第6話 ソフィア 回想への扉3

ボーカルスクールへと続く扉が私の背後で鈍い音をたてて閉まった。一階のパブ周辺で聞こえていた賑やかな音は何かに吸い込まれたかのように瞬く間に消えた。

まるでそこが真空状態のように。

スクールラウンジは静寂に包まれていた。

暫くの間受付らしき窓口の前で宛てもなくフラフラとしていると、幾つかあるクラスルームの中から懐かしい曲が聞こえてきた。

それはジャズの名曲『サマータイム』。

それは幼い時に祖母が教えてくれた歌。

私がジャズに出会った特別な一曲。

夕日が差し込んで幻想的に光る祖母の部屋で

さやえんどうのヘタを取ったり、栗の皮を剥いたりしながら口ずさんだ曲。

私の胸は突如として祖母や幼少期の思いで熱くなった。それと同時にこの曲を聞くと溢れてくる感情が温かいものだけではなく、殺伐とした雰囲気に恐れを抱いている自分が見え隠れしていることにも気付かされた。

そう、夕日が差し込んで幻想的に光る祖母の部屋、、

そこには純粋で美しい感情以外の恐ろしい何かがあったのだ。

その記憶の奥深い泉の底まで辿りつこうとしている自分がいたが、必死に水面へ引っ張ろうとするもう1人の自分もいた。

「あら、次世代のジャズスターさんかしら?」

そんな最中レッスンルームから出てきたしゃがれた女性の声が混乱した私を出迎え、とっさに幼い頃の負の感情に蓋をした。

そして私は繰り返し練習しきたフレーズを忘れないうちにと焦りながら唐突に質問をした。

「英語力が低くてもジャズのボーカルレッスンを受ける事はできますか?」 

まずは挨拶からでしょ?と心の声が聞こえたがそれどころではなかった。

「あらまあ、英語力?嘘はつかないわ、基本的な語学力は必要よ。レッスンでは私とコミュニケーションをとるんだから。でもね、あなたは、今しっかりコミュニケーションを取れている感じがするわよ。大丈夫、あとは歌いたいという強い気持ちさえあれば。」

‘私と‘と言うのを聞き彼女が教える立場であることを再確認して安堵した。

とっさに誰これ構わず声をかけてしまったのだから。

彼女は肩に掛けた小さなインド生地のポシェットからタバコを取り出し口に咥えて私に微笑んだ。ジーザスに白いセーターと質素な装いながら、魂の妖艶さを隠しきれない女性だ。彼女が纏っているのはオーラなんていう安っぽい言葉では表現してはならない内から溢れだす気のようなものだった。彼女の名前はソフィア、現役のジャズシンガーであり、プロ活動の合間に未来のシンガーを育成している。

「歌ってみる?ちょっと待ってね、この悪習慣を終えてからね」

ソフィアはライターを探しながら喫煙所に姿を消した。

一服を終えたソフィアに通されたのは独特なペンキの匂いとコーヒーの香りが混ざった角の部屋。窓からはロンドンの煌びやかな夜景が一望出来た。

ため息が出るほど美しかった。

真っ白の壁にはルイ・アームストロングやエラ・フィッツジェラルドといった往年のジャズシンガーのモノクロ写真が処せましと掛かかっていた。その雰囲気だけでも胸が高まるのを感じていたのに、ソフィアがピアノを奏でだし、気分は最高潮に達した。奏でられた無数の音符に合わせアームストロングやエラが今にも歌い出しそうであった。一拍おいたソフィアは物静かなイントロに入りながら小さな声で言った。

「あなたの年頃ならこの曲は知っているでしょう?これはジャズポップだから歌いやすいはずよ。」ピアノ横に立つ譜面台を顎で二回ほど合図して歌うように促した。ノラジョーンズの名曲「I don’t know why」だ。一人カラオケでよく歌っていた曲だ。エラのラブという曲から入り、ノラを歌いwonderful worldで締めくくる。早苗からワーホリ情報を渡されたあの日も惨めな気分で歌っていた。盛り上がりに欠ける曲が好きな私は、一人でカラオケに行くことにしていた。それが至福の時間だった。

故に自分が歌うジャズを聴いてもらう事は幼少期以来なかった。ましてやプロのネイティブの前でなんて。声は震えて、英語の発音も上手く出来なかった。

歌い終わって緊張からソフィアの顔を直視出来ない私に、彼女は一言言った。

「来週の火曜日⒚時からレッスンを始めましょうか?教え甲斐がありそうね。」

まるで一流のオーディションにでも合格したかのような特別な気分だった。

セーラは確実に呼吸を始めていた。

「身体の全てを使って歌うのよ。」

ソフィアの口癖だった。頭のてっぺんから足の指先、お尻にも意識して」綺麗に歌おうなんて思わなくて良い、自分の声質を感情とリズムに乗せて表現する。完璧なリズムを刻む手拍子、絶妙なタイミングで入る合いの手、初対面の時のクールな印象のソフィアを忘れる程の熱のこもったレッスン。畳みかけてくる20ものレッスンメニュー。毎週火曜日は良くも悪くも緊張感が溢れる日になった。

こうして私はソフィアと出会い、ジャズの

真髄を学び始めたのだった。

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