これ普通に好き

海が好きと言って笑う彼を忘れそうになったころ。夢を見た。ぼやぼやと靄が掛かった記憶が晴れていく。晴れ間に雲がかかって、また顔も声も忘れて目を覚ます。私は彼のことが最後まで好きでも嫌いでもなかった。いきなり呼び出して北陸に行こう、伊豆に行こうやら、まあ電話に出ない私も悪いんだけれどいつも突発的に誘われる。子供っぽく笑う、性別を変えたらきっと、変えなくても私によく似ている。そんな彼にどこか救われていたのかもしれない、家で1人部屋の中、袋小路に入り込んでいる時いつも手を引いてくれる。でもどうしても心の底から好きにはなれなかった。車の免許を取らず、友達を足にするところも貧乏ゆすりをするところもスカスカな歯も嫌いだった。だけど、よくわからないが面倒見のいい私の心をくすぐる何かがあった。この人は私がいなきゃダメなんだ、必要としてくれて嬉しい、そんな風に思うのとめんどくさいなんでこんなに誘ってくるの?うざい、せっかく映画に浸っていたのにという気持ちが波打つように交差する。ほんとこんな自分と一緒にいて楽しそうにしてくれる。

 お酒も弱くて、私は瓶一本飲んだのに彼は一杯しか飲まなかった時には流石に腹が立って、外に出て自転車を全部倒して、起こしてそのまま山まで行こうとしたら止められて、眠った。二度と一緒にお酒を飲みたくない。そう思った。


ラーメンもそうだ。一口も食べていないのに黒胡椒やらニンニクやらを勝手に入れて誇らしげにドヤ顔をする。二度とラーメンに行かないお前とは、そう思った。


意味もなくスーパーに入るところも嫌いだった。何も欲しくないのにうろうろして結局変な海外のお菓子を買う。無駄遣いをする。


でもこのどれもが二度とできない。彼はもう骨壷の中で眠っている。でも泣けなかったし、あまり気持ちも動かなかった。だけど胸には確かにぽっかりと穴が空いていた。その穴も時間と共に塞がっていき、ついぞ私は彼の全てを忘れそうになった。そんな時に夢に出てどんなつもりだろう。また腹が立って、目からは涙が流れていた。でもわからない。何がわからないの?と声がする。誰か教えて欲しい。それなら、恋じゃ無いか?と教えて欲しい。恋では無い。じゃあなんだ?依存じゃない?と言われたら、はいと答えるしかなくなってしまう。依存だったのだろうか。


骨壷の骨を食べてみる。味はしなかった。ぱちっと空気の抜けるような音が噛んだ歯の隙間からする。彼の味は無味だった。彼は無趣味である意味、彼も私に依存していたのかもしれない。誰だって誰かしらに依存しながら生きている。そんなことを思って、今度はご飯をよそって、骨壷にブラックペッパーと塩胡椒を入れて振る。かろかろと変わった音がした。ツボが割れてしまわないか、それだけが心配だった。塩が飛び散ると掃除が面倒だから。

蓋を開ける。もうどれがどこの骨かもわからない、平べったい湾曲した骨は頭蓋骨だろうか、あられみたいな骨は腰の骨だろうかと咀嚼する。米にはあまり合わない、おいしくなかった。彼の腰を思い出す、ある時は筋肉がつき、ダビデ像のように美しかった姿を、死の直前はぶくぶく、ハリセンボンみたいに膨らんだ腹を持ち上げていた腰を、腹が痛いと言うので撫でた腹が汗ばんでいて垢が落ちたこと、そのまましばらくして死んだこと、まざまざ浮かんで少し泣く。骨壷の中にはまだまだ骨が残っていた。でももう食べられず私は今日、ガムテープで蓋をした骨壷を抱いて眠った。


その夜、また夢を見た。彼を鞭で叩く夢、ガムテープでぐるぐる巻きになった彼を白くて何もない、精神と時の部屋みたいな空間で叩く夢。彼は何も言わずに、叩かれる瞬間には逃げ出すように目を閉じて。んんと動物的に嗚咽を漏らす。私はなんだか嬉しくなって彼を叩いて叩いて、それに飽きたら傷だらけになった彼を抱きしめて、脚を撫でた。

目を覚ましても、全て覚えていた。骨壷は私の手の中で割れていた。ブラックペッパーの匂いが溢れて、思い出しかけていた彼の匂いをかき消してくれた。もう彼のことなんて頭の一番優先順位が低いところに移して、私はベッドに掃除機をかけた。変な音を立てて掃除機は彼の骨を咀嚼し、飲み込む。飲み込まれていたのは私でまた何か虚しくなった。彼と私を繋ぐものがもう何もなくなってしまった、そんな気がした。


目玉焼きを作った。黄身でも誰でも、ひよこのなり損ないでも見ていて欲しかった。見ていてくれないとベランダから鳥のように飛び立ってしまいそうだった。指先には壺の破片で切ったのか傷ができている。無意識に嬉しくなって舐める。すぐにはっとして潰れてしまった目玉焼きを皿に乗せた。冷蔵庫からは残り物のほうれん草を取り出して、ご飯を装って食べた。朝日が向かいに光を落として誰か座っているようだった。もう海にも長いこと行っていない、ふとそう思って苦く笑みを浮かべた。


