馬鈴薯

傍野路石

馬鈴薯

 世間から隔絶した、深い深い山奥の奥……地図上にも無く、外の者は誰も認知し得ぬ深山幽谷に、人知れず消えた、名も無き小さな村落が在った。

 村には四軒のあばら屋が疎らに建ち、それぞれに百姓老夫婦、初老の百姓、猟師、樵の男たちが、自給自足の生活を営んでいた。

 日々畠仕事に勤しみ、鹿や猪を狩り、川で魚を釣り、清水を汲み……豊かな山の恵みに与り、俗世の柵も煩いも無く、悠々ひっそりとしたその暮らしの平穏は、永久とこしえのモノの筈であった……。


 或日、猟師は何日か前に幾らか仕掛けた罠を見に、朝靄立ち籠める山林へ赴いた。

 山道に這入ると間もなく、彼は檜が二本並び立っている処で足を止めた。檜の間には小さな祠がポツネンと佇んでいる。平生いつもこの祠に手を合わせ拝んでから山へ這入って往くのであるが、この日は少々容子が違った。祠の中に安置されている筈の馬鈴薯じゃがいもみたような拳大の石が、どういう訳か地面に転げ落ちていたのである。おやッ……と思った猟師は、石を拾い上げ、辺りを見回した。別段何の足跡も見えなかったが、彼は「さては狸の悪戯か」なぞ思い思い、石をそっと祠の中に戻した。

 この祠には或る逸話が伝聞として村に残っており、なんでも大昔、山には兇悪な化物が跳梁跋扈し山人や山伏を襲っていたが、それらを歩蹄地という豪傑が討滅し、化物の首魁を討ち果した時にその腹から出て来た石を祠に納めて山中の安泰を禱った……という話である。

 村では、石には邪が封じ込められており、決して祠の外に出してはならぬと信じ伝えられてきた。故に誰も触れることさえしないが、何故かこの日は地面に転げ落ちている。猟師は何か不吉な事が起こるのではないかと表情かおを曇らせながら、平生より一層念を込めて両の掌を擦り合わせた。

 さて、念入りに拝みはしたが、猟師のやって来た時には石は既に地面に転がっていたので、不吉な事が起こるとすればもう起きているのかもしれない。実のところ此処数日の狩りの成果が芳しくないが、若しか今日も収獲無しであるとか……などと一抹の不安を懐きながら罠の場所に向かう彼であったが、しかし、杞憂であった。

 三箇所に仕掛けた罠のうち、二つに鹿と猪が掛かっていた。不吉不吉と思い込んでいたものだから、彼は少々面喰ったが、やがて不安なぞスッカリ無くなって忽ち御機嫌になった。そうして獲物に手を合わせながら、「石が落ちていたのは、凶兆でなく吉兆だったのかも知れねェな、ハハハ……」と独り根も葉も無い結論に落ち着くのであった。

 鹿と猪を担ぎ、村への帰路を辿る猟師の足取は軽かった。木々の間から窺く朝曇りの空にはだんだんと青が見え始め、路傍の小さな花の周りでは蝶がフワフワと踊っていた。

 道中、彼はふと、序でに山菜でも採って往こうと思い立ったので、暫く歩いたところで村への帰路を外れ、草木鬱々たる道無き道を進む。やがて足を止めた其処は、村では周知の山菜の群生地である。見渡せば、蕨やら薇やら蕗やらが露を帯び、徐々に射して来た陽光の下にキラキラと瑞々しく照り輝いていた。

 彼は、祠の石の事なぞ、もうサッパリ忘れ去っていた。

 鹿と猪を担いで山道を暫く歩いてきたので、彼は一先ず傍の切株に腰を下した。そうしてボンヤリ一息ついていると、俄に何処からともなく、白や黄や青といった色々の蝶が一羽、二羽とヒラヒラ次々に現れ、気付けば数十の蝶たちが猟師の周りに舞い遊んでいた。

