第21話 キューピット

○キューピット


 今日は明美が川沿いのキャンプ地に行く日だった。

 児珠は夜も眠れずに朝を迎えようとしている。


 (何だろう・・・。この感じ・・・)


 児珠は起き出すとベッドを抜け出して外へと出た。


 外はまだ夜の闇に包まれていた。

 「こう言う時って、マーラたちが動き出すんだよなあ・・・?」


 児珠は暗闇に向かって独り言を吐いた。


 児珠は、早々に起き出すと身支度を整える。

 「ちょっと早いけど・・・」


 児珠は夜明けと共に商店街へと向かった。


 


 *




 八百屋に着くと仕入れ担当の松風がちょうど出かけるところだった。

 「おはようございま〜す!」

 児珠は松風に声をかけた。

 「おう!珍しいなあ〜。こんなに朝早くから。どうした?何かあったのか?」

 「今日は明美の奴が休みなんです」

 「おおう。そうか。そうか。それで、美柑さんの手伝いに来たって訳だな?」

 「うん、まあ、そんなところっす」

 児珠は頭を掻きながら答える。


 「あら?坊や?おはよう」

 店の奥から出て来た美柑がニコリと言う。

 「おっす。おはようっす。店長」

 「朝ごはんは?まだだろう?」

 「あっ?えっと・・・。うん、まあ・・・」

 児珠は言葉を濁らせる。


 「松風くんも一緒に食べて行くかい?」

 「ありがたい。ぜひ、お願いします!」

 松風は荷台にシートを被せて言う。


 「さあ、坊や。何も無いけど、おあがり〜」

 美柑はそう言うと、握り飯と味噌汁、漬物、野菜、果物を出してくれた。


 「朝から豪勢ですね〜」

 松風は店の奥の座敷に上がり込むと顔の汗を首に巻いたタオルで拭いた。

 「いただきま〜す!」


 勢いよく食べ始める松風と比して、児珠は浮かない顔をして居る。

 「坊やは食べないのかい?」

 美柑は促すように言う。


 「ああ、うん・・・」

 児珠は、何かを感じて上の空で返事をする。


 児珠は美柑の方へと振り向くと握り飯を一つ手に取った。


 「なあ?店長?」

 「何だい?坊や?」

 「店長は、龍の落とし物って、前に俺に言ったよな?」

 「ああ、そのことかい?ええ。言いましたよ。龍の落とし物」

 「それって、さあ・・・」


 児珠は言おうとして、急に立ち上がる。


 児珠は目を閉じると五感で何かを感じ取る。


 (このざわめき・・・)


 児珠は目を開けると視界に入る植物と云う植物の動きに着目する。


 (や、やっぱり・・・そうか・・・。今日は、山で何かある・・・)


 児珠は、握り飯が積まれた皿を見下ろすと、掴めるだけの握り飯を手に取った。

 「店長!ちょっとこれ借りるぜ!」


 児珠はそう言うと理由も言わずに山の方へと駆け出す。


 「坊や〜?」

 美柑は走り行く児珠の背中に叫んだ。




 *




 児珠は、朝焼けの空を山に向かって追いかける。

 木々のざわめきと天空を流れる空気の動きに神経を集めて行く。


 (な、なんだこれ・・・?どんどんと気流が山へと昇る・・・)


 児珠は街を抜けようと急いだ。




 その頃、明美は圭一との待ち合わせ場所に辿り着いていた。

 「ようこそ。明美ちゃん」

 圭一は、笑顔で明美を迎えた。


 「おはようございます。刑部さん」

 明美は丁寧に頭を下げた。


 「今日は来てくれて嬉しいよ」

 「はい」

 明美は頷く。


 「ここからは歩きなんだけれど、歩くのは大丈夫?」

 「はい。もちろんです」

 明美は答える。


 「山にはよく来るのかい?明美ちゃんは?」

 「観光地っぽいところまでは一人でよく行きますね。でも、キャンプ場のような深いところは、今日が初めてかもしれません・・・」

 「そうだったんだ。よく知らないのに誘ってゴメンね」

 「いいえ。とんでも無いです」

 明美は首を横に振って言う。


 「いま、ちょうどね、紅葉が美しいんだよ」

 圭一は山並みを指差して言う。


 「わあ〜!」

 明美は圭一が指を差す山並みを見上げて歓声を上げた。


 「きれ〜い♪」


 山には紅葉から燃え盛るかのように白い霧が天に向かって昇っていた。


 (きれ〜い・・・。まるで、この世のものとは想え無いほどに・・・)


 明美と圭一は他愛の無い話をしながら軽快に山道を歩いて行く。




 *




 児珠は、山に近づくにつれ、山から立つ水蒸気の行く先をつぶさに観察して行く。


 (山に雲が生まれる・・・。鉄砲水になる・・・)


 児珠は、川に続く道を駆け上がった。


 (明美の奴、いまどの辺りだろう・・・?)


