅でただひたすらに読書をする無口な(家ではよく喋り大声で笑うのに!)女の子として、秋の海のように凪いだ学校生活を送ってきた訳である。

 つまるところ、美保に友達は居なかったのだ。誰一人として。

 そう考えると、見方によっては美保も「ヤバイ転校生」なのかもしれないなあとしょんぼりしていると、出し抜けに美保が所属している三年一組の担任である鬼頭先生が青い顔をして教室に入ってくる。すぐに吉田君や前川君が「きとせん、転校生いるってマジ!?」「ヤバイやつなの!?」と質問攻めにするが、鬼頭先生はいつもの五割増しくらいの勢いでアーとかウーとか言って額に浮かぶ汗をハンカチで何度も何度も拭きながら、教室の外に向かって、まあ、その、入りなさい、と呼びかけた。

 美保はその光景を一生忘れることはないだろう。


 転校生は赤色のジャージに身を包み、四つん這いで入ってきたのである。


 ヒッ、と短く叫ぶ者も居たが、大多数の生徒はその光景に言葉を失っているようだった。美保も口をぽっかり開けて、膝を浮かせて甲虫のように四肢を動かす転校生に目を奪われていた。

 なんだアレは?

 まごうことなく女の子である。綺麗な黒髪をポニーテールに結び、学校指定ではない赤のリュックサックを背負っている。彼女はなるべく誰とも視線を合わせないように教壇に手を掛け、分厚い軍手を付けた両手で教卓の脚をヒシと掴むと、腕の力を頼りにゆっくりと立ち上がり、ようやくクラスの面々にその顔を見せた。

「秋山キョウカです」

 美保は息を呑んだ。転校生、もとい秋山さんはまるで読者モデルのような、美しい顔立ちをしている。

「普段は四足歩行をやっています。変だと言うことは分かっています。友達になってくださいとは言いません。なるべくみんなには迷惑をかけないようにしますので、どうぞよろしくおねがいします」

 秋山さんは教壇を掴みながら、静かに頭を下げた。綺麗なポニーテールがさらりと首元から垂れる。鬼頭先生はアッとかエッとか呟きながらハンカチを取り出し額や首元を必要以上に拭いつつ、

「その、秋山さんの四足歩行についてですが、秋山さんは、その、なんていうのかな、二本足で立つのが難しいんだっけ?(そうです)ウン、ちょっと色々な事情があってね、授業とかは机に座って普通に受けることが出来る?みたいなので……だよね?(そうです)ウン、だからみんなね、秋山さんは移動の時だけちょっぴり変わった動きをしちゃいますけれど、同じ三年一組の仲間としてね、温かく迎え入れてあげようではありませんかッ!」

 はい拍手!と鬼頭先生は激しく手を叩いたが、それに大真面目に釣られたのは吉田君と美保だけで、その吉田君もみんなが叩かないと気付くと俯き、教室には美保と鬼頭先生の拍手だけが虚しく響き渡った。

「それじゃあ、秋山さんの座席は……」

 窓際の美保はさりげなく隣を見た。空席である。まさかと思い前を向くと鬼頭先生と目が合う。鬼頭先生はにっこり笑い、

「佐藤さんの隣が空いてますね!」

 と言うや否や、クラス中の視線が美保へと向けられる。美保がこれほどの視線を浴びたのは一年前の転校初日以来ではなかろうか。美保が著しい緊張により頬をじわじわと紅潮させていくのを秋山さんはじっと見つめ、出し抜けにビタン!と両手を床についてクラス中を悲鳴で沸かせた後、膝を浮かせてシャコシャコと机の海を割り入って美保の元へと一目散に向かってくる。周囲の生徒は甲高い悲鳴をあげて椅子をガタガタ言わせ、中には恐怖のあまり椅子から転げ落ちる者も居たが、それらを器用に躱した秋山さんは、何事もなかったかのように美保の隣の机にしがみつき、

