第19話 Chapter19 「オファー」

Chapter19 「オファー」


 「だからガクちゃん、大事なのは被写体なんだよ。風景写真でも人物の写真でも主役は被写体なの。道具や技術は手段なの。この話すると橋爪さんに怒られちゃうけど俺のポリシーなんだよ!」

溝口先輩が自身の写真論を熱く語りながら焼酎の瓶をラッパ飲みしている。私がネットオークションで落札して、大切にとっておいた幻の焼酎『鍾馗』だ。七海は『たらめ』のフルーツゼリーの桃の果実をスプーンでほじくり返して食べている。すでに5つ目だ。テーブルの上に空になったカップが並んでいる。

「そういうもんなんですかね、でもプロの写真家とかはやっぱりテクニックが凄いんじゃないんですか? 私なんてボカシとかまだまだですよ」

「素人とプロの違いは知ってるか知らないかの違いだよ。そりゃテクニックや感性や経験は必要だけど、例えば一眼レフでただの原っぱを撮ったとするだろ、一方『写ルンでしょ』みたいな使い捨てカメラで上高地や北アルプスの風景を撮ったとするじゃん、どっちの写真を飾りたい? その辺を歩いてるオバチャンを一眼レフで撮るじゃん、七海ちゃんを『写ルンでしょ』で撮るじゃん、どっちの写真が欲しい?」

「そりゃ後者ですけど、極端な例ですね」

「分かりやすく説明したんだよ、とにかく大事なのは被写体なの。七海ちゃんは被写体として凄いんだよ、それに女性としても素晴らしいよ、無邪気で、清廉で、ルックスは超弩級で、こんな娘いないよ! まるで宇宙人だよ」

溝口先輩大当たり! 七海は宇宙人だ。大マゼラン星雲にある惑星、MM378から来たのだ。その七海は布団に潜り込んで眠っていた。左側を向いて寝るのが七海の癖だ。私は右側を向いて寝るので、先に起きたときは必然的に七海の寝顔を見ることになる。朝の光を受けた七海の寝顔は美しく、時間を忘れて見入ってしまうこともある。


 「七海ちゃん寝ちゃったの?」

「そうみたいですね、慣れないことやったんで疲れたんでしょうね」

溝口先輩が四つん這いで七海に近づく。子供のカバのようだ。

「はぁーー、本当に綺麗でカワイイ寝顔だな」

溝口先輩は七海の寝顔に見入っている。その目が潤んでいる。

「ええ、この寝顔にいつも癒されて元気をもらってます」

「なんか七海ちゃんの寝顔みてると、七海ちゃんで儲けようとしてる俺達が『さもしい』 存在に思えてくるな」

『達』というの止めてほしい。七海で儲けようとしているのは溝口先輩だけだ。

「んふふ すき焼きのね  中でね  泳ぎながら  鰻重食べる の うふふっ  タケルも 食べていいの ふふっ 私は鰻の味にはうるさいの ふうー、むにゃ」

「溝口さん、七海の寝言です」

「寝言までカワイイじゃないか! ガクちゃん、なんか感動するよ。心が潤う感じだよ 俺の砂漠のような心が潤うんだよ、七海ちゃんは俺が守るよ、守りたいよ!」


 私と溝口先輩は一つの布団で寝ることにした。時間は夜中の2時をまわっている。嫌だけど溝口先輩と布団に入った。溝口先輩は下着姿だった。白いブリーフが気になって仕方ない。

「ガクちゃん、抱いていい?」

「えっ? 待って下さいよ、私にそういう趣味はないですよ! それに七海が隣に寝てますし、まだ心の準備が」

私は焦った。溝口先輩は既婚者のはずだ、泊りたいと言った時イヤな予感がしたが、それは溝口先輩が七海の寝顔や普段の姿を見たいのだと思ったからだ。まさか、どうする? どうするの俺? どうなっちゃうの? でも先輩だから・・・・・・いや、違う! 先輩でもダメなものはダメだ、それに痛そうだし。

「何かを思い切り抱きしめたい気分なんだよ、今の俺は限りなくピュアなんだよ」

溝口先輩はそう言って私に抱き着くとそのまま寝入ってしまった。重いし無責任すぎる。溝口先輩の体が妙に熱く息も酒臭い。私は不愉快な気分のまま眠りに落ちた。


 七海が私の布団に入ってきた。

「タケル、タケルの事が好きなの。不思議な気分なの。どうしていいか分からないの」

 私のほうこそどうしていいか分からない。ドキドキした。七海が私に覆いかぶさり唇を重ねてきた。

「こうしたいの。不思議なの、でも興味深いの」

ああっ、七海の柔らかい唇が・・・・・・あれっ、柔らかくない。なんかジョリジョリしてる。七海の唇がジョリジョリ? 溝口先輩の顎が私の唇に乗っかっていた。私は溝口先輩の脇腹に右ボディブローを入れた。溝口先輩が『ブフッ』っと放屁した。布団の中に凄まじい臭いが充満した。溝口先輩、何食ってるだよ! なんだ、この金属が腐食したような危険な化学物質みたいな臭い! どうしたら体内でこんな臭いになるんだよ、普通じゃねえぞ! 私は2度目の眠りに落ちた。人生で最悪の二度寝だった。