 児珠は耳を澄ませて、神経を空気の振動に当てて行く。児珠は、音では無く振動で明美の居場所を突き止めようとする。


 (アハハ・・・)


 児珠は明美の笑い声を拾った。

 (まだ、川縁には辿り着いていないみたいだな・・・)


 児珠は山の中腹、どの辺りかを検討をつけた。


 (待ってくれよな・・・。山の神・・・)


 児珠は祈るようにして走って行く。





 *




 「さあ、着きましたよ、明美ちゃん」

 圭一は、先に広げていたキャンプセットに明美を招き入れた。


 「うわあ〜。本格的ですね〜」

 そこには圭一が準備をしたキャンプ用の椅子やテーブル、食べ物や飲み物が綺麗に並べられていた。


 「どうですか?リッラクス出来そう?」

 「はい!」

 明美は楽しそうに頷く。


 圭一は湯を沸かし始めるとコーヒーの準備を始めた。


 「明美ちゃん?」

 「はい?」

 明美は圭一に振り返る。


 「さ、早速で悪いんだけどさ・・・」

 「はい・・・?」

 明美は圭一の顔を覗き込んだ。


 「この間の手紙の返事は・・・?聞かせてもらえるかな・・・?」

 明美はそれを聞くと、顔を赤らめて後ずさる。


 「そ、それは・・・」

 明美は圭一に背を向けて俯く。


 圭一はヤカンを火にかけると、静かに明美に近寄った。

 「返事は、まだ出来ない?」

 明美は圭一に背を向けたまま、片手で自身の腕を掴んだ。


 圭一は震えるその明美の後ろ姿を何も言わずに見つめる。


 (ど、どうしよう・・・)


 明美は、ふと、児珠の顔を思い出した。

 (こ、児珠さん・・・)


 明美は目を閉じると、一粒の涙を地面に落とした。


 圭一は、地面に落ちた水滴に目をやると、その水滴がどんどんと増して行く様子に気づいた。


 (雨だ・・・)


 圭一は、明美の背中に体を寄せた。


 「明美ちゃん。雨みたいだよ・・・」

 圭一は明美を背中から抱きしめる。

 「あ、あの・・・」

 明美は、急な温もりに戸惑いを見せる。


 「雨だから、中に入ろうか?」

 圭一はテントの中に明美を誘おうとする。


 明美は、圭一の腕からすり抜けると木陰へと走った。


 木陰から空を見上げると雨足は強くなる一方だった。

 (さっきまであんなに晴れていたのに・・・。予報も今日は晴れだったし・・・)


 明美は雨に濡れて冷える体を自身の腕で包みこむ。


 圭一は山頂を見上げると山並みと雲の様子を観察した。

 (通り雨では無さそうだ・・・)


 圭一は、過去の出来事を思い出して居た。双子の妹と川へ来た日のことを。

 (あの時と似て居る・・・)


 圭一は、咄嗟に、ここは山を下りるべきだと察する。

 「明美ちゃん、帰ろう・・・」


 圭一がそう言おうとすると、突然、睡魔が圭一の意識を襲った。

 (な、なぜ・・・。どうして・・・)


 圭一は、一瞬にして眠りの世界へと引きずり落ちた。

 圭一の意識が眠りに落ちると、深い闇の意識から一つの意識体が圭一の意識となって現れた。


 



 *





 児珠は、川に沿って山頂へと登って行く。

 (よし。良い感じで二人の位置が掴めるところまで上がって来たぞ・・・)


 児珠は、全神経を空間に拡げて音と云う音を拾い集めて行く。


 クスクス


  クスクス・・・


 沢の精霊たちの声が聞こえ始めた。


 「ガキンチョ〜♪


  ガキンチョ〜♪


   児珠〜♪


    児珠〜♪」


 児珠の気配に気づいた精霊たちが喜びの声を上げて居る。


 「お〜い!お前たち〜!」


 児珠は精霊に言う。


 「山の神に待って貰いたいんだ。もう雨を降らすのか?」


 「知らな〜い


  知らな〜い


   知らな〜い」


 精霊たちは答える。


 「じゃあさ、俺が人間たちを安全に避難させる間にさ、お前たちで何とか水から守って貰えないか?」


 「いいぞ〜


  いいぞ〜


   いいぞ〜


    クスクスクス・・・」


 「頼んだぞ!」


 児珠は精霊たちに言うと、人の気配を空気から嗅ぎ分ける。


 (あそこと、あそこか・・・)