恋なんて、しない。できない。こんな自分を愛してくれる人なんていない。そう暗示をかけて今日も眠る。夜になるといつもこんな風に何か、欠乏したように求めてしまう。広げられてしまった物に、カチッとハマる何かを求める。そう思い私は街を歩いてみた。もう若く無いんだからそろそろ考えなさいとうるさく母の声が頭の中で響く。ナンパをしてくる男に彼の姿を重ねてみる。どこか似ている男にそのまま連れられ私はため息をつく。体を重ねても、目を見合ってもなんにもならない。なんだか恥ずかしくてたまらなくなるだけ、またこのまま行くと二の舞になってしまいそうな、シーツが寄れるたび寂しくなって背中に手を回す。ああダメだ溶け合っていく意識の中、ダメダメと反芻をする。繰り返してもなんにもならない。私は男を跳ね除けようとして、顔に手を伸ばし短い金髪を撫でる。手を目に引っ掛けてしまう、男は目を擦ったあと私の手を掴み、首を絞めた。頭にはふわふわと靄がかかって息ができなくなる。悲しくも無いのに涙が出て、ああこのまま殺してくれればいいのに、と去っていく手を消えそうな意識の中目で追いかける。ベッドの海に意識がとろけて、消えた。


男も消えて、お金も消えて、私のものなんて男への愛しさの混じる怒りと画面の割れたスマートフォンしか残っていなかった。彼が唯一プレゼントしてくれたバッグはもうどこにもなかった。


首に内出血の跡だけ私に残して、男は消えた。次に見かけても会釈すらしないだろう。私はホテルのフロントに事情を話して、外に出た。夜の深い、酒混じりの湿ったコンクリートの匂いとタバコの匂い、長い夜の恋人になる店々の間を走り抜けて、手を取り合う男と女にぶつかりそうになりながら観葉植物くらいしか出迎えてくれない私の部屋に逃げ帰った。夜の街は私に何もくれないばかりか全てを奪い攫ってしまう。もうなにも残っていないのになんだか晴れやかな気分が体のどこかに沸々と沸いていた。


恋なんて、しない。できない。こんな私を愛してくれる人なんていない。そう暗示をかけて今日も眠る。


久しぶりに海に行ってみよう、と呟いた。口に出すと覇気のない声にあまり乗り気では無い気がした。茹る頭にタコが浮かんで赤くなる。やっぱり行こうとこんどは声に出さずにベッドから起き上がった。朝の明るさが気持ちの暗さを照らしてくる。柄にもなく跳ねる調子で荷物を柄のない黒リュックに詰め、テレビをつけて天気予報を見た。快晴、春風に注意。また嬉しくなった。春の音はもうすぐまで来ている、網戸の揺れる音も春の声だと思うと嬉しくなった。何度も嬉しくなったあと、階段を一段飛ばしに降りて、あ、鍵をかけ忘れたと戻って、今度はエレベーターで下まで降りて車に乗り込む、車は何も言わないで静かだった。

 ブレーキを踏み、鍵を回す。エンジンの音が不規則に響く。ひとりぼっちでこうやって出かけるのはなかなか、久しぶりだ。


存分に楽しんでやろう、と春風に背中を押され車を走らせた。


海には、誰もいない。休憩もなしに3時間かけて、しっくりとくる海辺の駐車場に車を停めた、辺りはすっかり昼の空気を孕んでいる。誰もいないはずの浜辺に小さな人影がゆらゆら揺れて今にも消えそうだ。シャツに縫い付けられたスパンコールが波打つように反射するのが見える。堤防に腰掛け、私はその小さな人影を見ていた。いないはずの私たちの娘を見ているようだった。けんけんぱ、でもしているように歩いている。ざざぁと波の音、砂を踏み締める音を想像する。周りに親はいなかった。私は堤防から手を離し、降りて階段を下り、小さい影を大きくしていく。はぁっと驚いて声を上げる。びくり、少女の肩が震える。大丈夫と手を動かすとまた少女は私の手を凝視して震える。首元には私と同じ、内出血の跡が滲んでいた。顔には虹のようにあざができて腫れている。スカートの赤にところどころ黒くシミが浮いていた。階段のように波打つスカート。私は泣きたくなった、私の心を鏡写しにしたようだったから。抱きしめた、早く抱きしめるべきだと焦って。少女は抱き返さなかった。今にも折れそうな体、物憂げな儚さの浮かぶ顔、海の青と同じ色をした瞳。私は少女を抱き抱え車の助手席に乗せた。


私は海そのものを乗せている気がした。少女は私によく似ていた。何もしないし、何も言わない。感情の揺れもあれから見せない。私はおでこに手を当てる、そのあと少女のおでこを触る。平熱だ。ユニコーンの絵の描いたカバンの中には2400円のきっぷと財布と少しばかりのチョコレートが入っていた。私はチョコレートを食べた。少女は自分のものなのに一切執着を見せないで、こちらを覗くそぶりすらしない。スパンコールのハートばかり輝く。


試しに手を勢いよく挙げてみた。すると過呼吸になり、目を見開く。どこか面白く思った自分に驚いて手をゆっくりと降ろした。ごめんね、と小さく言うと少女は落ち着いたのか眠った。


そのスキに私は車を走らせようとエンジンをかけた。


走り出しても少女は何も言わない。


カーステレオからはandymoriの革命が流れていた。叫び出したくなった。ただ新しい季節の気配が一段強くなった。

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