第11話 ナデシコの面々 回想への扉


面接をした週の金曜日が勤務初日となった。早々から鏡の前で入念に化粧をした。私のイメージするホステスとは何だろうか。頭の中の人生閲覧履歴をカチャカチャと巡らせるが、べたなイメージにしか飛ぶことが出来ない。ネットで“ホステスメイク”と検索をして見よう見まねで濃い顔を作ってみた。まるでホラー映画のような仕上がりに、自分の化粧の腕の低さに愕然とした。ドレスはお店に貸してもらう手筈になっていた為、ド派手なメイクにジーンズといつものチュニック、足にはハイヒールというアンバランスないで立ちでナデシコへと向かった。


ロンドンのメインストーリートは白夜を楽しむ人の群れで賑わっていた。大きな買い物袋を肩に抱える観光客や、シティー勤務の会社員達が週末の始まりに胸躍らせているのを横目に私はナデシコがある暗い裏通りに入った。

開店前の暗い店内に入るとその日は桃色の和装をした四十代半ばの妖艶な女性が迎え入れ、そのまま私は薄暗い小さな事務所に通された。

「紗良さんね、始めまして、ナデシコのママをしています雪乃です。」

雪乃さんは私を上から下まで嘗め回すように見た。

「初めまして、紗良です。今日からよろしくお願い致します。」

「杏ちゃんから話は聞いています。細かい事は良いとして、紗良さんは本名かしらね?」

「はい」

「ではお店で使える名前を早急に考えてもらえる?」雪乃さんは凛としていて美しい。しかし笑顔には陰と陽の両方が見え隠れしており僅かな違和感を覚えた。何をもって陰と判断するかは個人の見解で異なるとは思うが、例えば雪乃さんが聖人であるならば、彼女のヘーローは宇宙の万物のどれとも溶け込めないような配色なのだ。私はその場から早く立ち去りたくとっさに思いついた名前を口に出した。

一度失態を犯したあの仮面である。

「セ、セーラでお願いします。」

「セーラね、ではセーラちゃん、まずその服着替えて女の子達のウェィティングルームで待ってて。今日は予約で埋まっているからあなたにも出番はあるはず。」彼女は笑った。

その笑顔に安堵させられたのも束の間、雪乃さんの静かで氷のように冷たい声が鋭く耳に突き刺ささった。「あと、顔、作り直して。それじゃあお客さんつかないはよ」

自他共に認める女子力の低い女である。

化け物のようなメイクをして登場し、自業自得ではある。しかし背筋が凍るような雪乃の冷たい声は未体験ゾーン突入への恐怖に一層の拍車をかけた。


自称教育係りの杏は自前の化粧セットを広げると、私にロンドン風ホステスメイクを施してくれた。意外に薄化粧だがこんな私でも洗練された印象を与えた。そして肩まで伸びた乱れた髪の毛をクルリと丸めアップスタイルにまとめ、サイドの髪を少し垂らした。「よし、行くよ」杏に連れられるがままウェィティングルームの扉を開いた。私を待っていたのはグレーのユー字型ソファーぎっしりに並ぶ“女の子達”。

皆まちまちな事をしている様子だ。

杏が声を張り上げた

「今日が初出勤のセーラちゃんです、皆色々教えてあげてね」

女の子達の大半は頭を下げたり、手を振ったり好印象で迎え入れてくれたが、ちらほらと鋭い睨みをきかせてくる視線も感じた。

「空いてるとこに座って、呼ばれるまで待ってて。」

口早にそう言い残した杏は踵を返した。

その時「ここ座りい」と威勢の良い関西訛りの声が私の視線を捉えた。ソファーの隅に座っていた姉御風の女性が油とり紙を鼻にあてながら席を詰めてくれていた。

「わたし、たまよ、愛称たまちゃん。

よろしくう。」その女性はスパンコールがぎっしりと刺繍されている黒いポーチから名刺を差し出して言った。

「あ、歌の勉強しているたまちゃんですか?杏さんから聞きました。」

予め情報を得ていた事に胸を撫でおろした。

「勉強て、そな凄いもんじゃないんやけど。離婚を期に子供と二人で親子留学中や。」そう言うと私に向かい威勢の良いダブルピースをして屈託の無い笑顔を浮かべた。

「ほい、ほれ、セーラさんだっけ?

