第18話 Chapter18 「スタジオ」
「夜景が奇麗なの」
七海は第一展望台のガラスに顔を近づけて夜景を見ている。スマートフォンで夜景を撮り始めた。
「東京の夜景は綺麗だろ」
「うん、でも電気がもったいないの。MM378だったら許されないの。寝る時間にはエネルギーは使わないの。でも綺麗なの。興味深いの」
「七海ちゃん、東京の夜景なんかより七海ちゃんの方がずっと綺麗だよ」
なぜか溝口先輩が着いて来ていた。手にはレフ板を持っている。
「溝口さん、ありがとう。でも、見た目じゃないの、正しく生きることが大事なの」
七海がきっぱり答えた。
「七海ちゃん、真面目なんだね、でもそんなところがいいよ。本当にいい娘だなぁ」
溝口先輩はため息をついた。
「水元、考えてくれ、七海ちゃんをモデルデビューさせれば凄い事になるぞ。稼げる。夢があるじゃないか、会社の給料に満足しているのか? 会議ではユーザーに怒鳴りつけられて、納期前は徹夜したり床で寝るんだぞ。それで幾らになる? 俺なんか50歳手前で、手取りで30万円だよ。来年娘が大学受験なんだ。カミさんもパートに出てるんだ」
「今度スタジオを借りて七海ちゃんを撮ろう。その写真をモデル事務所に送って、七海ちゃんを売り込むんだよ」
溝口先輩は本気のようだ。
写真スタジオに来るのは初めての経験だった。何も無い白い空間に銀色の傘みたいな撮影用アンブレラが3つ設置されている。
「ガクちゃん、橋爪さんだ。わざわざ来てくれたんだ」
橋爪さんは、プロの写真家だ。溝口先輩が所属するサークルの主催者だ。業界では名が知れており、腕は確かで女性を撮らせたらピカ一とのことだ。
「はじめまして、水元です、写真の事はよく分からない素人です、よろしくお願いします」
私は緊張していた。経験したことのない世界だ。
「ああ、橋爪です。ところでモデルはどこ? 溝口さんに聞いたんだけどデビューさせたいんだって? でもモデルの世界は厳しいぞ、ちょっと綺麗なくらいじゃ話にならない。感性やセンスが必要なんだ。何よりも持って生まれた輝きががないと一銭にもならねえよ、俺も忙しいから、さっさと判断させてもらうよ」
橋爪さんは厳しい人のようだ。声も渋い。高価そうなカメラを持っている。私はますます緊張した。
レンタル衣装を着た七海が現れた。薄手でノースリーブの丈が短めのワンピース、色は薄いエメラルドグリーン。踵がコルクの白い革のサンダルを履いている。手には『アサハおいすい水:天然水』のペットボトルを持っている。
「七海、橋爪さんに挨拶するんだ」
「はじめまして、天野七海です」
七海はまったく緊張していない。ペットボトルの水を一口飲んだ。
「この娘がモデル? 売り出したいの?」
「はい、私の従妹です」
「ふーん、美形だけど、プロの世界は厳しいからな、俺も遊びに付き合うほど暇じゃねえし、ダメだと思ったら帰らせてもらうよ。売れる見込みのない娘の撮影するくらいなら家で犬に餌やってる方がましだ」
私は橋爪さんに少し嫌悪感を覚えた。著名な写真家なのだろうが物の言い方が気に入らない。七海は橋爪さんが連れて来たメイクさんにメイクをしてもらった。プロのモデルのような顔になった。いや、それ以上かもしれない。七海、いけるんじゃないか?