「よろしく」

 とだけ美保に言って、慣れた手つきで着席をする。

 当然のように、放課後の教室には美保と秋山さんだけが残された。転校生であるにも関わらず、秋山さんの周囲にはまったく人だかりが出来ず、ものの見事にドン引かれていた。みんな秋山さんに聞くべきことは山ほどあっただろうが、それより恐怖心が勝っていたのだろう。美保も少なからず恐怖、というより強烈な驚きに打ち震えた一人ではあったものの、初手から悪手を繰り出した同じ転校生として秋山さんに微かな親近感を覚えるとともに、類い稀なる秋山さんの美貌が美保の心を惹きつけていた。横目で彼女をチラリと見やると、秋山さんは何をするでもなく、ずっと手に着けている軍手を弄っている。美保は嘆息する。間違いない。秋山さんは美保にとって(容姿だけなら)理想的な女の子だ。顎のラインがシュッとしているし、目元も涼しく利発そうな印象を与えている。まつ毛も長いし、黒々と濡れたポニーテールは毛先まで艶がかっていて、思わず触りたくなるほどである。美保がぼうっと秋山さんを見つめていると、秋山さんは痺れを切らしたようにクルリと美保に顔を向けた。

「ねぇ」

「へ?」

「なんで帰らないの?」

「えっ、何でって……」

 美保が答えあぐねていると、

「私、できれば一人で帰りたいの。私が四足歩行なのは知ってるでしょ」

 美保は静かに頷く。

「別にあれ、やりたくてやってる訳じゃないから。あんな歩き方をしてたらみんなから奇人変人に思われるのも分かってるし、私だって恥とかそういう感情は持ってるわけ」

 美保は口をぽかんと開けている。

「つまり、」秋山さんは美保を睨みつける。「私は誰にも四足歩行を見られたくないし、なるべく他の人にも見せないようにしているの。だから佐藤さんも、用事がないなら早く教室から出ていって欲しいのだけれど」

 秋山さんは真剣だった。真剣に美保をこの教室から追い出そうとしていた。美保はムッとする。それはちょっと失礼ではなかろうか? こちとら秋山さんが来るまではずっと独りで放課後の教室に取り残されていたボッチの先輩なのである。はいそうですかとスゴスゴ帰っては、ボッチの名が廃るというものではないか。美保はすかさず、

「用事ならあるけど」

「嘘。さっきまで何にもしてなかったじゃん」

「してたよ」

「何してたのよ」

「タイミングをうかがってた」

「何の」

「秋山さんに話しかけるタイミング」

 秋山さんはハァ?という顔をした。

「なんで私?」

「だって、同じ転校生だし」

「……あなたも転校生なの?」

「去年のだけどね、」と美保は呟いた。「ちょうど今頃転校してきたんだけれど、大勢の前で発表するのが超苦手でさ、結局自己紹介は失敗しちゃって、それ以来友達もできずに独りぼっち」

「えっ、かわいそう……」

「いや、そんなことはないよ。転校初日にみんなから避けられるようになった秋山さんよかマシだから」

「は? 喧嘩売ってんの?」

「下を見てると安心する……」

「え、本気で煽りにきてるわけ?」

「煽ってないけど」

「煽ってるでしょ」

「そんなことより」

 美保は秋山さんの手をギュッと掴む。

「なんで軍手なんかしてるわけ?」


 〇


 それ以来、美保と秋山さんは一緒に帰るようになった。正しくは美保が「秋山さぁん、一緒に帰ろ〜」と追いかけ回しているだけなのだけれど、秋山さんが何度逃げてもどこに逃げても美保は靴音を高く鳴らしながら隠れ場所を探し当てて「みぃ〜つけた」と笑うので、秋山さんは「私はこの女には敵わないのではないか」という諦念を次第に強めつつあった。ある日の放課後、秋山さんはいつものように追いかけられ追い詰められた三階廊下の突き当たりで「ねぇ〜、なんで逃げるのぉ」と駄々を捏ねる美保に対して、なぜ自分を追いかけるのか、何を自分に求めているのかを真剣に問いただしたことがある。美保は据わった眼で、

