4. 奴等の転落、そしてヘル

「こんなに飲むんですか、薬……」


 巨大な薬の袋に入っている大量の飲み薬。冗談抜きで、仮に空腹だったとしてもこの飲み薬だけでお腹がいっぱいになりそうだ。

 私のつぶやきに、薬剤師が呆れたように話す。


「はい、必ず全部飲んでください。これ大半が抗生物質です。絶対に途中で飲むのをやめないでくださいね」

「医者が儲けたいだけの詐欺みたいな薬の量じゃない」


 半笑いで返したジョークに、薬剤師は真剣に返してきた。


「様々な薬を組み合わせるカクテル療法は、薬を飲むのをやめたり、一部の薬だけを飲んだりすると、身体の中の菌が薬に耐性を持ってしまうことがあります。こうなると、治療する術が極めて少なくなります」


 薬剤師の説明につばをゴクリと飲む。


「いいですか、必ず指示通りにすべての薬を服用してください。必ずです!」

「わ、わかりました……」


 トートバッグからはみ出るほどの量の薬を持って、泌尿器科を出た。

 診断の結果、複数の性感染症が発覚。会社の同僚だけでなく、不特定多数の男性とのワンナイトラブを楽しんできたツケを払う時が来たのだ。

 それでも、まだキョウコは希望を持っていた。幸い生命に関わる病気ではなかったし、男性関係で揉めている会社は辞めればいいし、最悪田舎に帰ればすべてがリセットされる。田舎で適当な男を見つけて、結婚してのんびり暮らすのも悪くないと、そう思っているのだ。

 キョウコはそんな希望を胸に、明るく微笑みながら帰路についた。


 しかし、キョウコはまだ知らない。


 就業時間中のトイレやホテルでの性行為や、取引先の営業マン相手の性行為が会社にバレて、懲戒解雇になることを。

 今回の性感染症が大きな感染禍となり、同僚や関係を続けていた男性の家族の多くが離婚。莫大な金額の慰謝料を抱えることになることを。

 それらのことが実家にバレて縁を切られ、家族や友だちをすべて失うことになることを。

 抱えた負債の支払いのため、結局性感染症に怯える仕事に就くことになることを。


 幸せそうな微笑みを浮かべながら、青空の下で楽しげに歩くキョウコ。

 彼女がこんな微笑みを浮かべられるのも、これが最後だった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 なんで……なんでオレが降格で、減給で、異動なんだ!


 人事部長から呼び出された時、オレは昇進の話でもあるのかと思っていた。ウチの部署は売上もかなりいいからだ。最近はので、今度ばかりは良い話だと、そう信じていた。会議室で必死に自分の部署の業績の良さを人事部長に説明するオレだったが――


「その売上、半分以上ひとりの実績ですよね。実は、その若杉くんから退職の申し出があって、どうしたのかと話を聞いたら……。とりあえず思い留まってくれましたけど、色々なひとにヒアリングしましてね。あなたとあなたの部下の若杉くんへのハラスメントが酷すぎると、話を聞いたほぼ全員が口を揃えてそう訴えましたよ」


 あ、あれはちょっとした可愛がりで……


「それに、あなたたちははら京子きょうこさんと不倫関係にありますよね。原さんとあなたの部下の一部は、就業時間中の性行為の証拠と証言を得ましたので、近日中に懲戒解雇になります。あなたも諭旨免職としたいところですが、社長の厚意でこういう処分にしたのです。嫌ならお辞めなさい。少なくとも私は止めませんよ」


 オレは何も言えなかった。


「では、明日からは湾岸地区にある倉庫で作業をお願いします。もうオフィスへの出勤は不要です。私物は本日すべてお持ち帰りください」


 うなずくしかない。

 腰を上げた人事部長は、何かを思い出したようだ。


「そうそう。倉庫の責任者はご存知ですか?」


 倉庫……確か叩き上げの女性が責任者だと聞いた気が……


「はい、そうです。ロジスティック部の部長は女性で、経営感覚と現場の空気感をとてもよく理解されている優秀な方です」


 頼りになりそうだな。


「彼女、若杉くんと公私ともにとても仲がいいんですよ。若杉くんの彼女と三人で食事することもあるらしいですよ」


 えっ!?


「繁忙期、倉庫が人手不足で苦しんでいる時に、若杉くんは率先して倉庫へ手伝いにいきましたからね。彼は現場の方からの信頼も厚いんです」


 知らなかった……


「それと、彼女は旦那さんの不倫で離婚した過去がありますので、不貞行為を平気でするような男性は毛嫌いしています」


 オレの呼吸が早くなっていく。


「まぁ、がんばってください」


 ニコリと笑みをオレに向けた人事部長は、そのまま会議室を出ていった。


 オレはすべてを失った。性病を感染させたであろう妻、そして子どももきっと失うことになる。オレは一体何をしたかったのだろう。


 会議室のテーブルに、髪の毛がはらりと落ちた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る