 目が覚めると、溝口先輩は部屋の隅に寄せたガラステーブルでコーヒーを飲んでいた。

七海はキッチンで朝食を作ってるようだ。

「おはよう、ガクちゃん、毎日こんな生活をしてるのか? 最高じゃねえかよ! 七海ちゃんにコーヒー淹れてもらって、朝飯作ってもらって、どんだけ幸せなんだよ! おまけに同じ部屋で寝起きして、寝顔も見放題じゃねえか! ガクちゃんのこと嫌いになりそうだよ。このことが世間に知れたら日本中の男を敵にまわすぞ」

溝口先輩は勝手なことを言っている。でも、あたりまえになったこの生活がとんでもなく幸せなのかもしれない。溝口先輩が目を潤ませて七海が作った朝食を食べている。感動しているようだ。七海の作ったオムレツは美味しかった。毎日作っているせいか腕をあげ、フワフワで形の整ったオムレツだ。バターを使っているので香ばしい。中には軽く味付けして炒めたひき肉と細かく角切りにしたトマトが入っていた。食パンの焼き加減も調度いい。アプリコットジャムが程よい甘さだ。七海はラズベリーとアプリコットのジャムが好物だ。

「七海ちゃん、美味しいよ、優しい味だよ。感動するよ。『おはよう! 全国の男性諸君、私は今、天野七海が作ったオムレツを食べている。最高かよ! 最高だ! 猛烈に最高だ! 羨ましいか? ざまあみろ! あっはっは』」

溝口先輩は朝から元気で迷惑だ。七海はキャッキャと笑っている。溝口先輩はコーヒーをお替りすると帰って行った。帰り際に玄関で強烈なローキックをもらった。


 翌週の土曜日、私と七海と溝口先輩は橋爪さんが撮影しているスタジオを訪ねた。橋爪さんから打合せをしたいと溝口先輩に連絡があったからだ。私達はスタジオの入り口から中を覗き込んだ。そこには今売り出し中の7人組のダンスアイドルユニット『レインボームーン7』とスタッフと橋爪さんがいた。ミーティングか何かの最中のようだ。

「おい、お前ら、遊びじゃないんだよ! ちょっと売れたからっていい気になってんじゃねえぞ、この世界は生き馬の目を抜くらい変化が激しいんだよ、すぐに取って代わられちまうんだよ! 今日の撮影はもう終わりだ、馬鹿らしくてやってらんねえよ! 何がダメだったのかよく考えろ。おい、マネージャー、お前がチヤホヤするから、こいつら育たねえんだよ、分かってんのか!」

「すみません、すぐにスタッフと反省会を開きますんで、撮影をお願いします。橋爪さんの撮影ってだけでこの娘達の格が上がります。事務所もこの娘たちに賭けてますんで、よろしくお願いします!」

「はあ? 賭けてるだと? じゃあ何でミオちゃんがそんなに太ってるんだよ、この前会ったときより3キロ以上太ってるだろ、豚舎のブタか! 豚カツにでもなりたいのか? ブーブー鳴いてみろ」

橋爪さんはミオと呼ばれた娘を指さして怒鳴っている。ミオと呼ばれた娘は今にも泣きだしそうだ。

「あの、私の管理が行き届かなくて、すみません」

「馬鹿野郎、管理してねえだろ、500グラム太った時点で気付けよ!  みんなで太って相撲部屋にでもする気かよ! どうするんだ、バカなの? 死ぬの? 一度死ねよ! 俺は帰るぞ みんなで断食でもして反省しろ」

私は橋爪さんの剣幕に呆気にとられていた。橋爪さんはやはり厳しい人のようだ。橋爪さんがスタジオの入り口に向かって来た。

「ああ、水元さん、調度良かった、今終わったんで荷物取ってきます、ちょっと待ってて下さい、あそこにミーティングコーナーがあるんで、すぐ行きますから」

「はい、待ってます」

「あれっ、七海ちゃん、来てくれたの? 嬉しいよ、もうー今日もカワイイね、黒でバシッと決めちゃって、ポニーテールが似合ってるにょー、ねえ、お腹空いてない? この前のすき焼き美味しかったでしょ、今日も美味しいもの食べようか?」

「うーん、お寿司がいいの。タケルがなかなか連れて行ってくれないの」

「わーお、いいねえ、お寿司いいねえ! 美味しい店を知ってるにょー、七海ちゃんの食べるとこ見たいにょー! いっぱいいっぱい食べてねー、いっぱいだよ。わーお、楽しみなにょー、待っててね、すぐ来るからね、帰っちゃだめなにょーー」