「え、顔が好きだから」

 とだけ答えて「ねえ、一緒に帰ろう?」と微笑んでくるものだから、秋山さんは面食らうやら恥ずかしいやらで素直に頷いてしまったのが一世一代の大悪手だった線は否めない。秋山さん自身、自らの容姿が他人よりも優れていることを否定するつもりはなかった。幼少期から一族郎党に「キョウカちゃんは四足歩行さえしなければねえ、アイドルでも女優さんにでもなれると思うんだけどねえ」と耳にタコができるくらい言われてきたので、逆に幼い秋山さんはどうやら四足歩行というのはこの容姿でさえもヤバいらしいという理解に至ったのだけれど、それゆえ四足歩行と美貌とを頭の中でキレイに相殺させた美保の思考回路がことさら興味深く思えるのである。

 そんなわけで、美保と秋山さんとの間には奇妙とも妥協とも言える不思議なバランス関係が成立し、中学校の周辺では二人が一緒に登下校する様子が見られるようになった。

 彼女たちの登下校風景は、遠目では赤い服を着た犬の散歩のように見えた。というのも会話が途切れて手持ち無沙汰になった美保は四つん這いの秋山さんのポニーテールを掴んで弄ぶ癖があり、その様子が一見すると飼い犬とそのリードを握る女子生徒に見えてしまうのである。秋山さんはそのように(屈辱的に)見られることを大変嫌っていたので、周囲に人がいるにも関わらず美保が軽率にポニーテールに触ろうとすると、スイッチが入った子犬のようにキャンキャンと吠え散らかすのだった。

 一方で、美保が秋山さんのポニーテールを掴まないにせよ、彼女たちの登下校はどう頑張ってもタチが悪すぎる虐めか目を疑うような羞恥プレイにしか見えないわけで、こればっかりは当然というか必然というか、近隣住民からは何度も通報される羽目になる。

 困るのは通報を受けた警察官である。

 彼らは全身赤色で這いつくばっている秋山さんを見るなり驚愕し、何をやっているんだキミィ!と秋山さんの腕を引っ張り上げようとするのだけれど、隣にいた美保が「やめておいた方がいいですよ」と悲しそうに首を振るので、思わず眉を顰めてしまう。

「どういうことかね?」

「ここで這っている秋山さんは、立たせない方がいいってことですよ」

「……キミの発言の意図が掴めないのだが?」

「えーと」美保は秋山さんとアイコンタクトをとりながら「考えて欲しいんですけれど、お巡りさんはわざわざ魚を陸に引き上げようと思いますか?」

 警察官は素直に数秒考え、思わないなあと答える。

「それと一緒ですよ。ここで不審者みたいに這いつくばっている秋山さんは(おい悪口やめろ!)さっきの魚に例えるなら今の状態が水中みたいなもんで、二本足で立つ状態は、わざわざ水が一滴もない陸上に上がるようなもんなんです」

 警察官はしばらく思考に沈んだが、

「いや……意味が全く分からないな。四つん這いだろうがそうでなかろうが大気組成は変わらないし、環境にもそれほど大きな差がないように思えるのだが?」

「まぁ、それはそうですよね」

 と美保が肩をすくめると、おい諦めるなよと足元で秋山さんが声を上げる。警察官はギロリと秋山さんを睨んで、

「とにかく一度ちゃんと立ってもらっていいかな? このままだと警察に対してふざけた態度をしていましたって、親御さんに連絡することになるんだけれど」

「それは大丈夫です、この子の四つん這いは親公認らしいんで!」

 という美保の助けも虚しく、そんなふざけた話があってたまるかと嫌がる秋山さんの腕を掴んで無理やり引き上げようとしたのが良くなかったのだろう、秋山さんはそれまで四足で得られていたはずの「安定感」を急激に失ったことで、数十秒もしないうちに目が虚ろになって顔色も真っ青になり(秋山さん曰くひどい船酔いのようなものらしい)その場でオエーーーッッッ!!!と激しくリバースをするものだから、警察官も近隣住民もヒッと息を呑んで震える他ない。

「だから言ったでしょ」

 美保はえずき続ける秋山さんの背中を優しくさすりながら周囲に呼びかける。

「秋山さんを立たせようとしちゃダメなんです。この子にとっては四つん這いが自然な姿なんだから」

 しかしだね、と食い下がろうとする警察官を、美保はキッと睨む。

「すみません、改めて考えて欲しいんですけれど、秋山さんが四つん這いになって、何か皆さんにご迷惑を掛けましたか? 掛けてないなら、これ以上秋山さんの可愛い顔を胃液で汚したくないんですけれど」