これ田舎から送られてきたから1つどうぞ。」たまちゃんの隣に座っていた若い女の子が白い恋人の箱を腕を思いきり伸ばして手渡してきた。

「私カレン、よろしくね」カレンちゃんを皮切りに次々と日本の名産が入った箱が四方八方からあらゆる方言と共に飛び交いだした。そこはまるでデパートの特設会場で催されている各県自慢の品が集結した物産店のようであった。

ロンドンの日本人ホステスがこんなにも日本各地から集まっていたことなどそれまで知る由もなかった。そして女の子達のウェィティングルームでは家族から送られてくる銘菓や特産物を皆で分け合う事が恒例のようである事など、初日の私には全てが真新しいことであった。様々な名産品やお土産を目の前のテーブルに置いた私は横のたまちゃんと歌について話がしたく、姿勢を傾けた。その時扉が開き雪乃さんが姿を現した。まるで大奥が君臨したかのように両脇には黒服の男性達が数人エスコートをしていた。

化粧直しを終え抜かりの無い装いの雪乃さんは小さなメモに視線を向けて無表情で話し出すのだ。「たまちゃん今日は全テーブルからご指名が入っています。東欧信託からのご指名は、みはる、きょこ、マリリン、王継銀行歓迎会にはカレン、さえこ、アイラちゃん、個人ご指名は、ゆりりん、ミッシェル、さち…

まるで魚のセリでもしているかのような雪乃さんの口調は続いた。そして最後にポツリと付け加えた。「セーラちゃんはグローバル商事に入って。今日はグローバル商事のロンドン支社長丸川さんのバースデーパーティーで人手が足りません。猫の手も借りたいくらいなの。」

そう言い残すと黒服の男性と共に踵を返した。

グローバル商事と言えば世界中に支社を持つ日本最大手の商社だ。選び抜かれた一握りのエリートしか採用されないことで有名であった。

無論身近な人間にグローバル商事で勤務している者など一人もいなかった。それに加え酒豪の集まりであるということは誰でも知っていた。

そんな有能な愛酒家達を相手に若葉マークのホステスが何をすれば良いのか全くの皆無であった。気持ちがなまりのように重たくなってきた。隣で空気の重たさを察っしたのか、たまちゃんが耳元で囁いた。

「今日はとりあえず一番端に座って杏ちゃんを観察して勉強しとき」そう言い残すと指名が入っている部屋へと移動していった。

雪乃さんは新人には最もハードルの高いお客さんを付けさせるという、言ってみれば新人ホステスが通る通過儀礼のようなものだ。

たまちゃんを筆頭にいざ出陣とばかりに他の女の子達が各々の部屋へと吸い込まれていった。そして私も。ロンドンでのホステスという仕事が始まった。大丈夫何があっても

「しらんぷり、しらんぷり」

これを唱えると笑顔になれた。


その夜グローバル商事は三十人以上の大人数でホールの中央のテーブルをリザーブしていた。私は女の子達の最後尾に付き、座る位置がなるべく隅になるようにモタモタと動いた。ソファーに座っていた男性達はそれぞれ指名した女の子を手招きして呼び寄せたり、顔見知りのホステスに遠くから手を振ったりと大いに歓迎ムードを露わにした。徐々に大きなソファーには男女交互の綺麗な模様が浮かび上がった。私はそのソファーの一番端にお尻が半分落ちそうな状態で着席した。