 児珠は当たりを付けると、近い方から避難を促しに走った。




 *




 「ぜえっ。ぜえっ。ぜえっ・・・」


 児珠は、あと少しで明美たちのそばへと辿り着くところまで走り着く。


 児珠は山頂を見上げると雲がまだ待ってくれて居るかのように見えた。


 (もう少しだけ待ってくれよな・・・)


 児珠は道道に出会う精霊や眷属、地蔵堂や御社に握り飯を供えて歩いた。


 児珠が目当ての山の中腹までやって来ると明美たちの声が聞こえて来た。


 


 「あ、あの・・・。刑部さん・・・?」

 それは、明美の声だった。


 「ど、どうかされましたか・・・?」

 急に様子が変わった刑部に明美は恐る恐る近づく。


 「お前は誰だ?」

 刑部の姿をした”それ”は言う。


 「だ、誰って・・・。明美です・・・けど・・・」

 明美は、ビクリッと肩を震わせて、近づこうとする足を止めた。


 「ここはどこだ・・・?」

 ”それ”は刑部の肉体を動かして周囲を見た。


 「知らぬ世界だ・・・」

 ”それ”は驚いたように言う。


 「か、帰りましょう・・・?」

 明美は刑部に向かって言う。


 「帰るだと?どこに・・・?」

 ”それ”は明美に向き合うと明美の腕を掴もうとする。


 「きゃああーっ!」

 明美の叫び声が響く。


 「な、なんだっ?明美の奴っ?」

 児珠は茂みの中から飛び出した。


 「明美ー!!」

 児珠は明美に走り寄ると明美と刑部の間に体を入れた。


 「な、なんだ?お前?」

 児珠は、一眼で目の前のそれが”刑部”本人の意識体では無いことに気づいた。


 「お前こそ誰だ?」

 「お前は、どこかで・・・」


 児珠は、過去世のどこかで、この意識体と出会って居ると直感する。

 「お前・・・。海の王か・・・?」


 児珠は、なぜ、今頃?と驚いたように言う。


 「そ、その声・・・。まさか、お前は、山の王か・・・」

 ”海の王”は言う。


 「どうしてお前が刑部の中に居るんだよ?」

 「刑部?何だそれは?知らぬ」

 「お前、いま、自分の姿がどうなって居るのか分からないのか?」

 「姿・・・?」

 海の王は刑部の体を見る。


 すると、突然に。


  ズズズズズズズ・・・・・


 河辺の小石たちが飛び上がるようにして地響きが上がった。


 「ま、マズいぞこれは・・・」


 児珠は明美の腕を掴むと刑部の腕も掴もうとする。


 「待て!山の王!」


 海の王は叫んだ。


 「なぜ、お前がここに居るのだ?山の王?」

 「俺がもう山の王では無いからさ」

 「何だと・・・。どう言うことだ・・・」

 海の王の意識体は、まだ分からないように言う。


 「お前も俺も死んだんだ。海の王よ」

 「山の王が死んだだと・・・。笑わせるな。皆殺しにされたのは我々の方だぞ!山の王」

 海の王は怒り出す。


 「もう終わったんだ・・・。海の王」

 児珠は言う。


 「うぬぬぬぬ。納得出来ん!!」

 海の王は、川に向かって身を投げ出そうとする。


 「やめろって!」

 児珠は刑部の体を後ろから抱き抱える。


 「我々の苦しみが分かるか・・・?山の王・・・。国を滅ぼされ。愛する者たちを奪われ。何一つ守ることも出来ずに逝った苦しみが・・・」

 海の王は涙を流して暴れる。


 「俺だって、国を奪われ、愛する者たちを守れず、敗戦の長として死んだんだ・・・。その先の人生でな・・・」

 児珠は明美を見つめる。


 「信じられん・・・。信じられん・・・」

 海の王は、暴れる手足をガックリとさせて川縁に座り込んだ。


 「お前がどうしていまになって現れたのか知らないけどさ。今は、刑部って奴が生きて居るんだ。お前の続きかどうかは知らないけどさ。そいつだって、双子の妹を守れなくてお前と同じように苦しんでいるんだ。分かるだろう?」

