第4話 早苗 回想への扉1

汚いスニーカーを履いた私は平静を装いながら勤務している駅前の宝くじ販売所に到着した。未だかつて高額当選を出したことのないその売り場は繁忙期と言われる時期でさえ客足は鈍く通年販売員は私一人だった。

外観の派手さとはうって変わって販売所の室内は地味で薄暗く、壁一面には数字が沢山書かれたメモ書きや注意事項が記された付箋で埋め尽くされている。

私は毎朝スタッフ用の真っ赤なエプロンを掛けると、店頭で前足を振る招き猫と白蛇の置物を磨く。いつもの決められた簡単なルーテインを終えると、後は硬い椅子に腰掛けて客をひたすら待つのだ。とは言え待てど暮らせど客など来ない。

必然的にその日からリックに会うまでの1週間はここでひたすら回想にふける日々を送るのだ。


記憶を遡る事7年、陰性の梅雨が明け一気に灼熱の太陽が日本列島に顔を出した頃、

当時26歳だった私は足立区の小さな文房具会社の事務員として働いていた。

三流短期大学を卒業し、これといった夢や目標の無かった私はOLという一般的な道を選択したが日々のやり甲斐の無さにもやもやとした日々を送っていた。

入社して5年もたてば目新しい事もなくなり、そろそろ転職や結婚を考える同期が目立ちだす頃でもあった。突然きらきらと輝きだす同期を見ては、婚期が近い事を察し、羨ましく思った事もあった。私の中に小さな焦りが芽生え始めていたのは確かだ。無論、彼氏すらいなかった私に寿退社など夢のまた夢であり、社内での移動や昇進にも全く興味が無かった。ただ何となく淡々と世間の言う一般的な人生を送っていた。


そんな中、人生の転機は同僚の望月早苗とのランチから始まった。人付き合いが苦手な私ではあったが早苗は唯一ざっくばらんに話せる同期だった。少なくともそれまではそう思っていた。当時早苗と私は会社から徒歩5分程のイタリアンカフェオリーブで時々ランチをした。

大概私から誘い上司の愚痴を聞いてもらう事が多かったが、その日は早苗が積極的に誘ってきた。

ランチに定評のあるオリーブはその日もOL達で賑わっていた。入店すると社内の噂話しをひそひそといたずら気に囁く声や、くすくすとスマホの画面を見せ合う光景はまるで女子高にでも迷い込んだかのような錯覚に囚われた。

注文を終えた早苗は手際よくメニュー表をまとめながら言った。

「私さ、来月会社辞めるから。」

「え、来月?辞めてどうするの?」

驚く私を見てにやりと微笑んだ彼女は器用そうな手をグラスに伸ばして続けた。

「フランスに行こうと思って。私昔から洋菓子を作ることが好きでしょ、いつか自分のお店を開きたいなって思っていたの。フランス語は昔から勉強してきたしね。先週以前から行きたかったパリの洋菓子学校から入学許可がおりたの。」

早苗は満面の笑みを浮かべ汗で首に纏わりついた長い髪の毛を手で束ねた。

「お、おめでとう」苦笑いだったに違いない。

いつか退職をすることをほのめかしてはいたが、ここまで準備周到に夢を実現させる為に動いていたなんて全く気が付かなかった。

敬意と裏腹に裏切られた気分に陥った事を否めない。

笑顔の裏にショックを隠しきれない私に早苗はバックから丸まった雑誌のようなものを取り出し私に手渡した。

丸まった表紙を汗ばんだ手でアイロンのようにして伸ばすと表紙に「ワーホリ生活」と書いてあり、海外で楽しそうに働いている日本人女性の姿が掲載されていた。

「はいそれどうぞ。英文科出てるんでしょう?紗良も色々見てみたら?こんな事言うの悪いんだけど、愚痴ばっか言って毎日退屈そうだよ。本当に自分のやりたい事とか無いの?ほら、歌とかさ。知ってんだよ、あんたが一人でカラオケ行ってるの。人生、案外すぐに終わっちゃうみたいよ。」

