ふたりのいえ

夏生 夕

第1話

窓を開けると、風に乗った緑の匂いが鼻を掠めた。


「へー、ここもいい部屋っすねー。

フローリング綺麗だし。」


なぁ?と振り返ると、彼女がいつもの表情で頷いた。

笑顔ではない。限りなく無表情に近い顔でうっすら眉間に皺をたたえている。


やっぱり「あのこと」が引っ掛かってるな。

その証拠に、リビングには一歩入っただけで棒立ちだ。相変わらず背筋はピンと伸びていて美しいが。

俺はその様子から目を離さず指折り話し続ける。


「駅から近いし、」


こくん。


「スーパーでけぇし、」


こくん。


「ここにしちゃおっっかなぁー。」


…こくん。


だめだ、もう我慢できない。

スリッパの軽い音を立てながら廊下の方へ戻る。


「なぁ~~~~って!」


俺は伸ばした人差し指を、ぷす、っと彼女の眉間に着地させた。

少し驚いたように目を見開いた表情と、指の下でシワが伸びた感触にとうとう耐えられなくなった。こちらを見上げる様子がどうにも可笑しく、ふは、と半開いた口から笑いが洩れる。

一度飛び出すともう止められなくなり、不動産屋がいようが構わず腹を抱えて笑ってしまった。

彼女は眉間にまた新たなシワをつくった。深めのやつ。前傾姿勢でむせ始めた俺の後頭部に不審な視線が注がれているのを感じる。

涙まで滲みはじめた右目をぬぐい、彼女に向き直った。


「あのさ、言えよ。

気になってんだろ?」


「…なんのことですか?」


とぼけているというより、突発的なこの状況に呆れられている気もする。最近ようやく抜けたはずの敬語で返された。

また一歩、ぐんと彼女に近付いた。


「あいつの家から遠いってこと!」


「ぐっ…」


ぐっ、て。

ここにきてようやく切り替わった表情は、悔しそうに口を引き結んだものだった。そんなにか?


「なぜ分かった。」


「動揺で武将みたいになってんなぁ。

冴子ちゃん、今日かなり分かりやすいよ。」


「そうですか。」


やりとりを眺めていた不動産屋が「あのぅ…」と右手を挙げた。


「どなたか、ご家族のお宅と近い物件でお探しですか?」


「「いや、」」


二人して否定したが、15年近く付き合いのあるあいつは、もはや親戚同然である。

なんか、手のかかる従兄弟くらいの。


「彼女の先輩です、最近まで仕事でも組んでて。

で、俺の後輩。」


他人に説明しようとするとこんなもんである。不動産屋も「はぁ、」だか「へー」だか曖昧な返事をした。

悪かったね、家族孝行とかじゃねぇのよ。そういういい話ではない。

もっと情けなくて、たあいない話だ。


しかし今はひとまず、こっち。


「あのねぇ冴子ちゃん。」


「はい。」


「今、俺らが、住む家を探してるんだよな?」


「…はい。」


「要望はちゃんと言ってくんねぇとさ。

二人の家なんだから。」


「あ、そっちですか。」


「あん?」


「いえ、あの人の心配ばかり、しすぎだと言われるのかと。」


「そりゃあ俺だって?あいつのこと?

ちょっと、ほんとひとつまみぶんくらいは気になるし?」


机に向かう、丸まった背中が思い浮かんだ。

たぶん今もこの想像通りの姿勢で座り込んでいるであろう、彼女の先輩で俺の後輩のあいつの背中が。

どうせまた、ろくに食っても寝てもいないんだろう。ともすれば生活の基盤が崩れ、それに危機感を抱けないほど、まっすぐにただ筆に追われている。

いつかだったかあいつは、小説の魔力に呑まれるのだと自嘲気味に笑った。尤もらしいことを言うなと言いたいところだったが、生憎と俺にはそれが痛いほど分かってしまう。


だから俺も、あいつの隣を突っ走ってきた彼女も、そうやすやすとあいつを放置できないしそんなに器用に生きていない。

だから、気になってしまうのは仕方がないのだ。


「よぉし、じゃ、もう一軒行くか。」


「え、もうひとつ?」


二次会にでも行くような口ぶりになってしまったが、あながち間違ってはいない。

なぜなら、


「もう一軒はね、あいつの家から電車一本です。

サーっと見てザッとあいつの様子を見て、飲んで食わしてこようぜ。」


少し慌てて先導する不動産屋の後ろで彼女の頬を、むいと引っ張った。


「いかがですか?俺の周到さは。」


彼女は軽く頭を振って俺の指を振りほどいた。

でも眉間にシワは無い。


「サーっとではなく、ゆっくり見ましょう。」


ついさっき俺がつまんだ頬を緩めた。


「二人の家なんだから。」


不意な笑顔はずるいでしょ。

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