撮影が始まった。橋爪さんは七海にポーズや表情を指示した。七海は素直に従った。様々なポーズや表情を指示されるままに表現した。
「おおっ、いいね、いいよ、なんだよ思ったよりぜんぜんいいじゃない。溝口さんライトを右から当てて、七海ちゃんちょっと俯いて、そーそのまま微笑んで、いいっ、いいっ、まじかよ、カワイイなぁ~。凄くいいよその表情。今度は寂しそうな顔してこっち見て、アオッ、スゲーな、オウッ、オウッ、イイーー、なんなんだよこの娘、凄くいいじゃなーーい、寂しそうな表情凄くいいよ、男達はメロメロになるぞ!」
橋爪さんはカメラを下した。
「この娘凄いよ! どの角度から撮っても美しくてカワイイんだよ。人間とは思えないよ、まったく表情に歪みがないんだよ。しかもどの表情も自然なのに完璧なんだよ。ありえないよ、こんな被写体初めてだよ。よし、もっと撮るぞ、七海ちゃん、次の衣装に着替えて、オーバーオールのデニムのスカートに白いTシャツだったよな、靴は履かなくていいよ、裸足だ! その後はミニのフレアースカート? えっ水着もあるの? ビキニ? 2色用意したの? 溝口さん、いい仕事するねー最高だよ、七海ちゃん行くぞーーーー」
AIで作った顔だ。左右は完璧なシンメトリ。表情に歪みがないのは当然だ。それに人間ではない。衣装は溝口先輩がオーダーしたレンタルだ。私は水着には反対したが、溝口先輩の勢いに負けてしまった。
「いいけど、なんか飽きてきたの」
言われた通りにするのは、能動的な七海には退屈なのかもしれない。
「七海、頑張るんだ。終わったら美味い物を食べよう」
私は七海を説得した。
「七海ちゃん終わったらすき焼き食べよう、美味しい店を知ってるんだ、ほっぺが落ちるぞ」
橋爪さんも必死だ。
「すき焼きは食べたことがないの、美味しいの?」
「七海、すき焼きは凄く美味しい。鰻重と同じぐらい美味しい日本料理だ、牛肉だぞ」
七海の表情がパーっと明るくなって目が輝いた。
「うん、わかった。頑張るの、お願いしまーーす」
撮影は3時間ほどで終了した。七海は何度もメイクをした。水着姿は眩しかった。黄色とピンクのビキニはどちらも似合っていた。素晴らしいプロポーションとボディラインだった。ポーズも完璧だった。自分がそんな七海と暮らしていることが不思議でならなかった。こんな素晴らしい体をした女性の隣に毎日寝ているのだ。バチが当たりそうな気がした。
懇親も兼ねて橋爪さんが知っているすき焼き屋に行くことになった。かなりの高級店だが経費で落とせるらしい。
「もう何なの? 美味しすぎなの! おつゆを吸った牛肉と生卵の絡みが絶妙なの。しっかりしたお醤油とお砂糖のおつゆの味と卵のまろやかさが舌の上で交互に踊るの! ちょっと焼け目のついたお肉の歯ごたえを楽しんでると、お肉が申し訳なさそうにとろけるの! ずっと噛んでいたいのに、とろける食感が癖になるの! お野菜も味が染み出るの、お豆腐もいい仕事してるの、とにかく味と食感のバランスが最高なの! こんな食べ方誰が考えたの? 誰なの? 天才なの! チーズバーガーも美味しいけどすき焼きも凄く美味しいの。同じ牛肉なんでしょ? 料理って凄いの、日本食って凄すぎるの、日本に着陸して良かったの!」
美味しい物を食べた時の七海の興奮は見ていて楽しい。カワイイ声で饒舌になる。生卵のおかわりは3つ目だ。溝口先輩と橋爪さんは無邪気に喜ぶ七海を見ながら笑顔で日本酒を飲んでいる。高級店だけあって美味しいすき焼きだった、最高級の霜降りの米沢牛、めったに食べることができない。ただ、七海が高価な食べ物を覚えてしまうのは少し困る。チーズバーガーで満足しているくらいが私たちの生活レベルに合っている。七海は千葉の実家近くで初めて食べた鰻重に感動したのか毎日のように鰻重をねだってくる。ノートパソコンの壁紙を『鰻重の写真』にして、ネット通販で買った『鰻重』という文字がプリントされたTシャツを着て無言のアピールもしてくるようになった。