 警察官が戸惑いつつも周囲の住民を見渡すと、住民たちは互いを顔を見合わせ、首を横に振った。

「分かればよろしい」

 美保は深く頷くと、通学鞄の中からタオルと水の入ったペットボトルを二本取り出し、片方を開けて路上にぶちまけられた吐瀉物を洗い流すと、もう片方の蓋を開けて秋山さんに手渡しつつ、タオルで秋山さんの顔を綺麗に拭いてやるのだった。


 〇


「手袋にもいろんな用途があってね」

 放課後の教室で、秋山さんはリュックサックから色とりどりの手袋を取り出した。

「部屋だと生地が薄いものでも全然いいんだけれど、学校とかだとみんな靴で動くでしょ? だからちょっと厚手の軍手とかの方が良い。もちろん、道端を歩く時は手に靴を履くのが一番かな。ガラスとか落ちてると危ないし」

 そう語る秋山さんの顔は今日も綺麗だ。

 秋山さんが複数の手袋を持っていることは、学校生活の中で知ることができた。昨日は水色、今日はピンクというように、様々なカラーバリエーションを所有している。

 そんな秋山さんを見ていて美保が思ったのが、もしかしたら秋山さんはオシャレさんなのかもしれないということである。実際、秋山さんは毎日制服ではなく赤いジャージしか着てこないわけだけれど、それも四つん這いになった時、ふとした瞬間にパンツが丸出しにならないように、という配慮がなされての服装であることは美保にも容易に想像がついた。

 というわけで、当初は秋山さんから渋られていたお宅訪問が彼女の気まぐれか何かで許されてしまったある日の夕暮れ、狂喜乱舞した美保が一目散に飛びついたのは、秋山さんの部屋の奥にあるクローゼットだった。きっと中には普段からは想像もできないオシャレな服が揃っているのだろう。ちょっと!と秋山さんは怒ったが、気にせず美保がクローゼットを開けてみると、

「……なに、これ?」

「なにって、ジャージだけど」

 驚くべきことに、見慣れた赤いジャージが何着もずらりと吊るされているのである。

「東洋のスティーブ・ジョブズじゃん」

「あれは黒でしょ」

「どっちも同じなんだけど」美保は呆れた声で言う。「他に服ないの? キョウカちゃんの私服、見たいんだけど」

 秋山さんは「あー」とぼんやりした声を出し、無いよ、と呟いた。

「持ってても意味ないし」

「それは……」美保は言葉に詰まってしまう。そんなことないよ、とは言えなかった。そんなことがあるということが、秋山さんと過ごすなかで理解できたからである。

「はい、この話はおわりー」と秋山さんはクローゼットを閉める。

「そんなことよりさ、映画の話しようよ。なんか美保ちゃんが最近観たやつでオススメないの?」

「あー、それだとね……」

 美保は適当に思いついた映画のタイトルを挙げた。面白かったもの、面白くなかったもの、何も感じなさすぎて逆に凄かったもの。秋山さんはフンフンと頷きながら美保の口から出るタイトルを聞いていたけれど、その反応にはいつもの熱がなく、心ここにあらずなのは明白だった。

 失敗したかな、と美保は思う。ファッションについては軽率に触れていい話題ではなかったのかもしれない。ただ、秋山さんほどの美貌を持っている子が、年がら年中赤いジャージで過ごしているのは、美保にとってあまりに悲しいことだった。世界にとっての損失だとすら思えてしまう。美保は、脚の爪を弄りながらクリント・イーストウッドについて滔々と語る秋山さんの顔を見つめた。そのあまりにタイプな顔つきをじっと見ていると美保は何だか尿意を催してしまって、秋山さんにお手洗いの場所を聞く。気持ちよく喋っているところを中断されてムッとした秋山さんは、しかし「この部屋を右折して左折して直進」とだけ言って、グラスのコップに入っているオレンジジュースを飲んだ。言葉に従って移動をすると、なるほど確かにお手洗いがあり、失敬して素早く用を済ませてから部屋に戻ろうとしたその矢先、おやつを持ってリビングから出てこようとした女性とアッと目が合う。

