第13話 紳士淑女の協定

 それはちょうど、アーサがカルロの持ってきた柑橘類ベルガモットのキャンディを頬張っていたころのことだ。


 首都シティのとある高級ホテルの一室で、ソフィヤ・ランダイテとエドワルド・タッチェルが婚約のための顔合わせをしていた。大人たちを抜きにして、二人でまずは歓談を、ということで仕切られたからだが、エドワルドはそんな話を聞いていなかったため困惑する。しかし、目の前にいる亜麻色の髪の背の高い美女、ソフィヤから、テーブルを挟んでソファに座っているというのにどこか威圧感を感じつつも、その魅力的な風貌から目を離せない。


「初めまして、でよろしいのかしら、エドワルド」


 ソフィヤの声でエドワルドは我に返る。声が上擦らないよう注意して、胸を張ってみせた。


「エドワルド・レオナルド・ベイロン・タッチェルだ。遠くから見かけたことはあるが、話したのはこれが初めてだ、ソフィヤ・ランダイテ」

「あら、そう。では、私の印象はいかが?」


 ソフィヤは立ち上がる。一歩一歩、ゆっくりとエドワルドに近づき、隣に座る。


「思ったよりも女性らしい? それとも、背が高くて威圧感がある? そうね、他には」

「……その、手の鞭は、何だ?」


 絞り出すように、エドワルドは何とか声を上げた。指差した先、ソフィヤの右手には、乗馬用の鞭がある。使い込まれて古臭ささえあるその鞭は、異様にソフィヤの手に馴染んでいる。


「ごめんなさいね。私、駄犬の躾はこれがないとできなくて。大丈夫よ、痛いだけで傷にはならないわ」

「そ、そんな話を聞きたいんじゃない! 何だ、何の話をしているんだ!?」

「タッチェル伯爵の身柄はとっくに確保してあるわ。私直属の傭兵部隊がいるの、首都西ウェストエンドの売春窟にいたからそのまま拘束して独房へ。阿片と酒を抜かないと話にならないもの」


 話に圧倒され、姿勢でも馬乗りにされ、エドワルドは恐怖を覚えて身動きさえ取れない。


 何の話をしているのだ、という疑問は、ソフィヤにとっては愚問である。エドワルドはやっと気付いた。気付いたころには、蛇に睨まれた蛙のように、縮こまっていた。


「まずはタッチェル伯爵を貴族に仕立て直します。そうしなければ、私の名誉が傷つきますもの。これに関しては、あなたも同意してくださるでしょう? あの放蕩っぷりは、目に余るものがありましたし」

「そう、だな。それは……確かに。私も、目先の快楽に耽る父のことは嫌いだった」


 やっとの思いで、エドワルドは嫌悪感を吐き出す。淫蕩に耽る父が嫌いだった、貴族としての体面を保つどころか、財産を減らしていく父が嫌いでしょうがなかった。それもこれも、女に騙されてのことだと知って、思春期を迎えるころにはエドワルドは内心女性を嫌悪するまでになっていた。


 しかし、目の前のソフィヤは、そんなことからは超越している。


「かわいそうに、エドワルド。でも大丈夫よ、私がいるわ。あなたのすべてを管理してあげる。あなたは私の言うとおりにしていれば、貴族として、紳士として、私の夫としてこれ以上ない賞賛を受けるようになるでしょう。言っている意味は分かるかしら? 私のワンちゃんドギー?」


 ソフィヤが、ただの十七歳の少女が、どうしてここまでの威圧感を放てるのか。


 エドワルドがそんなことを考える余裕はない。ただ、頷くしかない。ソフィヤには、服従するしかないのだと、本能が告げている。ソフィヤにも、本能にも逆らうことはできなかった。


 ソファから起き上がり、ソフィヤはにっこり微笑んだ。


「いい子ね。それじゃあ、行きましょうか」

「ど、どこへ?」

「ペイトリオット辺境伯家の領地よ。大丈夫、一ヶ月もあれば慣れるわ」

「何に慣れるんだ!? いやそうじゃない、何をするつもりだ!?」


 口答えは許されない。エドワルドは右手の甲を鞭で打たれる。


 痛みのあまり、手を押さえてうずくまるエドワルドへ、ソフィヤは冷徹に言い放つ。


「言ったでしょう。あなたを躾け直すの。すべて管理して、その甘ったれた愚かな言動も行動も綺麗さっぱり直してあげます。感謝しなさい、ワンちゃんドギー。さあ、行くわよ、ついてきなさい」


 あとのことは、二人の間の問題だ。


 少なくとも、隣室で様子を窺っていたレヴィルスは、そう結論づけた。


「さて、あとはランダイテ嬢に任せよう。これでアーサを煩わせる輩はいなくなった」


 それはレヴィルスだけでなく、カルロもジェニーも一枚噛んでいるのだが、決してアーサには真実を漏らさない。


 紳士淑女の協定は、破られることはないのだから。

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