 「妹か・・・」

 海の王は、双子の子供たちのことを思い出す。

 「わたしの愛し子たち・・・」

 海の王は涙を流した。


 「失う苦しみが分かるなら、分かるだろう?解放してやってくれよ。今の奴を」

 「ワシが解放するのか?」

 「過去から縛り付けるならそうだろうが?海の王のその苦しみと刑部の奴のその苦しみが呼び合ってお前がいまここに出て来て居る。それなら、お前が苦しみを昇華してやるか、刑部自身がそうするかしか無いだろう?」

 

 海の王は児珠を見つめて言う。

 「では、山の王に聞こう?」

 「何だよ?」

 「滅ぼした者たちの苦しみは?悲しみは、どうしたんだ?」

 「どうするもこうするも無いさ」

 「どういうことだ?」

 「俺も国を滅ぼされてようやく分かったのさ・・・」

 「何をだ?」

 「生きていることがこんなにも大事だったってこと」

 「何だそれは?」

 「生きている今にしか出来ないことがあったってことだよ」

 「だから、なんだそれは?」

 「苦しみを終わらせること。悲しみを終わらせること。そうだろう?いまのお前だって、それを願ってる。何百年も前に生きて滅びたお前でさえ、それほどの時間を恨み辛みで費やして・・・。そして、変わらず願ってる・・・。苦しみの終わりと悲しみの終わりを・・・。ちがうか?」


 児珠は、海の王を立ち上がらせると言う。

 「俺が滅ぼした者たちも、俺が守れなかった者たちも、それぞれに人生を歩んでる。お前の知らない人生がそれぞれに生まれて、それぞれに生きて来たんだ。お前の知らないところでな。」

 海の王は天空を見上げる。


 「お前の人生を終わらせるのは俺たち支配者じゃ出来ないんだぜ・・・」

 児珠は揃って天空を見上げる。


 「海の王。ここで終わりにしないか?」

 児珠は、山の王に戻って言う。


 「山の王。我々は愚かだった・・・」

 「ああ。そうさ。俺たちはいつだって愚かさ・・・。国を守れず。民を守れず。愛する者たちでさえ・・・」

海の王は涙を流す。

 「でも、一番の愚かは、俺たち自身のことだったろう?」

 「そうだな・・・。ただ、愛せば良かった・・・。それだけが、望みだった・・・」

 海の王は、言い終えると天から降りて来た天使たちに抱かれた。


 「頼んだぞ〜!天使たち〜」

 児珠は天使たちに手を振った。


 「おお!やっべ〜」

 

 児珠は、木陰で震える明美の腕を再び掴み取った。

 「ごめんな。怖い思いをさせたな、明美。動けるか?」

 明美は寒さで震えながらコクコクと頷く。


 児珠は刑部の腕を掴むと明美に手伝って貰いながら刑部の体を背負った。

 「行くぞ〜!」


 児珠は明美の手を握ると刑部を背負いながら山道を下り始める。


 「こ、児珠さん・・・」

 「なんだよ?どうした?明美・・・?」

 「兄様って・・・呼んだら怒りますか・・・?」

 児珠は明美を振り返った。

 

 「そ、それって・・・?」

 「はい」

 明美はコクリと頷く。


 「思い出しちまったのか?全部・・・?」

 「い、いいえ・・・」

 「じゃあ、どうして・・・?」

 「どうしてでしょうか・・・?でも、なぜか、涙をこぼした時にふと、出て来たんです・・・」

 「兄様って・・・か?」

 「はい・・・」

 明美は頷く。


 「心細くなったら急に児珠さんのことが頭に浮かんで・・・。そうしたら不意に・・・」

 「そうか・・・。それで、明美はイヤな気持ちになったか?」

 「い、いいえ・・・。全く・・・。むしろ・・・。ずっと、それを待っていました・・・」

 「待っていたのか?明美自身は・・・?」

 「はい・・・。おそらく・・・」

 児珠は明美の手を引くと先へと急いだ。


 「いま、山中に残っている人間は俺たち三人だけだ。だから、何としてでも、無事に山から下りるんだ。いいな、明美?」

 「はい。兄様」

 明美は答えると、今度は児珠を引っ張るようにして前へと進み出た。


 「いいぞ!明美〜。お前はとにかく先に行け!振り返るなよ。全力で走れ〜!」

 児珠は明美に振り返らないようにと促して叫んだ。


 児珠は山頂を見つめると残り時間が少ないことに気づいた。

 (俺だけならともかく・・・。コイツも一緒となるとなあ・・・)