「あら、貴方もしかして……」

「えと、キョウカちゃんと仲良くさせてもらっている、」

「佐藤美保ちゃんでしょ!? やだ、本物!? え〜なんか聞いていたイメージと全然違う……あっ、私はキョウカの母です! いつも娘がお世話になって本当に……本当に、お世話に……」

 とボロボロ泣き始めるので美保は仰天してしまう。どこか痛いんですかと駆け寄るとそうではなく、秋山ママは美保をリビングのテーブルへと促した。

「ごめんね、急に泣き出しちゃって。驚いたでしょ」

「まぁ、人並みには」

「あと、私に四足歩行を期待していたのならごめんなさいね……ウチはキョウカしか四足歩行できないものだから」

 美保はどう反応すれば良いのか分からず、とりあえずハァと相槌を打つ。秋山ママはしばらく沈黙を守り、テーブル表面についていたゴミや埃を薬指の腹でギュッ!ギュッ!と取っていく。それを五回くらい繰り返し、薬指に収穫されたゴミをまじまじと見つめてからフッ!とひと息で吹き飛ばすと、「キョウカが友達を家に連れてきたのは初めてかもね」と呟いた。

 聞けば、秋山さんは昔から友達付き合いがなさすぎたのだという。

「もちろん、本人が一人で楽しく遊んでいるならそれで良いんだけれどさ。親としては、友達百人なんて高望みはしないから、これから先もずっとキョウカと付き合ってくれるような、そんな親友みたいな存在が、一人や二人は居てくれたらすごく嬉しいなと思っていて」

 まぁ、四足歩行だから難しいのかもしれないけれどね、と秋山ママは笑う。

「だから、今日あの子が美保ちゃんを家に連れてきてくれて、本当に嬉しかったの。あ、別に美保ちゃんにキョウカの親友になってくれって圧力掛けてる訳じゃないんだけれど……でも、最近のキョウカはいつも美保ちゃんの話をするから」

「私のこと、なんて話してるんです?」

 美保はテーブルに身を乗り出した。秋山ママはそうねえと上を見て、

「腹立つとか危険とか、私のことを狙っている気がするとか……」

 美保は眉間に皺を寄せる。

「マジですか」

「でも、美保ちゃんの話をしている時のキョウカはすごく楽しそうなの。この前も何かのドラマを見ながら言ってたわよ。いつか美保ちゃんと一緒に、同じ制服を着て学校に通いたいって。ほら、あの子ってあんなだからスカートとか履けないじゃない? でも昔っからあの子は可愛い服が好きなのよ。小さい頃はまぁいいかと思って履かせていたんだけれど、流石にもうこの歳になると……」

