第9話 Chapter9 「アイドル引退

暑い日が続いている。近年この時期は35℃以上の猛暑日になることが当たり前になっている。今日の最高気温の予想は38℃。考えただけで心がアスファルトに溶け落ちて蒸発してしまいそうだ。セミだけが元気に鳴いている。七海は温度変化に強いのか涼しい顔で過ごしている。MM378の1日の寒暖差は200℃だ。七海は相変わらずペットボトルの水を飲みながら、歴史関係の本をうつ伏せに寝っ転がって読んでいる。私は出勤途中、地下鉄に乗るために春日通りの横断歩道を渡ろうとしていた。春日道りの先、陽炎の中にサンシャイン60がそびえていた。今日も暑くなりそうだ。


 丸の内線の中で昨日の事を思い出した。昨日、会社から帰ると部屋の中をセミが飛んでた。10匹以上いただろう。七海が捕まえてきたのだ。セミは「ジジジ、ジジジ」と普段とは違う短い声で鳴いていた。七海は気にする様子もなくペットボトルの水を飲みながら縄文時代の本を読んでいた。

「タケル、お帰りなさい」

「七海、セミは勘弁してくれ! 部屋に生き物を持ち込むのは禁止だ」

「うん、わかった。MM378には虫がいないから興味深くて捕まえてみたの。鳴き声が凄く興味深いの。小さな体なのに鳴き声が大きいの。不思議な鳴き声なの。どうなってるのか知りたかったの」

私はセミを逃がすために部屋の窓を全開にした。七海も慌てて部屋の中を飛ぶセミを素手で捕まえて、窓から放り投げていた。バタバタと動くその姿がユーモラスでカワイイ。七海がセミを捕る姿を想像した。おそらく『占春園』の森の木にでも登って捕まえたのであろう。七海は地球に対しての好奇心が子供のように旺盛なのだ。

プロジェクトはスケジュール的には順調だ。全行程の半分を消化してプログラミングのフェーズに入っている。プロジェクトマネージャの私は今日までのプロジェクトの原価計算をしていた。クラッシングを実施したので人件費が計画より8%も増加している。この先どこで経費を抑えるか考えると頭が痛い。オフィスの外は35℃以上の猛暑だ。今日はアイスでも買って帰って七海と食べよう。七海の好きなガリゴリ君ソーダ味がいいだろう。七海に言わせればガリゴリ君ソーダ―味は夏の空の味がするらしい。ホームレスの頃、仲間と奪い合って食べたことがあると朝食の時に話していた。


 私と七海はガリゴリ君ソーダ味を食べながらテレビを見ていた。七海は満足そうだ。もう10本目になる。テレビではウクライナ情勢のニュースを流していた。戦いは泥沼状態となり、戦況は混沌としている。最近七海は私の着ているフランス軍のフィールドシャツを着ている。ネット通販で買ったらしい。胸のベルクロにはこれも私と同じ自衛隊のレンジャー徽章を付けている。過酷なレンジャー過程を終了したものだけが着けることを許されるレンジャー徽章であるが、レプリカがネット通販で売っている。しかし七海はレンジャー資格を持った隊員より遥かに生存力と戦闘力がある。レンジャー資格を持った隊員でも時速120キロで走れる者はいないであろうし、素手でヒグマに勝つこともできないであろう。グリーンベレーやネイビーシールズ、SASの隊員でも素手で七海に勝つことはできない。七海はフランス軍のミリ服を着て私とお揃いだと言って喜んでいる。ミリ服の七海も新鮮でイイ! 凄くイイ !美しい女性のミリ服姿には心が躍る。七海には『婦人警官のコスプレ』をして欲しいのだが私は言い出せないでいる。笑顔で『逮捕しちゃうぞ逮捕しちゃうぞ』、とか言って手錠をかけて欲しい。想像するだけで顔がニヤける。

「今日ね、渋谷で初めてラーメン食べたの、豚骨醤油味。テレビで観て興味深かったの。凄く美味しかったの、好きなものがまた一つ増えたよ、ニンニクマシマシなの」

「そうか、よかったな。今度寿司でも食べに行くか」

「うん、お寿司も興味深いの、凄く興味深いの、だって海の中の生き物でしょ? どんな味なんだろう。ホームレスの時は生モノは食べられなかったから、トロ、ウニ、ハマチを食べてみたいの。ねえタケル、いつにする? いつにするの?」

最近七海は時々一人で外食するようになった。パパ活で稼いだ300万円を持っている。牛丼や立ち食いソバ、カレー、たこ焼きなどの新しい味を発見すると嬉しそうに感想を私に報告してくる。高級店ではなく、リーズナブルな食事が多いのは意外と経済観念があるのかもしれない。超ド級美人の七海が立ち食いソバや牛丼店を一人で食べ歩く姿はなんとも微笑ましい。店員や客も驚くに違いない。雨宮あゆの可愛い声で七海はどんなふうに注文するのだろうか。


 MM星人は基本的に20日に1食しか食べない。それも栄養補給が目的で、楽しむためではない。MM星ではエナーシュという砂のようなものを食べている。七海は地球に来ていろいろなものを食べるうちに味覚が急激に進化したと言っている。余分に食べたものは分子レベルに分解され皮膚から放出されるのでその気になれば幾らでも食べられる。最近の七海の食欲は凄まじい。この前はロッテリオの『絶賛チーズバーガー』を10個も買ってきた。私は3つ食べるのが精一杯で、あとは七海が全部食べたのだ。七海はこの星に来て食べることの楽しさ、味わうことの喜びを知ったようだ。人類の食文化は我々の思ってる以上に奥深い。

