第5話 Chapter5 「進化するアイドル」

「タケル、起きて、会社に遅れるよ」

女性の声で目が覚めた。ええっ?

「七海、その声、どうした?」

私は寝ぼけまなこだ。

「この声は『雨宮あゆ』の声、いいでしょ」

嬉しそうに微笑む七海。雨宮あゆ?あの雨宮あゆか! 雨宮あゆは鈴が転がるような可愛らしく透明な声とハリと主張のある声を使い分ける人気アニメ声優である。

「いいけど、びっくりしたよ」

七海の笑顔、初めて見た。いや本物の美島七海の笑顔は何百回もテレビで見たがムスファ・イーキニヒル・ジョージフランクホマレの変身した美島七海の笑顔は初めてだ。MM星人は感情が希薄なので笑顔は期待していなかった。

「声を変えてみたの。それとしゃべり方も変えたの。表情や仕草もタケルが会社に行っている間にテレビを見て覚えたんだよ」

またしても笑顔の七海、少しはにかんでいる。だよって・・・・・・イイッ、凄くイイッ、最高かよ! 最高だ!! 美島七海の容姿に雨宮あゆの声、表情も豊かだ。やばい、猛烈な尿意を感じる。あわててトイレに駆け込む。座りションをする余裕がない。立ったままスウェットとボクサーパンツを下して放尿する。七海の笑顔。そして初めてタケルと呼ばれた。感動が胸から沸き上がるのが分かる。笑っているのに涙が溢れてきた。放尿しながら笑顔で涙を流す40男の姿は犯罪だ。喜びで体が小刻みに震え、そのたびに尿が便器を外れた。朝食抜きで家を出ることにした。

「タケル、早く帰ってきてね、待ってるね」

七海が笑顔で見送る。うおーーーー、ムスファ、お前急に変わりすぎなんだよ! こっちは心の準備ができてないんだよ! 嬉しすぎて怒りを感じる。電信柱を思いっきり殴った。痛くない。

 会社に着いてもニヤニヤが止まらない。

「水元さん、どうしたんですか? ずっとニヤニヤしてますよ」

人事部の佐山さやかが話しかけてきた。佐山さやかはアラフォー女子だが20代の頃はカワイかった。男性社員のアイドル的存在だった。もちろん今でもカワイイが、何故か未婚である。

「いっ、いや何でもない。ちょっと・・・・・・電車で」

動揺して咄嗟に言葉が出てこない。七海の笑顔が頭に浮かんでいる。

「電車でなにかあったんですか? 変です!」

佐山さやかが厳しい声で言う。

「あっ、笑ったんだよ、七海が、じゃなくてムスファ・イーキニヒル・ジョージフランクホマレっているじゃん、あいつがいたんだよ、電車の中に」

私は何を言っているんだ。

「だれですかそれ? 外国人ですか? まだ酔ってるんですか? お酒臭いですよ! それにニヤニヤ気持ち悪――い! ハラスメント」

佐山さやかはいつも手厳しい。

「いや、ハラスメントはないだろ」

私は納得がいかない。笑顔がハラスメントなのか?

「もしかして、またキャバクラの娘に惚れちゃったんですか? また振られてヤケ酒に付き合わされるのは勘弁です。早くいい人見つけた方がいいですよ」

 進捗会議が始まった。会議の内容がまったく頭に入ってこない。至近距離で見た七海の笑顔。そして甘い声。

「水元さん、進捗遅れも問題ですが新たに発生した12番のリスク、対応策が必要です。発生頻度、影響度ともに高いです。水元さんの経験からどう思われますか、早急な対応計画が必要です、ぜひ意見を聞かせて下さい」

「えっ、そうなの? リスクか、いいんじゃない? みんな怖い顔してどうした? 大事なのは笑顔だよ」

進捗会議は散々だった。早く帰りたい。家に帰れば七海が笑顔で待っている。新婚夫婦の夫はこんな気分なのだろうか。


 家に帰ると七海はペットボトルの水を飲んでいた。「おかえりなさい。早かったね」

七海は笑顔だ。なんか感じが少し違う。綺麗すぎる。

「七海、なんか雰囲気違うぞ、綺麗だけど」

「ふふっ、お化粧したの。この前の買い物あと、お金貸してくれたでしょ、あのお金で化粧品買ったの。それでね、池袋のこの前行ったデパートの1階で化粧品売り場のお姉さんに化粧のやり方教わったの」