「ちょっと、何喋ってんの!?」

 美保が振り向くと、部屋から出てきた秋山さんが秋山ママを睨んでいた。

「え〜? ちょっと美保ちゃんと世間話してただけよ?」

「もう、ママは余計なことしないで! あと美保ちゃんもママと話さないで!」

「そんな無茶な」

「いいから!」

 へいへいと美保は立ち上がり、秋山ママに頭を下げる。秋山ママはにこやかに手を振り、二人のことを見送った。廊下を行きながら秋山さんが口を開く。

「何話してたの」

「別に」

「ウチのママから変なこと、聞いてないよね」

「変なことというか」美保は顎をかいた。

「キョウカちゃんがスカート履きたがっていることは聞いたかな」

 秋山さんの動きがぴたりと止まる。

「……最悪なんだけど」

「あと私と一緒の制服を着て、一緒に登校したいってのも、」

 秋山さんはギャーッ!と声をあげて部屋に這い戻り、私が入る前にピシャリとドアを閉めた。

「ほんっっっっとうに最悪なんだけど!」

 ドア越しに秋山さんが吠える。

「ねぇ、マジなの?」

「マジじゃないから! ぜんぶママの妄言だから!」

「なんで恥ずかしがってるの?」

「はあぁ!? 別に恥ずかしがってないし! 事実をありのままに否定しているだけだし!」

「ねぇ、なんでそんなにかわいいの?」

「死ね!」

「私、手伝うよ?」

「死ね!」

「キョウカちゃんが二足歩行できるように、私も頑張るよ?」

「死ッ……」

「一緒にスカート履こうよ。一緒の制服着よう? 私、見たいんだ。制服姿のキョウカちゃん。ぜったい今より五割増しに可愛いと思うから」

「……」

「……やばい、想像したら鼻血出てきた」

「……ティッシュいる?」

「いる」

 ドアが開き、ティッシュが差し出されるのを美保は見逃さなかった。ものすごい力でドアをこじ開け、きゃあと転げる秋山さんを飛び越えて美保は部屋の中に侵入する。秋山さんはティッシュを持ったままドア付近で転がりながら、「なんだ嘘か……」と呆れるが、嘘じゃないよと鼻血をダラダラ流す美保を見て、秋山さんは目を丸くする。

「ちょッ……! カーペットにシミつけないでよ!?」

「あ、ごめん。いまポタポタと付いてるかも」

「ねぇちょっと……本当に最悪なんだけど!」

 秋山さんは美保の血まみれの鼻にティッシュを突っ込んでいく。最悪、最悪、と唸りながら。


 その日から、二人だけの特訓が始まった。その特訓は秋山さんが長年の四足歩行を脱却し、二足歩行による高さやらバランスやらに慣れることを目標にしていた。このように書くとたいそうなことをやっているように思えるが、実際は秋山さん家のトイレの中で、ぷるぷる震えながらアライグマのように立つ秋山さんを、美保が支えてやるだけのことである。

 四つ足の平衡感覚を失った秋山さんは、何度も何度も嘔吐した。戻して戻して戻しまくって、秋山さんの口から出てくるものが胃液だけになったとしても、秋山さんは二つ足で立つことが出来なかった。もう無理、と秋山さんは泣き言を言った。泣き言というより真実だった。これまで十数年、どれほど頑張ってもどうしようもできなかったことなのだから。便器にもたれかかり、口の端から胃液を垂らしてぐったりしている秋山さんを見ていると、美保は泣きたくなってしまう。美保は秋山さんのうつくしい顔を胃液で汚したくなかった。それでも美保は心を鬼にした。鬼にならざるを得なかった。それが美保の存在意義であり、そうすることでしか秋山さんの二足歩行は見込めなかったからだ。

 美保は持ち込んだティッシュペーパーで秋山さんの口元を拭き(まさかトイレットペーパーで拭くわけにはいかない!)、汗で額に張り付いた前髪をかわいく整えてやる。

「ほら、可愛くなったよ」

「うぅ……」秋山さんは泣いている。

「ほら、スカート履きたいんじゃないの!?」

「うぅ、はきたい……」

「私とお揃いの制服を着て、一緒に歩きたいんじゃないの!?」

「うん、あるきたい……」

 じゃあ頑張らないと、と美保は秋山さんに囁き、強く彼女を抱きしめる。胃液とミルクが混ざったような匂いだった。頑張る秋山さんの香りだった。秋山さんも美保の背中に腕を回し、うん、私がんばる、がんばるからねと繰り返す。

 秋山さんは涙を拭い、よろめきながらもなんとか便器に腰掛けた。そして美保の目を見ながら、何度も何度も深呼吸をした後で、いっせーのせ!で立ち上がるのだ。不快感を堪え、涙と嗚咽を漏らしながらも、秋山さんはたった二本しかない細足で、この地に立とうと踏ん張っている。


 〇


「どうして、みんな二本足で立とうとするんだろう」

「え?」

「だって、不思議だと思わない? 支えっていうのはあればあるほど嬉しいものでしょ。犬も猫も亀もトカゲも、猿だってそうよ。四本足で身体を支えて歩いているのに、人間は二本足で立とうとするんだもん」

 二人は秋山さんの部屋に敷いた布団に寝転がっていた。部屋の電気は消されていて、もうお互いの顔はよく見えない。しかしながら、窓から入ってくる月明かりが、二人の顔の輪郭を少しばかり映し出していた。