「ラーメンは最近外国人にも大人気だ。宇宙人も美味しいと思うんだな、凄いなラーメンは。ところで何杯食べたんだ?」

「3杯だけにしたの、大盛だけど。あんまり食べると変だと思われるから」

大盛を3杯食べれば十分変だ。七海のような美女ならば猶更だろう。スタイルも抜群だ。おそらく一杯ずつ頼んだのではなく、いっぺんに頼んだに違いない。七海ならきっとそうする。


 「ねえ、今日も渋谷で沢山の人に声をかけられたの。三島七海と間違えられてね、ラーメン屋さんでもジロジロ見られたよ」

「3杯も食べたからじゃないのか? もちろん七海の美貌や、美島七海にそっくりなこともあるだろうけど」

「どこに行っても美島七海って言われるの。サインや握手を求められたり、応援してるって言われたり、スマートフォンで写真を撮られたりもするの。一緒に写真を撮ったりもしたの。小さい子供とお母さんもいたの」

「そんなの断ればいいじゃないか。本物じゃないんだし」

「それはダメなの、みんな喜んでたの、凄く嬉しそうっだったの、だから断わったらダメなの。私は美島七海じゃないのに」

なぜか七海は寂しそうだ。最近の七海は表情が豊かになってきている。先日、湘南の海に行った時から急速に感情が芽生えたような気がする。

「やっぱり美島七海の人気は凄いな、嬉しくないのか?」

「全然嬉しくないよ・・・・・・嬉しいっていう気持ちは良く分からないけど。でもイヤな感じなの」

「えっ、そうなのか? イヤなのか?」

「前の姿に戻りたいの」

「えっ! あの小汚いおっさんに戻りたいのか! 誰もが振り向く美貌と可愛いさを手に入れたんだぞ!」

私は動揺した、七海は美島七海の美貌を捨てたいのか? あのおっさんに戻りたい? 私には理解できない。

「美貌? 前の方が生きやすかったよ。ホームレスには戻りたくないけど」

私は言葉を失った。正直ショックだった。

「それに私は美島七海じゃないの、ムスファ・イーキニヒル・ジョージフランクホマレだよ。美島七海は別に存在している唯一無二の存在で、私じゃないの。でも私だって唯一無二の存在なの。タケルが喜んでるのは知ってるの。私はそれがきっと嬉しいんだろうけど、タケルが喜んでる私は、タケルが見ている私は、私じゃないの!」

ハリのある雨宮あゆの声は私を射貫くようだった。美島七海の姿から元の姿に戻る・・・・・・私はあの小汚いおっさんと暮らすのか? 何の為に、何の意味があるんだ。じゃあ三島七海の姿をした宇宙人と暮らす意味は何だ? 何だったんだ? 正直楽しかった。七海と出会ってから、私は浮かれていた。ファンだった三島七海を独占した気分になっていたのかもしれない。人生が変わったといってもいい。七海と出会わなければこんな美女と同棲することなど一生無かっただろう。七海のいる生活がもっと続くと思っていた。いつまでも続いて欲しかった。だが、私は三島七海の美貌と可愛いさあふれる容姿と暮らしたいだけなのかも知れない。それがロボットでもアンドロイドでもよかったのかもしれない。私は自分のことしか考えていなかったようだ。七海はイヤだったのだ。七海の悲しそうな顔を見ていると、胸が痛くなる。本当に痛い・・・・・・・


 私はおっさんとの生活を想像した。おっさんの姿はまだ瞼にやきついている。朝起きた時、あのおっさんの寝顔を見なければならない生活。気に入らない声だったが声も元のおっさんの声に戻してもらう必要がある。おっさんの姿から発せられる雨宮あゆの声は怖すぎる。ある意味犯罪だ。どこにも連れていけない。いや、おっさんを連れまわす気はない。できれば勝手に生きて欲しい。七海は視線を落とし床を見つめているように見えた。その悲しそうな横顔は美しい。30分以上沈黙が続いた。私は決心した。

「七海、『美島七海はもう止めだ、』終わりにしよう」

「ほんと?」

顔をあげた七海は私を見た。少し潤んだ美しい目だった。

「ああ、本当だ。ただ、次の姿は俺に考えさせてくれ。もう女優やアイドルはやめよう。できるだけオリジナルな姿にしたいけどいいな? 何かなりたい姿はあるか?」

「特にないの・・・・・・あっ、『HONDEのCSK400SR』になってみたい気もするの。速くてカッコいいの、時速180Kmで走るんだよ。顔はそのままにするの。そうすれば話せるし食事もできるの。乗ってもいいよ・・・・・・でも、ダメだよね?」

「それはダメだ! 物はダメだ! 絶対になるなよ、絶対に!」

オートバイと暮らす生活は想像できない。顔のついたオートバイは怖すぎる。車検は通らないだろう。それに私は中型免許を持っていない。


 美島七海との生活が終わりを告げようとしている。あまりにも唐突すぎる。涙が滲んできた。人生最大の祭りが突然終わってしまった。

「タケル、ごめんね」

七海は小さく呟いた。外ではひぐらしが鳴いている。


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