たしかにこの前池袋に買い物に行った帰りに七海に3万円を渡した。ドン・クホーテで買い忘れた物があり、今度買いに行きたいと言うので渡したのだ。最近は七海の外出を許している。服装もまともなったし、小声で話すようになったからだ。そもそも私は七海の保護者ではない。外出するのは七海の自由だ。七海は化粧品を買い、デパートの化粧品売り場の美容部員に化粧の仕方を教わったようだ。七海の顔をまじまじと見た。

「ちょっと、見すぎ、恥ずかしよ」

七海はおどけてみせる。

化粧をした七海、輝きが一層増している。派手な化粧ではないが凄く似合っている。瞼の薄いブラウンのアイシャドウがアクセントとなって七海の顔の特徴を引きたてている。

「凄く綺麗だよ」

思わず声が出た。七海に面と向かって言ったのは初めてだった。

「なんか変な気分なの、ふふっ」

七海は笑った。七海の声、話し方、表情の変化に私の心と頭がついていけない。頭が痛くなってきた。何故か『おっさんの声』が懐かしい。自分自身の女性耐性の限界を感じた。

「食事まだでしょ? タケルが帰ってきたら一緒に食べようと思ってたの」

七海は紙袋の中から紙に包まれたハンバーガーをテーブルの上に取り出した。5つもある。

「ハンバーガーか」

「これが凄く美味しいの。お金が手に入ったら買おうと思ってたの」

私は一つを手に取った。ロッテリオの『絶賛チーズバーガー』だった。

「これが好きなのか?」

「うん、ホームレスやってた時に一度食べてね、もう美味しくて忘れられなかったの」

ホームレスやってた時って・・・・・・今の七海からは想像できないが、出会った時の七海は小汚いホームレスのおっさんだった。

「よかったな、食べられて」

 私は缶のレモンサワーを飲みながらチーズバーガーを食べた。七海も『アサハおいすい水:天然水』を飲みならチーズバーガーを美味しそうに食べている。

「美味しいよ、このチーズバーガーもこの水も。やっぱ地球はいいところだね。来て正解だった」

七海はニコニコしている。昨日までの無表情の七海とは別人だ。雨宮あゆの声も喋り方も最高だ。

「七海、声や表情が変わったのはいいけど、やっぱり宇宙人なんだよな?」

「そりゃそうだよ。本当の私はMM星人ムスファ・イーキニヒル・ジョージフランクホマレなの」

「しかしすごいな、感情があるみたいに見えるよ。『恥ずかしいよ』なんて言ってはにかんだりしてさ、おっさんはどこに行ったんだよ」

「うん、演技みたいなもんだけどね、これも変身の能力なんだよ。姿と声と表情と表現をいっぺんに変身するのは少したいへんなの。だから時間がかかっちゃったの」

「今日は朝からびっくりしたよ。その声凄くいい。笑顔や表情も。これからもずっと変わらないよな?」

「うん、変わらないの、笑顔いっぱいだよ」

「七海、ありがとう」

私は嬉しくて涙が出そうになった。今なら神の存在を信じられそうだ。

「私もこれで遠慮なくしゃべれるよ。でも凄いね、美島七海の人気って。今日も池袋で何人も声をかけてきたよ。本物と間違われたみたいなの。特に化粧したあとは凄かったの。ナンパしてくる男の人もいたの」

「ナンパ! 大丈夫だったのか?」

私は思わず声が大きくなった。心配していたことが現実になった。七海の美貌なら言い寄ってくる男は沢山いるだろう。下手すりゃ芸能スカウトなんかも声をかけてくるかもしれない。まさか他の男に心を許すなんてことは・・・・・・私は嫉妬している。七海はMM星人だ。地球の男なんかに心を許すはずがない。ムスファ、頼んだぞ。でも私には心を開いて欲しい。

「うん、大丈夫、いざとなったら力でどうにでもなるの」

そうだった、七海はMM星人の恐るべき身体能力を持っている、その気になればナンパ男など文字どおり秒殺、いや瞬殺だ。

「ああ、そうだな、でも殺すなよ」

これは冗談ではない。

「うん、暴力は嫌いだからね、暴力イヤイヤ」

笑顔で答える七海、ノリもいい。水を美味しそうにペットボトルから一口飲む。宝石のように輝く唇も、その仕草もいちいちカワイイ。コンチクショー!


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