「小さい頃から、みんなすごいなあって思ってた。二本足で歩くみんなを見て、私は劣っているんだなって正直に思えた。パパもママも、私の両腕は自転車の補助輪みたいなもので、いつか使わずに立てるようになるんだって教えてくれたけど、結局、最後の最後まで補助輪のまま」

「明日があるじゃん」

 秋山さんは鼻で笑った。

「明日って言っても卒業式じゃん。もう最後でしょ」

「そう、最後」美保は呟く。「最後のチャンスがある日だよ」

 秋山さんは何も言わなかった。しばらく沈黙が続き、鼻を啜る音が聞こえると、ごめんね、と涙交じりの声が秋山さんの口から漏れた。

「美保ちゃん、ごめんね」

「なんで謝るの」

「あんなに特訓してくれたのに、全然立てなくてごめんね」

「特訓って言っても……私は何にもしてないよ。ただ、頑張っていたキョウカちゃんの隣に立っていただけ」

 秋山さんは鼻をズビッと啜った。

「……確かに」

「そこは認めないでよ」

「でも、本当に嬉しかったよ。やっぱり、一人きりでやるのとは全然違うから。美保ちゃんが目の前に居るだけで、優しく背中を摩ってくれるだけで、こんなに気持ちが前向きになれるって思わなかった」

 秋山さんは鼻をズビッと鳴らした。

「……正直に言うとね。私、明日立てる気が全然しないんだ」

「分かるよ」美保は呟く。「なんか隣で見ていても、全然立ちそうな気がしないんだもん」

 秋山さんがクツクツと笑う。

「ねぇ、それ本人に言う?」

「言うよ」美保は重い瞼を開く。「ここまで付き合ってきたんだもん。それくらいのことは、私にも言う権利がある」

 確かに、と秋山さんは言った。

 しばらく沈黙が続いた。お互いに何を言えば良いのか分からなかった。それでも美保に何か言葉を掛けたかった秋山さんは、小さな声でおやすみと呼びかけ、布団を深く被る。

「……ねえ、提案があるんだけど」

 不意に美保が言った。

 秋山さんは布団の中から、少しだけ頭を出す。

「明日はさ、立つとか立たないとか関係なく、二人でセーラー服を着ようよ。別に立てなくたって良いじゃん。その時は私たち、二人とも四つん這いになって学校へ行こう」

 秋山さんの布団が揺れ動く。そのささやかな動きが、押し殺す声が、秋山さんが泣いていることを示している。

「キョウカちゃんは知らないと思うんだけれど、この時期のスカートって本当にスースーして寒いんだよ。明日は普段のジャージの有り難みが分かるんじゃないかなあ……あっ、それからさ、明日はどっちが前になろっか? 横に並ぶと他の人の邪魔になるからさ、前と後ろに並んだほうがいいでしょ? 私としてはキョウカちゃんの後ろがいいんだけれど、やっぱ四つん這いに慣れてないとドンドン置いていかれそうだしなあ」

 ねえ、と秋山さんが湿った声で言う。

「なんでもう、四足歩行前提になってんの?」

「えっ、違うの?」

 バカ!と秋山さんが布団の中で叫び、布団をぎゅっと掴んで小さく縮こまった。

「バカ、バカッ! 絶対立ってやるからな!」

「立てるの?」

「立つ! 絶対に立って、セーラー服着て、二人で一緒に学校へ行くッ! ぜったいに!」

 いいね、と美保は呟いた。本当にそうなるといい。心の底からそう思うのだ。美保は目を瞑り、あり得るかも知れない未来を想像する。


 それは、卒業式を迎えた朝だ。

 セーラー服を着た二人が卒業式に向かって、いつもの通学路を歩いていく。秋山さんは普段よりずっと高い視点に驚きながら、二人絡めた指を強く握りしめている。不意に強い風が吹き、二人のスカートが揺れることもあるだろう。その風の真新しさに、桜吹雪の舞う朝に、きっと秋山さんは目をキラキラと輝かせるのだ。

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四足歩行の転校生 小野繙 @negishiso

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