第10話 杏 回想への扉7
ロンドンに夏がきた。どれだけ待ち遠しかったことか。それは私達人間だけではなく自然界に生きる様々な植物も夏の、それまでより幾分強くなった太陽の日差しを余すことなく吸い込んでいるかのように伺えた。季節の恵みを受け色鮮やかに変幻したロンドンの街並みは、
ライトトーンの服を纏った人々で埋め尽くされ、ロンドンは更に活気を帯びていった。
悪夢のような体験をしたナショナルジャズディから3カ月が経ったその頃私は新たな試練を迎えていた。
それまで勤務していた和食レストランの経営状況悪化に伴い突然解雇を申し渡されたのだ。
ジャズスクールを退学した私は仕事だけが励になりつつあり、語学スクール後に毎日フルで出勤していた。常連客ともそれなりに顔見知りになり、チップも弾んで貰えるようになり徐々に居心地の良い環境が整いだしていた矢先だ。 そんな状況下での解雇は私を自暴自棄にさせオンラインカジノなどという不慣れなギャンブルにお金をつぎ込む生活が始まったのだ。
無論、通帳残高は悪化の一途をたどり、語学スクールは休みがちになり生活が荒みだした。
セーラはその影を潜めつつあった。
たまに外の世界に出る事もあった。しかし公園のベンチに座っていても、カフェで一番安いコーヒーを飲んでいても、当てもなくふらふらと歩いていても、そもそも私はここへ何をしに来たのか、ただ過去の負の感情に囚われ溺れる為だったのか、英語力の低さを改めて認識する為だったのか、あるいはジャズを諦める為だったのかそんなネガティブな事を悶々と繰り返し自問する時間が止めどなく流れた。
それでも毎日お腹は空くものだ。しかしそれまでの美味しい賄いにはありつけず、イギリスの味気の無い食事は中枢神経を満たしてくれず、やはり和食を食べたくなるが値の張る和食レストランで外食などする懐状況でもなかった。
負の連鎖が蠢きをあげだした。
力を振り絞り苦手な自炊に踏み出すことにした私は和食食材店が運営するネットスーパで納豆とカリフォルニア米を調達した。イギリス特有の太いキュウリと人参を近くのマーケ―とで購入し浅漬けを大量に作った。稀に納豆オムレツやサバ缶料理も加わり、質素ではあるが満足に腹は満たせた。ゴミ袋の納豆パッケージがぎゅうぎゅうになった頃、2回目の配達を頼むことにした。小雨が一日続いた薄暗い夕方にまた新たに大量の納豆が届いた。その時は醤油せんべいも便乗した。まるでクリスマスプレゼントが届いたかのように心を弾ませ開封していると商品の上段の伝票の下に一冊のフリーマガジンが顔を覗かせた。「ロンドン生活役立ち情報」
それは購入者に配布している情報誌だった。
煎餅をぼりぼりとむさぼり、乱れた髪の毛を無造作にまとめ、その情報紙の目次で旅行・航空券というページを探した。そろそろ潮時だ。
航空チケット代が無くなる前に帰国しよう。
そう、ナショナルジャズディの一件や、解雇、ギャンブル、全てが上手くいかなくなっていた私はワーホリを一年早く切り上げて帰国しようと考え始めていた。そんな私にそのマガジンは渡りに船だった。手頃なチケットを販売している旅行会社へ問い合わせようとした時、その旅行会社の隣のページの求人欄のとある求人に目が留まった。
「和食レストランで高収入をゲット!
歌好きな人集まれ!
杏まで気軽にご連絡下さい。
カラオケレストランナデシコ」
和食レストランで高収入、そう何度か繰り返し呟く私の左手は携帯を握りしめていた。
短い呼び鈴の後日本人女性が軽いトーンで応答した。その女は求人記事を載せた杏自身だった。何を聞きたいのかもまとまらずにただ口ごもる私に杏は慣れた口調で素早く応答した。
「あ、バイトの件ですかね?」
「あ、はい、あの、、そのバイトは、、」依然何を聞いて良いのか定かではない私に杏はまるで用意された台本を読むかのように続けた。
「お問い合わせ有難うございます。このお仕事に興味があるのなら、一度お越し頂けますか?
