第9話国際ジャズディ 回想への扉6

国際ジャズディディの前日殆ど眠れずに朝を迎えた私は部屋の窓辺に肘を立て、顎を手の甲に預け放心状態で外を眺めていた。朝の礼拝に集まる人々が窓下の教会へと群がりだし人の輪がまるで万華鏡のように動いていた。

その朝窓から見える世界以外は視界に入れたくなかったのは、自分の小さな部屋にはハンガーにかかったあの深紅のドレスが亡霊のようにこちらを睨んでいるからだ。

買った当初は手書きのイラストを愛あらしく思ってはいたが本番に近づくにつれ、

ドレスの赤みに恐れを抱くようになり直視することが困難となっていた。

その日まで練習を重ねた。本番では歌い慣れたノラのdon`t know whyを披露する。小さなパブでの歌唱なんて怖気づく必要は無いと、呪文のようい唱え続けてきたが流石に当日は朝から緊張で口が乾いていた。

本番は十八時開始、新人枠の私とデボラ、サムは前半の十八時半過ぎに出番がまわってくると聞いていた。リハーサルの為十六時にはパブ上段のスクールへと赴き、

発声練習の後ドレスに着替える為小さめの部屋へと移動した。

その日は窓が全開になっていたせいか、下段で運営スタッフが舞台を準備している忙しない物音がよく聞こえた。そんな物音をBGMに私はそれまで着ていた粗末なジーンズとブラウスを脱ぎドレスに着替えをしていた。

その時扉の向こうから声がした。

「ノックノック」明らかにアンドレアの声だ。

「どなたですか?」わざとらしく聞いた私にアンドレアは

「私はあなたの執事です。お姫様のお着替えのお手伝いに参りました。」

と買い物の時のロールプレイを続けていた。

「よろしい、入りなさい」

扉が開くとヘアメイクさんのような大きなバックを担ぎ、左手にはワインを抱えたアンドレアが悪戯顔でワインボトルを私の目の前で振り子のように揺らしていた。

「少し飲みたかったでしょ?」

「やっぱりあなたには私の考えが何でも分かるみたい」

アンドレは気を利かし持参したコルクスクリューでボトルをキュッと開けると、大きなカバンからプラスチックのコップとクラッカーを取り出した。

勿論お洒落なチーズもお供してきた。いつもはブルーチーズが好みの彼女だが、

その日はチーズ臭が弱いスモークチーズを木の容器から取り出した。

窓からは少し高さを帯びた春の夕方の私達を少し解放的にさせる日が差し込んでいた。この時二人で飲んだひんやりと冷えた白ワインの味を忘れることは出来ない。

しかしほろ酔いで飲むのをやめ、アンドレアが調達してきてくれたヒールの高い黒いパンプスに履き替え、唇には深紅のリップスティクが塗られた。

「お姫様準備完了です。」

「ありがと、アンドレア」私達は出会った時から何故か馬が合っていた。

多くを語らなくても、理解し合うことが出来た稀な関係だった。

しかしこれが私とアンドレアの最後の会話になるなんてこの時には微塵にも思わなかった。いや、彼女には分かっていたのかもしれない。準備が整った私はソフィアに連れられパブの裏口へと降りた。ソフィアは今日のおおとりを務める。彼女は黒のロングドレスの裾を手繰り上げ慎重に歩いた。重たい扉を開くとキッチンに繋がる細い廊下があり、その先には会場が準備されていた。アンティーク調のイスが所狭しと並べられ、窓脇に設けられたステージは思った以上に存在感を露わにしていた。

美しい野の花々を用いた生花がステージ脇を彩っている。どことなくスモークがかかった会場全体の特別な雰囲気にしり込みを感じ出した事を否めない。

既に飲み始めている人の輪がサービングカウンター前に密集し、ステージを指さしたり、歓談を楽しんでいる様子が伺える。アンドレアは気を利かせたのか後方の椅子に座りワインを静かに飲み続けていた。

観客は次々と入店しだし、正装した紳士達はまたこの季節ですねと言わんばかりに脱帽して挨拶を交わしている。想像より遥かに重厚なそして歴史的なイベントである事を瞬きをするごとに痛感しだした。

私の緊張は最高潮に達してきた。

「はい、被害者の皆さん、こちらで並んでいて下さい。あ、待ち時間に飲み過ぎには要注意よ。やけ酒はショーが終わってからで。」

出番待ちの人間を誘導しているソフィアは悪戯気なコメントで場の雰囲気を和ませていた。

出演者を被害者などと呼びイギリス人ならではの皮肉的なジョークも満載だ。

その“被害者”の一人である私は出番を目前にして祖母を偲んでいた。

祖母は今日の日を何て言ってくれるだろうか。

幼い頃、西日が差したあなたの部屋。ロッキングチェアで揺れるあなたは私に歌ってくれた。そしてその後必ず「はい、次は紗良ちゃんの番よ」と言いベルベットのカーテンをステージの幕かのように開けて私に歌うように促した。「紗良ちゃんは美人さんでお歌が本当に上手。」穏やかに揺れるロッキンングチェアの音とあなたの優しい声は、声は、、、声のその向こうには、