早苗の声から既に私との間に境界線を引き終わっている事を悟った。そんな決断をした彼女が神々しくも思えた。

同時に自分に対しての無価値観や人生に対する虚無感を日々感じていた心の奥底を抉られた気分にもなった。そう感じるという事は、このままではいけないと潜在的に思っていたという証拠ではある。以前の早苗は無気力な私にただ同調する振りをしてくれていただけだったのかと思うと全てが滑稽に思えてきてただただその場から逃げ出したくなった。いや、心は既に逃げ出していた。その証拠としてその後早苗と何を話したのかもランチで食べたボンゴレの味も全く覚えてない。

無論、早苗の言っていた事は正しい。おそらく私のウィキペディアは数行で退屈な内容で終わる。


松嶋紗良

栄進短期大学英文科を卒業し小さな会社の事務室で地味に働く退屈そうな女。

趣味は上司の愚痴と一人でジャズやソウルを歌う事と食べる事と貯金。恋愛、皆無。容姿、地味。何となく不自由なく毎日生きています。


その日オフィスを出た私はまっしぐらにカラオケに向かった。夕方のじめついた外気が体中にべったりと纏わりついて不快でたまらなかった。早く一人になりたかった。私はいつもこうやって何かから逃げてきた。

帰宅後も、もやもやは心にへばり付いていた。

そのもやもやの正体を探す自分がいた。

早苗が退職するからか、私に相談をせず突然結果論を爽やかな笑顔で話してきたからか、それとも未来を切り開いた彼女に対する嫉妬か、、、

洗濯物を綺麗に畳んでみたり、キッチン周りを掃除したり、イスラエル産の高級バスソルトを入れて湯船に浸ってみたが、もやもやは消滅しなかった。

最後の手段は炭酸水。もやもやに勝るのはしゅわしゅわだ。冷蔵庫から冷えきった炭酸水を取り出し蓋を開けた。開けたての炭酸のプシュッと弾ける音が部屋中に響いた。暴れ狂う炭酸水が舌で踊り喉を勇ましく駆け下りた。よし、これで撃退!しかしもやもやはげっぷと共に再び蘇る。完敗を認め重力に任せベッドに倒れこんだ私の足元に通勤鞄が存在を主張していた。起き上がるのも面倒なので、床に蹴り落した。ドンという音と共に食べかけのマーブルチョコレートが部屋に散乱した。そしてもう一つ鞄から飛び出た物が早苗からもらったあの丸まったワーホリ情報だった。

ペラペラと捲りながらどこか投げやりな気分で自分に言ってみた。

「よし、目を瞑っていっせいの、で開いたページが次の目的地」

ほんの遊び気分のつもりが、目を閉じた瞬間お腹に力が入り体に電流が流れたような不思議な感覚を味わった。

開いたのは三十三ページ。経験者が投稿した楽しそうな写真や生き生きとした体験談を読んでいるうちにもやもやはやがて姿を変え、表現の出来ない感情が芽生え出した。

それは、ワクワクでもなくドキドキでもないそれまで味わった事の無い感情。

恐らくそれは腑に落ちたという感情。

気が付くと私は数日後にはワーホリ計画を進めていた。

人生の転機なんてそんなものなのだろうか。

予期せぬ時に突然訪れる。

もはや自分の人生などコントロール不可能のような気がした。


   三十三ページ

“ワーホリ体験をお洒落な街ロンドンで!

働きながら語学と芸術を学ぶアーティストコースが満載!

今年度日本国籍者第1回抽選が間もなく開始します!あなたの大切な二年間を充実感と刺激溢れる日々に!“   


幸運にも一回目の抽選で当選した私は、身辺整理を終えて日本から英国へ渡った。

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