その時に簡単な面接のようなものをしますので。」
あれよあれよという間にその“面接のようなもの”は翌日の一八時に予定された。
電話を切り我に返る。
私は何故このカラオケレストランに電話をかけたのだろうか。
正に衝動的な行動だった。帰国を考え始めていた人間がとる行動ではないはずだが、心のどこかではあと一年残ったワーホリビザを無駄にはしたくない自分もいたわけだ。
しかもレストランで高収入とくれば、理想的な仕事だ。収入があればまた語学スクールにも通うことが出来るかもしれない。
あと一年通えば英語力も向上し、ジャズに代わる趣味も見つかるかもしれない。
もう少しだけ頑張ってみようか。
外は風が強くなり出し、部屋の小窓がガタガタと音を立てだした。風の音が増す度に自分の胸が少し高鳴ったのは決して不安からではない。それまでの荒んだ生活から脱出出来るチャンスかもしれないという安易ではあるが僅かな期待からであった。
翌日“面接みたいなもの”に間に合うように地下鉄に乗り最寄り駅のオクスフォードサ―カスへと向かった。念の為アイロンがしっかりとかかった紺のパンツとブラウスを着た。
道中でふとリアルな思考が展開され出した。
そう、冷静になると回転しだすあの面倒な思考回路だ。ナデシコが和食レストランなのはわかるが、何故高収入なのだろうか。
深夜勤務の募集なのか、奇抜なウェィトレスの募集なのか、あるいは過酷な厨房の仕事なのか、そう言えば仕事内容は詳細に記されてはいなかった。‘歌好きさん集まれ‘とも書いてあったが、自分が歌う事だけは避けたい。あの一件以来、一生やりたくない事リストの第一位に急浮上したのが人前で歌う事。昨日の電話で杏という女性にこの全てを聞いておけばよかった。
冷静に考えれば考える程、前日の衝動的な行動を悔やみ始める自分がいた。しかし思考とは裏腹に自分の身体はレストランへと向かい続けるのだ。携帯の経路案内のキャサリン(音声機能の女性は全てそう名付けていた)が導くままにただ歩いた。キャサリンが目的地到着の報告をして自分がいる場所を再確認したが当初思っていたレストラン街からは遥かにかけ離れた人通りの少ない路地裏に立っていた。
「キャサリン本当にここなの?人っ子一人いないけど」そう呟き店を探す自分の目線にレストランらしき建物は見当たらない。ふと住所を確認すると住所の後尾にbasement“地下“と書かれているのを発見した。店のサインも無いし地下にレストランかと不可解に思いながらもドアベルを鳴らした。ジリっと大きく響くベルのすぐ後女性がドアの隙間から目だけを覗かせた。
私は恐る恐る尋ねた。
「あ、ここナデシコですか?昨日お電話で話した、」
ドアがバッと勢いよく開いた。私を招き入れたその女は長い足が露わに見える丈の短い黄色いドレスを着ていた。ドアを閉めた瞬間裾がひらひらと魅惑的に翻がえった。私はリクルートスーツで呆然と立ち尽くしていた。女性らしさの微塵も無い自分には場違いだと確信しながら。
「あ、どうぞ、どうぞ、杏です。よく辿りつけたね。大概の女の子達は迷って電話してくるんだけどね。」そう言うと杏はそれまで暗かったコリドアーの灯りをつけ出した。灯りが手前から順番につくのと同時に店内の全貌が明らかになっていった。床には赤い絨毯が敷かれ、長いコリドアーに沿った左右には様々なサイズの個室があり小窓を除くとカラオケが完備されているようだった。壺や掛け軸といった高価そうな装飾品が所々に飾られている。突き当りの大きな扉の前に杏が立つと扉は自動的に開いた。