橋爪さんは急いで荷物を取りに行った。レインボームーン7のメンバーとスタッフがこっちをじーっと見ている。その顔には『やってられんわ』と書いてあった。今日の七海は黒の細めのカーゴパンツに黒いTシャツと黒いキャップに黒いサンダルで珍しくポニーテールだったが良く似合っていた。服が七海を引き立てるのではなく、七海が服を引き立てている。


 ミーティングコーナーで橋爪さんが話し始めた。

「いくつかのモデル事務所と出版社から問い合わせがあった。3社ほど七海ちゃんのデビューに乗り気だ。写真の反響は思った以上だ。写真だけでここまでの話がくることは珍しい。一社目はわりと老舗の出版社『秀優堂』だ。ここは書籍や写真集を扱っている。今回は写真集を出したいとのことだ。費用は先方持ち、売り上げの10%がこちらの収入になる」

「もう一社はモデル事務所だ。雑誌などに載せる商品の宣伝ページや企業のCMにモデルを貸し出している『シルキー社』だ。自動車や高級衣料なんかのモデルだ。契約はこの事務所との専属契約となる。契約料は交渉が必要だ。最初は安いが、モデルの依頼が増えれば契約料が増える。

「3社目は『坂本エージェンシー』、芸能事務所みたいな所だ。グラビアアイドルや女優なんかを売り出している。 聞いたことのあるグラビアアイドルもいるはずだ。ここも契約制だが契約料はシブいな。まあ、売れればテレビ出演や映画もあるが、一方でアダルトコンテンツも手掛けている。売れなければそっちの路線だ」


 私と溝口先輩は考え込んだ。

「橋爪さん、どれがお勧めですか」

溝口先輩の目は真剣だ。

「うーん、七海ちゃんがどんな働き方をしたいかだな、『秀優堂』の写真集は一発ものだ。気楽といえば気楽だな。『シルキー社』はモデル事業がメインだ。売れれば契約料も増えるが、モデルの世界は入れ替わり速い。良くて売れるのは2~3年の間だ。ここから芸能事務所に入るコースもあるがな。『坂本エージェンシー』は女性専門の芸能事務所だ。位置的には2流と3流の間だ。グアビアアイドルは大勢売り出しているが女優はまだ駆け出しの女優が5~6人いる程度だな。アダルトコンテンツは好調だ。ジャンルも幅広い。アイドルや女優を夢見た女の子が結局はアダルトコンテンツに飲む込まれていく。競争も激しいし、ドロドロした世界もある。俺の結論だが、『秀優堂』の写真集だな。まずは実力を試すことができる。ここなら私も顔が効くから支援もできる」

私はどの話もイメージが湧かなかった。

「それと、七海ちゃんにはマネージャーが必要だ、『坂本エージェンシー』はマネージャーを付けてくれるが私はあまりお勧めしない。昔ながらの芸能事務所の嫌な所が色濃く残っている。ここだけの話だが枕営業とかも酷い。バックには反社会勢力もついてるようだ」

「マネージャーですが、俺でもできますか?」

溝口先輩が言った。

「今の仕事はどうするんだ? 片手間でできるほど甘くないぞ」

「そうだなあ、失敗のリスクもあるし、カミさんが反対しそうだな」

溝口さんテンションが下がっている。

「当たり前だ、リスクあってこそのビジネス、夢なんだよ。溝口さん悪い事は言わない、今のままがいいと思うぞ」

「あの、マネジメントを請け負ってくれる会社とかないんですか?」

私は思わず聞いた。

「あるにはあるが、トラブルも多い。それと七海ちゃんに収入が発生したら税金なんかの問題もあるから何かしらプロの援助はいるかもしれないな」

税金? そうか、七海に収入が発生する以上避けられない。マネジメント会社を使おうが、私が七海の代理人になろうが金の流れがある以上税金の問題は避けて通れない。七海は国籍も戸籍もない。税務署の監査など受けたら大変なことになる。

「なんか難しいの。私は働けてお金がもらえればそれでいいの。家賃が半分払えて、美味しいものが食べられればそれでいいの」

七海は退屈そうだ。


 「まあ、今すぐ答えを出すことはない、一か月以内に決めればいいよ。他の事務所からも問い合わせがあるかもしれない。とりあえず状況は話した通りだ。溝口さん、水元さん、考えておいて欲しい。飯でも食べに行くか」

「うん、今日はお寿司なの。橋爪さんが美味しい店を知ってるの」

「うんうん、お寿司だね。大将は頑固だけど、物凄く美味しい店があるんだ。すぐに電話で予約を入れるよ、溝口さんタクシーを呼んでね」

私たちは2台のタクシーに分乗して銀座に向かった。タクシーは私と溝口先輩、七海と橋爪さんの組に分かれた。いろいろ意見をくれた橋爪さんへのお礼のつもりである。

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