 児珠はずり落ちそうな刑部の体を背負い直して走り続ける。


 「クスクスクス


  クスクスクス・・・


   ガキンチョ〜♪


    児珠〜♪」


 「ゲロゲロ・・・・


  ゲロゲロ・・・」


 山の生き物たちの声が児珠の耳に届いた。


 「おい!小僧〜」


 天空からは龍の声が降り注いだ。


 (みんな待ってる・・・。急ごう・・・)


 児珠は一瞬でも弱気になった自分を恥じて、奮い立たせる。


 児珠は植物たちの囁き声から明美が無事に危険なエリアから抜け出したことを知る。


 (よしよし・・・。いいぞ〜)


 児珠は足取りも軽快になって走り続ける。


 (もう少しだけ待ってくれよな・・・)


 児珠は近づく水音に振り返らずに走り続ける。


  ドドドドドーーーーンッ!


 けたたたましい音と共に地響きが上がる。


 「来やがったー!」


 児珠は山頂から下りて来る鉄砲水の気配を背中に感じる。


 (あと少し・・・。あと少し・・・)


 児珠は転がりそうになりながら懸命に足を動かす。


 河原の石が地響きと共に跳ね上がる。


  ガラガラガラ・・・・


   ゴロゴロゴロ・・・・


 水飛沫が背中にかかる。


 (もうちょい・・・)


 児珠たちはあと少しで水が届かないところまで走り着いた。


 「あ、あと少し・・・」


 児珠が声に出すと背後でピタリと水の動きが止まった音がする。


 児珠は最後まで走り抜くと、刑部を地面に下ろして、川へと振り返った。


 川には地の龍と天の龍と一対の龍たちが8の字を描いて水の動きを堰き止めていた。


 「お、お前たち・・・」

 児珠は大地に頭と両手を着くと、龍神を祀る祭事を始めた。


 児珠が祝詞を唱え、美柑が作ってくれた握り飯で祭りをすると龍たちは共に天空へと昇り、それぞれに分かれた。



 「ふう〜っ」


 児珠は手足を地面に投げ出すとグッタリと寝そべった。

 (あぶなかった〜)


 児珠は、疲れ果ててその場で寝込む・・・。


 


 *




 どれくらい眠っただろう?児珠が目を覚ますと、そこは美柑の店の奥座敷だった。


 「坊や?目が覚めたかい?」

 「あ、あれ・・・?て、店長・・・?」

 児珠は見慣れた天井に目をやる。


 「ああ!児珠さん!」

 明美が満面の笑顔で児珠の顔を覗き込む。


 「お目覚めですか?」

 天使たちが言う。


 「危なかったですねえ〜」

 なぜかそばにはマーラの姿もあった。


 「お、俺・・・?」

 「俺たちが運んだのさ」

 商店街の男どもが口を揃えて言う。


 「倅がまた世話になったな、小僧」

 会長の刑部が人の群れから出て来て言う。


 先に抜け出した明美が会長と美柑に連絡をして人を集めてくれたらしい。


 「川で遊んで居た人たちもみな無事に下山したわよ」

 美柑は言う。

 「感謝状ものらしいですよ」

 マーラが言う。

 

 「お前、それ皮肉かよ?」

 「いえいえ。兄様のおかげでこちらの会長にも毒牙がかけにくくなりまして」

 「どう言う意味だよ?」

 「人が悲しみに気づいてしまうと誘惑には乗らなくなるんですよ」

 マーラが笑いながら言う。


 「それを一番よくご存知だったのが、あなたでしょう?児珠さん?」

 マーラはほくそ笑むと、リンゴを一つ枕元に置いた。


 「あなたは、今世でしあわせになる。そうでしょう?」

 「だったら、何だよ?」

 「さみしくなりますねえ・・・」

 「お前たちの手の届かないところへ行くからか?」

 「ええ、まあ」

 マーラは笑って見せる。

 「そう言って、ウロウロとそばに寄り付くんだろうが?お前たちは」

 「だって、寂しいじゃないですか・・・」

 マーラはクスクスと笑って言う。


 「お前たちもそばで見ててくれよな。マーラ」

 児珠はマーラに手を伸ばす。


 「フフフ。悪魔とその軍勢は、こちらからは何も出来ないことは、よくご存知でしょう?児珠さん」

 「お前たちの方が人間に誘われて行く。そうだろう?」

 「ええ、その通りです。私たちがお誘いに乗るんです・・・」

   