その先にはステージが設けられた煌びやかなラウンジが広がっており、ダイ二ングテーブルやバーが整然と配置されていた。突如ムーランルージュに迷い込んだかのような、そんな幻想的な体験をした。杏はゴージャスでフカフカのソファーシートに私を腰掛けさせた。
「女の子達が来るまで少し時間があるはね」
杏は時計に軽く視線を落とした。
「レストランの開店時間は?」
最早レストランではないのは一目瞭然ではある。そんな愚問を口にした私に杏はくすくすと笑いながら言った。
「紗良さん、だっけ?こういうお店初めてでしょ?」
「こういうお店って、どういうお店なんですか?」色々と察っしてはいたものの、これだという直球の回答にはまだ辿り着いていなかった。
「男の人にお酒を注ぐお店、まあ、日本でいうホステスかな。内はでは‘女の子‘って呼んでいるけどね」
正解はホステスだったのか。まさかロンドンで日本人ホステスを募集しているとは思ってもいなかった。だったらホステス募集と書いてくれれば自分はここにはいなかったのに。それは偏見では無く、未経験が故だ。それまでの二七年間の人生で女性を武器に収入を得た事などなかった。大学の頃からコンビニでバイトをして、その後中小企業で事務員として勤務。それ以外に何もしたことがない。少しの冒険をと思いロンドンへやってきて初のウェィトレスを経て、次はホステスの門を叩いたのは良いが、
こんな私にホステスなど勤まるのだろうか。
そんな事を呆然と考え込むなか、杏が私の思考を止めるかのように脳天を付くような声で続けた。
「あ、ホステスって言っても、ちょっと日本のホステスとは感覚が違うかな。来るお客様は皆さん大手企業のロンドン駐在員さんで、ほぼ皆、日本から家族も連れてきているような。だから女遊びが目当てではなくて、日本を懐かしんで、カラオケを歌いに来るみたいな感じかな。週末は奥さんと子供を連れてくる人もいるしね。」
杏はポシェットからリップクリームを出し唇にさっと円を描くように塗り、なじませてから再度話はじめた。
「女の子達の大半はこういうお仕事が未経験よ。様々な年齢のワーホリさんとか学生さんだから、紗良さんとも境遇は似ているのかな。あ、たまちゃんは歌手の卵で、マリリンはバレリーナの卵だ。ま、そんな人もいる。ちなみに紗良さんは、歌は好き?」
杏は首を傾けて私に聞いた。
「あまり人前で歌うのは得意ではないんですが。」カラオケレストランの面接でこの返答は不可解に思われるのは間違いないが、あの一件については触れたくなかったし願わくは不採用を求めていた。
「まあ、大丈夫よ、ここに来る殆どのお客さんは聞くより自分が歌いたい側だから。そこで盛り上げてくれさえすれば。」幸か不幸か杏はあっさりとその件について了承した。
‘面接のようなもの‘では持参した履歴書は求められる事も無く、緊張とはかけ離れた雰囲気で時は流れた。それなのに自分の膝の上に置かれた握りこぶしは酷く汗ばんでいた。待遇の良さには驚かされた。ポンド高が功を奏し時給は日本円換算で4000円、勤務後は厨房の男性が無料で自宅まで送ってくれるという。おまけに上海出身のさくらちゃんという子が勤務前に賄いまで作ってくれるという。話を聞きながら、少しの間お金の為にやってみようかと気持ちは変化した。
ついさっきまで静まり返っていた暗いラウンジにポツポツと綺麗な装いをした“女の子達”が集まりだした。
そわそわとし出しだした杏は私にこう聞いた。
「so, would you like to start?」
[始めてみますか?]
口から出た自分の答えは「why not」[是非]
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