「タケル、鰻重とすき焼きは毎日食べてもいいの」
「七海、たまに食べるから美味しんだよ」
私は七海を諭した。毎日鰻重やすき焼きを食べたら私の貯金は無くなってしまう。
「七海ちゃんに喜んでもらえて良かったよ、食べてる姿も可愛くて、撮影したくなっちゃうよ」
橋爪さんは相好を崩して上機嫌だ。
「橋爪さん、だから言ったじゃないですか、凄い娘がいるって、本当だったでしょ?」
溝口先輩は得意げだ。
「凄いなんてもんじゃないよ! 自然とシャッター押しちゃうんだよ、止まらなかったよ、指が痛いくらいだよ。その辺のモデル事務所に紹介するなんてもったいないよ! どうせグラビアで使い潰して、その後はヌードやエロ路線だ。もったいない、レベルが違うんだよ、次元が違うんだよ、七海ちゃんは天使、いや、女神なんだよ!」
「ところで、水元さん、七海ちゃんと二人で住んでるんだって?」
橋爪さんが興味深そうに聞いてきた。その目は私を非難しているようだった。
「はい、部屋が一つしかなくて狭いんですけど」
「そうなの? 部屋一つなの? いーいな、いいなぁ! みずもっちゃん、いいな!」
橋爪さんが大きな声で叫ぶ。酔っているのだろうか?。
「七海ちゃんと一部屋ってことは・・・・・・それじゃあ部屋の中は七海ちゃんの色気でムンムンじゃないの」
「いえいえ、普段はドン・クホーテで買ったスウェトや短パンにTシャツなんで色気なんて無いです」
「何言ってるの! バカなの! バカでしょ! それがいいんだよ! 無防備で飾らない感じがさ、着飾ってメイクしたモデルなんて所詮作りものなの! 短パンだって? それじゃ七海ちゃんのナマ足見放題じゃない! ズルいよー、みずもっちゃん、ズルい! ズルいにょー、今度無防備な七海ちゃんを撮りたいにょー、みずもっちゃんはズルいにょーー」
なんか橋爪さんがおかしい。クールで厳しいは写真家じゃなかったのか?出会った時はそうだったのだが。七海は笑顔で黙々とすき焼き食べている。
「橋爪さん、どうです? 七海ちゃんポテンシャル凄いですよね? 凄いでしょ!?」
溝口先輩も熱くなってる。
「なんかさあ、もったいなくなっちゃったんだよ、七海ちゃんの姿を他のやつらに見せるなんてさ。僕だけの七海ちゃんでいて欲しいにょー、写真家泣かせなにょーー」
「私は誰のものでもないの、私は天野七海なの!」
七海は橋爪さんを見てニッコリ微笑んだ。
「うおーー、いい、それがいいの! デビューなんかしないでよ! 七海ちゅわーん、好き好きなにょーー、もーう、まいっちんぐ!」
橋爪さんはただの腑抜けおやじになっていた。
2次会に行きたいと駄々をこねる橋爪さんをタクシーに押し込んで、私達3人は青山通りを歩いた。
「ガクちゃん、あんな橋爪さんを見たのは初めてだよ。前に人気アイドルの撮影があって、橋爪さんの雑用係として参加したこととあるんだけど、その時は凄くクールだったんだよ。わがままを言うアイドルを怒鳴り飛ばしてた。今日の橋爪さんはおかしかったよ。撮影後にモデルと食事するなんてあり得ないんだ、2次会に行きたがるなんてまるで別人だよ、びっくりしたよ」
「ただのデレデレのおじさんでしたね」
「ガクちゃん、七海ちゃんはモデルなんかじゃなくてもっと凄い可能性を秘めているんじゃなか? アイドルとか女優とか。体も凄かったな、少し細身なように見えてもパーツは完璧な形とバランスだったよ、胸の形と脚は120点だよ。見ててクラクラしたよ、男どもが悶絶する体だ」
私も七海の体にクラクラした。水着で四つん這いになって微笑む姿が頭から離れない。
「ふふっ、体の事を言われるとなんか恥ずかしいの」
七海がはにかんだ。
「溝口さんは美島七海と従妹の七海、どっちがいいですか?」
私は敢えて聞いた。美島七海は七海の前の姿だ。私が作った今の七海と比べたらどうなのか気になった。
