#2 不出来で杜撰な

雛籠ともりの自殺未遂から1週間。俺はバイトを始めていた。

学校から程近いスーパーの清掃係に任命された俺は日々、モップとバケツで人混みと戦うことになった。床という床を拭いては歩かれ、歩かれては拭いて。終わりの見えない無間地獄におおよそ人間のするようなことでは無い、とパートのおばちゃんに漏らしたら笑いながら背中を叩かれた。

「でも、トイレが汚かったらあんたも嫌やろう? そういうことやね」

あれから屋上には行っていない。と言うよりバイトがあるから行けない、の方が正確で、そもそも俺には『自分を見失わない為』に時間を割く、そんな暇はもう無かった。

「――やしろ、お前変わったか?」

ある日友人の古野がそう言った。個人的にはいつも通りの代わり映えしない日常を謳歌しているつもりだったが、周りからはそうは見えなかったらしい。まぁ、バイトなんて始めた時点で『いつも通り』とはいかなくなったのだが。

「どう変わった?」

「なんと言うか、活力があると言うか。前より元気になったよな」

彼の言葉はあまりよく分からなかったが、確かに少しだけ生きやすいように感じる。バイトしている間はもちろんバイトの事だけしか考えないし、授業中もバイトの事しか考えないようになっていて、頭の中は幾分かクリアになった……気がする。余計な思考が入り込む余地のないバイト中心の生活をしていたそんなある日、放課後ばったり出くわした雛籠ともりは開口一番。

「いつになったら私は死ねるの?」

頭はすっかりぐちゃぐちゃになっていた。



相変わらず非の打ち所の無い雛籠ともりは、その完璧な容姿からは想像すら出来ない不釣り合いな言葉を吐き出した。その吐息すらもこの不出来で杜撰な世界には毒で、空間を歪ませたかと思うと次第に俺の思考すらも捻じ曲げてしまった。

「……」

頭が痛い。堪らず閉口する。目の前の彼女は燦然と輝いていて、澄み切った瞳で俺を覗き込む。

「あれ? 具合悪い? 大丈夫?」

俺は必死に頷いた。だが彼女はそう思わなかったらしく心配を通り越して怪訝な表情で俺を見ていた。

「――行くよ」

唐突に手を引っ張られ転びそうになるのをすんでで耐え、俺はやっと口を開いた。

「何処に」

「保健室」

「なんで」

彼女は小首を傾げると悪戯っぽく笑った。

「中二病治して貰いに」

俺が呆けている間に彼女は長い黒髪を揺らしながら俺を引っ張って歩き出した。その間も「中二病に効く薬ってあるのかな?」とか「やっぱり包帯とか好きなの?」とか好き放題言っていたが俺はただ黙っていた。彼女の紡ぐ他愛のない言葉、その一つ一つがあまりにも完璧で端正で綺麗で、そして毒で。いよいよ動悸がしてきた俺は彼女の温もりを手放してしまう。

「ごめん。俺バイトがあるから」

驚く彼女をよそに俺は無言で走り出した。後ろから呼び止める声が小さく聞こえたが無視した。がむしゃらに、無我夢中で。ただただ走った。気が付けば以前と同じように屋上のフェンスに身体を預けていた。

『日常を謳歌』?

『元気になった』?

『生きやすい』?

馬鹿な。

忘れてしまっていた、いや考えないようにしていただけだ。それでは他の皆と同じではないか。

思考の停止。人生の放棄。

遂には俺も自分を見失っていたのだと気付きそして理解する。見上げた空は絵の具でいい加減に描き殴ったみたいに無秩序で不揃いで穢らしくて、そしてそれは俺自身で。俺は頭を抱えてしまった。

雛籠ともり。

俺は彼女を死なせる為に生きている。

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