「セーラ、出番よ。リラックスして」突然のソフィアの囁きに肩を竦めた。

私の出番だ。

舞台へと歩き出す深紅のドレスの私はセーラという仮面をつけた。よし、大丈夫。

仮面があれば私は何でも出来る。

Don`t know why のピアノイントロと共にグラスを手にした観客が思い思いの掛け声で私を歓迎してくれた。心地よいメロディーが会場全体を包み込んだ。深い深呼吸は私を音楽の世界へと誘う。気持ちの良い歌い出しに誰もがすぐに静寂を求めて私の声を聴き入り出したのを感じた。大丈夫、音に導かせるのよ。音符は部屋を舞い、私の声はベルベットのように全てを包み込む。そして私はその魅惑的な世界に浸るのだ。浸るのだ、浸れ、この世界に。

しかし事もあろうか私が浸り出した世界はその魅惑的な世界からかけ離れた遥か昔。さっきまで舞台袖で偲んでいた祖母との思いでの続き。それまでは霧のベールで包まれていた世界が鮮明になり私に牙を剥きだした。

「紗良ちゃんは美人さんで、お歌が本当に上手」祖母は少し怯えていた。

「ありがとう。私将来歌手になれるかな」

「なれるはよ、あなたなら」小声で囁いた。

穏やかに揺れるロッキングチェアの音とあなたの優しい声は私の耳元に届きそうになり、

ピシャリと止まった。

「みっともない声をして、そんなんで歌手になんかなれるかよ。お袋も孫を勘違いさせない方が良いぜ。不細工な顔しやがって。生きる意味の無い野郎だ。ばあさん、こいつはこ使い目当てで来てんだから気を付けろよ。」

そう、祖母の向かい側にはいつも叔父がいた。あるいは叔父が見張っていたという方が正しい表現であろう。そして私と祖母を執拗に罵倒した。背中を丸める祖母。

背後の悪霊は気のせいだよと言わんばかりに無表情で「しらんぷり。しらんぷり」と繰り返すのだった。

傷口に貯まった膿の如くどくどくと幼少期の記憶が蘇ってきた。蘇りのスピードは加速していき、ついに私の感情は制御不能となった。よりによってこんな時に。

いやむしろこんな時だからなのか。何がセーラだ。

何がジャズシンガーだ。

声がリズムに合わなくなってきた。

呼吸が乱れだし、息が出来ない。

ピアノの音が最早聞こえない。

ちゃんと歌わないと。歌えない。もうこれ以上は歌えない。呼吸が苦しい。

おばあちゃんを助けないと。

ピアノ演奏だけが切ないBGM のように流れ続けた。

「大丈夫かしら、あの子」「残念、素敵だったのに」「他にいなかったのかしらね」

「飲みすぎかしらね」

ひそひそと話す人の声が会場全体に響きだした。

その囁きがこの舞台での最後の記憶となったのだ。

大失態を犯した私は、羞恥心と露わになった記憶の余韻を抱え、会場をすぐに去る以外の選択肢が見つからなかった。私はただ無心に行く当ても無く走り続けた。途中立ち止まりすれ違う人々を冷静に傍観しようと試みたりもした。

しかし記憶の余韻は再び私に牙を剥いた。

一度決壊したダムの水圧をせき止める事が困難であるように。

記憶はダクダクと押し寄せた。

「また来たのかよ。この泥棒猫」

私はただ祖母と歌の練習がしたかっただけ。

「お前はいつだってこそこそとばあさんに会いにきやがって」

私はただおばあちゃんが好きだったの。

「俺に隠れて金もらってんだろ?通帳から金が引き出されてるんだよ。」

私はお金なんてもらってない。

おばあちゃんが好きだっただけ。

「この不細工、兄貴にそっくりだよな」

私はただ、大好きなおばあちゃんにお歌を教えてもらいたかった。

「兄貴とお前のせいで遺産が減るんだよ。消えろ、この不細工。」

そして深い静寂の中であの言葉が響く。

「紗良ちゃん、しらんぷり、しらんぷり」

私は祖母が大好きだったから、

ずっと“しらんぷり”をした。

私はここにいるけどいないの。

目を閉じて祖母が虐待を受けていたことにも

しらんぷり、しらんぷり。

知らんぷりがおばあちゃんを幸せにするの。

会いに来てごめんね、でもおばあちゃんとお歌が歌いたいの。。。


セントジョンズパーク、そこが私の辿り着いた場所だった。

着替えもせずにドレスのままで歩き続けていた。

仰々しい赤いドレスを着た自分が情けなかった。こんな事になると分かっていればアンドレアの着せ替え人形になんかならずに黒い目立たないドレスにしておけば良かったと深く後悔した。

パーク内にある外灯が春の夜を幻想的に彩っていた。木々の周りを装飾したクロッカスが芽吹きの呼吸を始めていた。火照った顔を優しい夜風が包んだ。

パークの隅にあるベンチに腰掛けた私は少しずつ平常心を取り戻し、その日の出来事を振り返っては、蓋をするということを繰り返すのだった。

新鮮な生傷と掘り起されたトラウマのダブルパンチは心に滲み、

結局最終的には「しらんぷり、しらんぷり」と強制的な笑顔でまた別の道を選ぶのだ。私はその日、それまで何となく放置していた過去の嫌な記憶の扉を開けてしまったようだ。きっかけは、緊張状態で人前で歌を披露することのようだ。

私はその後ジャズスクールを退学し、以来人に聞かせるような歌を歌っていない。

大好きなジャズを人前で歌うことは大好きな祖母を傷付けることと同じだと分かったから。

ソフィアが言っていた私が選抜されたもう一つの理由が頭によぎったが、最早尋ねることの意味を無くし、アンドレアやボーカルスクールの友人とも連絡を絶った。

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