「美島七海かぁ。そりゃカワイイけど、七海ちゃんの隙の無い可愛さや美しさの方が上だな。躱しようがない美しさって感じだよ。モデルやアイドルを散々見てきた橋爪さんがあんなにメロメロになっちゃうんだぞ、普段は凄く怖い人なんだよ、忖度しない人なんだ。それに古くからの資産家だ。南青山の大きな一戸建に住んでて、ベンツとフェラーリとレクサスを持ってるだ。クルーザーも持ってるらしい」
「躱せないって、誘導ミサイルみたいですね」
「ミサイルというより、太平洋戦争の大艦隊の対空砲火みたいだな。避けようと思って急旋回や急降下しても被弾して撃ち落される。高角砲と対空機銃の物凄い弾幕だ、VT信管も有りだ。橋爪さんは撃ち落された雷撃機か急降下爆撃機だよ。俺も被弾したよ」
溝口先輩も結構ミリタリーが好きだ。世代なのだろう。
「七海、女優とかになってみたいと思わないか? たまにドラマとか観てるだろ」
「うーん、演技とか難しそうなの。でも格闘技と大食いなら得意なの! 水を得た蛹なの」
「七海、蛹じゃなくて魚だ」
「もったいないなぁ。美人格闘家とかどうだ、アイドル並みの美貌を持った格闘家。でも格闘家なら綺麗なだけじゃ厳しいよ、七海ちゃん強いの?」
溝口先輩は七海を売り出すことを諦めていない。
「うん、ヒグマまでなら勝てるの、でも象は無理かも、ウェイトが違い過ぎるの、ヘビが出てきたら時速120キロで逃げるの」
溝口先輩は笑い声を上げた。私は反対だ。相手を殺しかねない。ヒグマより強い女性格闘家がいれば話は別だが。
「とにかく今日撮った写真を橋爪さんのコネのあるモデル事務所や芸能事務所や出版社に送ってみるよ。まずは反応を待ってみよう」
「タケル、ラーメン屋さんがあるの。家系なの。家系は鶏油(チーユ)と海苔とほうれん草がいいの。スープを吸った海苔でライスを巻くと最高なの」
七海がねだるような声で言う。家系ラーメンにライス、食の好みは完全に男だ。
「すき焼き食べたばっかりだろ」
「ラーメンは別腹なの、郷に入れば蛇の道は蛇なの。でもヘビは嫌いなの」
訳が分からない。
「コンビニでゼリーを買うからそれで我慢しろ」
「うん、わかった。『たらめ』のフルーツゼリーがいいの。果物が美味しいの。地球人はズルいの、あんなに美味しい物が地面から勝手に生えてくるなんてありえないの、早く帰って食べたいの」
七海は最近『たらめ』のフルーツゼリーにハマっている。ごろごろ入った果実を興味深いと言って食べまくっている。MM378には植物が殆ど生息していないから果実が珍しのだ。
「溝口さんも食べるといいの、凄く美味しいの。私は今日は桃の気分だよーーん、ふふっ」
七海は口を尖らせた後に微笑んだ。
「七海ちゃんは本当にカワイイなぁ。ため息しか出ないよ。水元、七海ちゃんに変なことしたら許さないからな! 七海ちゃん変な事されたら俺に言うだぞ」
「タケルは大丈夫なの、優しいの! 前門の虎、後門の狼なの」
「それじゃ危ないじゃないか! 水元、本当に大丈夫だろうな、従妹だとしても男は狼なんだよ」
「私はヤギか羊ですよ、寝顔見るだけにしときます。寝息も聞こえるんですよ。時々寝言言ったりして、すぐ隣で寝てるんで聞こえちゃうんですよ」
溝口先輩のローキックが腿に炸裂した。かなり痛い。
「水元、タクシー代は俺が出すから今日はお前の家に泊まらせろ! 業務命令だ! ゼリーは好きなだけ買ってやる、それでいいな?」
全然良くない。
「キャハ、お客さんなの、みんなで寝るの、なんか楽しい! 溝口さん大歓迎なの」
「ガクちゃん、最高だよ、こんないい娘、まだこの世にいたんだな、カワイイし、ウウッ」
溝口先輩は目を擦っていた。
青山通りにも秋の気配が斥候隊のように忍び寄っていた。
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