   ウフフフフ・・・


 マーラは薄気味悪い笑い声を残すと暗がりへと姿を消した。


 児珠は座敷の天井を見つめる。


 (俺たちは苦しみを知った・・・。悲しみを知った・・・。そして、幸せを知るんだぜ・・・)


 児珠は目を閉じた。



  ぐう〜〜〜きゅるるるる〜〜〜


 児珠は空腹を知らせる音に目を大きく見開いた。


 「はあ〜、腹減った〜」

 児珠が力無く言うと、クスクスと笑い声が聞こえて来る。


 「あ、明美〜」

 児珠は首だけ動かして明美を見る。


 「児珠さん、朝から何も食べていないんですって?」

 明美は笑いを堪えながら言う。


 「ああ、う〜ん・・・。忘れちまったけど、多分そう・・・」

  


  ギュルギュルギュルルルル〜〜〜


 児珠の腹の虫たちはどうにも治る気配を見せない。


 「これ、たくさん作って来たんです」

 明美はタッパーにいっぱい詰め込んだオニギリと唐揚げを座卓に広げた。


 「うっわあ〜!すっげ〜!」

 児珠は飛び起きると座卓に食いついた。


 「クスクスクス。児珠さん、食いつきましたね!」

 「おおうっ!これ、もう食っていいのか?俺、腹ペコペコだぜ〜?」

 「坊や、これもお食べ〜」


 美柑は鯛のお頭が飾られた刺身の盛り皿を座卓に置いた。

 「な、なんだこれ〜?」

 「それは商店街からのお祝いだって」

 「祝い?なんの?」

 「無事の祝いさ」

 美柑は笑う。

 「お肉屋さんからも来てますよ〜」

 明美は、八百屋に届いた祝いの品品を座卓いっぱいに並べた。


 (はは〜ん。これは、道々のお供物たちだなあ・・・)


 児珠は道々に出会った者たちに感謝を捧げた。


 「よっし!食おうぜ〜」


 児珠は、店先に集まった仲間たちにも座敷に上がって貰った。

 八百屋の座敷は狭いながらも男どもや仲間たち天使たちで溢れかえった。


 「いいねえ〜」

 美柑は集まった者たちの活気ある笑顔にしみじみと言う。

 「ワシらも、もっと頑張れるかな」

 会長は言う。

 「再開発のことかい?それとも、商店街の継続のことかい?」

 「継続さ。決まってるだろう?」

 会長は明るい笑顔で言った。


 「ここはまだまだ活気がある。そうは思わないかい?」

 「わたしはまだまだって知って居ましたよ〜?」

 「そうだったのかい?こりゃあ失敬〜」

 会長は自らの頭をコツン!として見せた。


 「弱気になって良いんじゃないかい?」

 「えっ?何だい?美柑さん?」

 「弱気になって、誘惑に負けたってさ、こうして新しい息吹が吹いてさ。神風が吹く。そうだろう?」

 「ははは。こりゃあ、一本取られちまったな。美柑さん」

 会長は、ガハハハと豪快に笑った。





 *





 宴も終わり、腹一杯になった児珠は座敷でそのまま眠りこけて居た。

 明美は児珠に上着をかけてやりながら児珠の寝顔を見つめる。


 「兄様・・・」


 明美は目を閉じる。

 いつもなら悲しみの記憶として湧き起こる感情も今日のこの日を以って温かなものに変わって居た。

 「兄様・・・」

その言葉は、幼い頃に包まれたような陽だまりになって明美の心を包み込む。


 「兄様・・・」


 明美は、ゆっくりと児珠に顔を近づけると、児珠の唇に自らの唇を合わせた。


 明美は、その感触に初めての感情を憶えて、急激に顔を赤らめた。

 (ど、どうして・・・。わたし・・・)


 明美は驚いて顔を上げると、真っ赤になった両頬を手で押さえた。

 「あ、熱い・・・」


 明美は慌てて立ち上がると座敷から外へと飛び出した。


  ドクドクドクドク・・・・


 明美は鳴り止まない動悸に胸に手を当てる。


 雨上がりの夜空には満点の星々と大きな月が祝福の光を降り注いだ。

 (わ、わたし・・・。どうしよう・・・)


 明美は自身の追い付かない感情に戸惑う。



  *



 天空では天使たちと神々が微笑んだ。


 ”ハッピーエンドはこれからですよ。楽しんで”


 恋のキューピットたちはそのように二人に矢を射ると喜んだ。

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