第5話 守衛 回想への扉2
オクスフォードサーカスを背にスクランブル交差点を左折して洒落た小道を数本超え
ると敷居が高そうな紳士服店があった。
その隣には外国為替両替所がありカラフルなウェストポーチを腰に付けた観光客が毎日右往左往していた。
両替所に隣接する建物は伝統を感じさせる佇まいのパブ、アンカー。そこはツーリストのみならずシティー勤務の地元民達の憩いの場のようであり、スーツを着たイギリス紳士達が夜になると開放感に満ちた表情で酒を飲んでいた。
ロンドン中心部に本店を構えるムサシという和食レストランで勤務を始め数週間が経ったその頃私は勤務後にアンカーの前で呆然と立ちつくす事が日課となった。
厳密に言うとパブの二階にある偶然見かけたボーカルレッスンの門を叩くか否かで悩んでいたのだ。
本来早苗の提案でもあったようにジャズを学ぶこともワーホリの目的の一つでもあった。
しかしロンドンに降り立ち語学スクールに通い出した私は厳しい現実に直面した。
それは自分の英語力の低さだった。
語学スクールでのクラスは初級、初級の中でも3クラスに細分化されていたうちの1番下のクラス。殆ど会話にならずクラスメイトや講師の言っている事を半分以上笑顔と『リアリー?』で切り抜けていた。まるで覚えたフレーズだけを繰り返すオウムのように。そんな状況で英語以外の事を英語で学べるのかとその夜も右顧左眄して煮え切らずに寒空のもとオレンジ色に灯るボーカルスクールを見上げて立ち尽くしていたのだった。
しかしその夜アンカーの入り口に立つ守衛の男との些細な会話から風向きが大きく変化したのだ。
その夜ロンドンは秋とは思えないほどの冷え込みで厚手のコートを羽織る人の姿が目立っていた。しかしその守衛の男は筋肉質な腕を露わにした半袖のシャツを着てパブに近寄る不審者や酔客を鋭い眼差しで見張っていた。
無論私も怪しい部類に入ったのだろう。
守衛は私を見ると至近距離まで近づき訝しげな表情を向けた。
「やあ、最近毎晩ここにいるだろ?」
こっくりと頷く私にいささか無愛想な声のトーンで尋ねた。
「君に二つの質問がある。1、名前 2、毎晩ここで突っ立っている理由」
「さらです。理由、理由は、、、
ボーカルスクール」私は二階を指さした。
すると守衛の男の表情が一変し温かい笑みを浮かべた。
「セーラか、始めまして。」
「いえ、さらです」と改めたのも束の間
「セーラ、毎晩ここにいるからテロリストの下見か何かかと思ったよ。
ボーカルスクールに行きたいのか。」
「イエス」私の英語力を察したその守衛の男は
ゆっくりとわかりやすい単語を使って話し出した。
「行きたいなら行けば良いさ。何かを躊躇してるんだな、セーラ。このスクールはロンドンでもなかなかの評判で、有名なシンガーを輩出しているんだ。ナンシーキャンベルって知ってるかい?」
ナンシーキャンベルは数年前に国際的なジャズコンクールで優勝した、誰もが知るシンガーだ。もちろん知っていると答えると、守衛の男は得意気に親指を自分の胸元にあて「ナンシーは俺の妹さ」と声をひそめて言った。それが真実か否かはさておき、笑顔でリアリーと答えた私に更に守衛は続けた。
「セーラ、毎晩毎晩そこで時間を無駄にしてないで、その時間を歌う練習にあてるべ きだぞ。それがセーラのやりたい事ならばね」
私は悩みを打ち明けるように
「でも英語が話せないから、、、」と言ってみた。
すると守衛はまるで口から何かが爆発したかのように大きな吹き出し笑いをした。
「大丈夫さ、門前払いされるかどうかまずは行ってみないと分からないさ。しかし君はよくここまで来たぞ、あと一歩だろ」
アンカーの中から小太りの男が手を振っているのに気が付いた守衛は、私の肩を軽く叩き「グッドラック、セーラ」と言うと踵を返し仕事に戻って行った。
彼とのその一瞬のコミニュケーションが私の背中を押したのだ。
いや厳密に言うとセーラと呼ばせて自分に魔法がかかったような感覚を覚えたのだ。ロンドンで紗良をやめてセーラという新しい自分になれば何でも出来るかのような感覚。全能感とでも言うのか。
その日から私はロンドンで自分をセーラと名乗るようになったのだ。
そしてその夜私は守衛からもらった魔法の粉を身体中に振りまきボーカルスクールの門を叩いた。
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