それは猫の手以下の位置であった。

「皆さん、好きな飲み物を頼んでね」

中央の紳士が前のめりの姿勢で声を上げた。

「いただきます」

ホステスは各々に礼を言うとボーイを呼びお酒を注文を始めた。恐らくこれが会の始まりなのだろうと私は心のメモに記した。

「君、丸川支社長がいつも歌ってるやつ数曲入れてくれる?」

隣の若い男性がおしぼりで手を拭いながら言った。

「あ、ごめんなさい、私今日が初日で、」

「あ、新人さんか。じゃあ分からないか。

丸川さんはビートルズとサザンが好きなんだよ、覚えといて損はない。僕は姫川です。

よろしく」

「セーラと申します。」

「セーラちゃん?さんかな?よろしく」

話は弾まないまますぐに姫川さんは逆側に座ったさくらちゃんと談笑を始めた。弾まないとか言っている場合ではないのは分かっていた。

自分の置かれている現状は男女が対等に縁を繋ぐようなコンパではなくお金を頂いて楽しんで頂くビジネスの場なのだ。話は自ら弾ませなくてはならない。インパクトを与えない限り自分が指名されることなど一生無いのだ。

しかしどうやって?

この日二十七歳にして初めて気が付いたことがあった。それは自分には引き出しが少ないという事だ。或いはもっと単刀直入に言うとつまらない、退屈な人間であるという事だ。 

知識、教養、経験、どれをとっても自分には引き出しが一段あるかないかであり会話を引き出す能力も会話を継続する術も皆無であるという事に。

それに加え女性としての魅力も底辺レベルだ。

これではホステスは務まらない。

日本では無意識に何となく呼吸をしてきたが何故かその日他の女の子達を目の当たりにして、激しい焦りと憤りを感じ呼吸困難になりかけていた。

誕生会が幕開けをして宴会が盛り上がりだしていた。丸川さんがほろ酔いでマイクを持ちサザンオールスターズの「ラブアフェアー」を熱唱していた。部下の人間もホステス達も手を叩き盛り上がる部屋で私はまるで孤島にでもいるかのような孤独な感覚を抱いていた。そんな事を考えながらも他のホステスを真似て何とか時間を繋いでいた私に視線を投げかけてくる若手社員がいる事に気付きだしたのだ。私から向かい時計の⒑時の位置に座ったその男性は終始ちらちらとこちらを伺っては目を反らすという事を繰り返していた。いや、厳密に言うと、そんな気がした。しかし天下のグローバル商事の社員に知り合いなどいるはずがない。考えられるのは以前勤務していた和食レストランで接客を担当した客の一人か。そうであっても彼のような顔立ちの整ったエリートなら間違いなく記憶に残っているはずだし、逆に私のようなインパクトの薄い人間などあちらが記憶しているはずが無いのだが。

「気になる?あいつ」

隣で選曲をしていた姫川さんが突然口を開いた。この人はどこに目が付いているのだろうか。今までこちらに一瞬たりとも視線を向けなかったのに。見ていないようで見ている、それは有能な人間達の共通点なのだろうか。

「いえ、気になるといいますか、あの方とどこかでお会いしたことがあったかなと」

「あいつと?あるんじゃん、ロンドンなんて狭いし。まあ良い男だよな。喋らなきゃな」そう言うと姫川さんは今度は私をしっかりと見て微笑んだ。まるで‘君もあいつに惚れたか‘と言わんばかりに。

会話を繋げようとその話題に飛びついた。

「彼の話がつまらないという事ですか?」

「いや、その逆かな。色々な意味で意外性があって憎たらしいんだよ。」 意外性

そのコメントから姫川さんがある程度その男と社内で関わりがあると察した。

「まあ残念だけどあいつはこういう店にはもう来ないと思うよ。今日は丸川さんの誕生会だから渋々参戦している感じだし。」

そう言うと水滴が垂れかかった水割りのグラスを手に取った。

この水滴を拭うのも私の職務なのだろうか。

彼に惚れた訳ではなく彼がこちらをちらちらと見ていたから気になっただけです。などという余計な情報はあえて伝えないままその夜は更けていった。ひたすら学ぶだけの夜、それは孤独な夜だった。たまちゃんの美声で歌われたヘイジュードを聞きながら目頭が熱くなったことは今でも忘れない。それと同時に無性にジャズが歌いたくなったことも。

 それから一週間の研修が続きホステスとしての粗方の流れを把握してきた私は銀行残高回復の為にナデシコで毎晩奮闘した。

そしてあの日は何の前触れも無く突然訪れた。

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ロンドンマジック 辻雲涼華 @ladyr5555

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