「ほォ……」

 彼は思わず感歎の息を洩らし、眼前で数多の蝶が舞い煌く見たこともない美しい光景に見入っていた。

 すると、そのうちに今度は何か音が聞えて来て、彼は耳を澄ました。

 キィィン……キィィン……という、聞いたこともない、不思議な音が、頭の中で頻りに幾つもの波紋を描き出しながら響いている……。

「これは……もしや、歌っているのかな……ハハハハ」

 猟師は暢気であった。これはキットありがたい音なのだ、蝶たちが歌っているのに相違ない……そうして可憐に踊って、幸福を振り撒いて呉れているのだ……と手を叩いて喜んだ。彼の頭の中は御花畑であった。

 しかしそれも束の間、猟師を取り囲んでいた沢山の蝶たちは、やがて一羽、また一羽と、四方八方散り散りに、空の彼方へパタパタ飛び去って往った。

 猟師はボンヤリと、それらを見送っていた。スッカリ好い心持であった。……そうだ、村の皆にも教えてやろう……そう色めくと、瑞々しい山菜を幾らか摘み、また鹿と猪を担いで、ゴキゲンに帰路へ就くのであった。


 猟師が山へ出掛けた折、老夫婦は、平生のように畠仕事に勤しんでいた。

 この日は、馬鈴薯の収穫であった。翁が畝を穿っているところから、拳大の、黄土色の塊がゴロゴロゴロゴロと出て来る。

「ほォ……今度のは豊作だなぃ」

 嬉々として、翁の掘り出した物を竹籠に並べながら媼が云う。丸々と肥った馬鈴薯で忽ち竹籠が埋まってゆく。

「土の神様のおかげだべ……ヘへヘ」

 そう云って翁はゴキゲンに笑う。その手許では、馬鈴薯と俱に同じくらいよく出て来る土の神様……蚯蚓が、ウネウネと元気よく蠢いていた。

 やがて、収獲を終えた二人は、掘り返した畝を見て呆然としていた。

 銘々のたくり回る、夥しい数の蚯蚓……。ざっと全体を見ただけでも数十か百以上……馬鈴薯も非常な豊作であったが、明らかにその数を凌駕していた。

「魂消たなぃ……コンナに居ンのは見だ事ねェ」

「んだな……でもおかげさまで好い土だ。馬鈴薯もコンナに育つ訳だわい」

 と、媼は眼を丸くし、翁は腰を押さえて伸びをしていたが、ふと、視界の端に何かが動くのを捉えた。

 二人が一瞥すると、畠の片隅で動いた何やら細長い影は、それが何かハッキリと判らぬうちに、土の中へと潜って往ったようであった。

「何だべ、今の。蛇か」

「蛇だべ」

 二人はそう確信すると、別段それを気に留めることもなく、また畠仕事へ戻って往った。


 川へ釣りに出掛けていた樵と百姓は、随分と御機嫌な足取で帰途に就いていた。背負う魚籠びくには川魚が溢れんばかりに詰まっている。

「まさかコンナに釣れッとはなァ」

「アハハハ、入れ食いだったもんな。アンナ事は初めてだ。今日は天気も好いし、干物にでもするべ」

「んだな」

 小鳥の囀る麗らかな木々の間を、談笑しながら二人は往く。途中、岩清水で咽喉のどを潤しつつ、村へ戻って来た頃には日もスッカリ高く昇っていた。

 村では、煙が一筋立ち上り、その下で老夫婦が昼餉の仕度に掛かっているところ……の筈であった。

 静かであった。煙の一つも見えず、人の活動する気配も無い。風も無く、木々や草花は時の止まったようにシンカンとしている。世俗とは懸け離れた深山みやまの寒村なれば、静かなことは何も不思議なことではないが、藹々と帰って来た樵と百姓は、言い知れぬ感覚のうちに妙な、不気味な静けさを覚えて、思わず立ち止まり顔を見合わせた。

「……何か、妙でねェか」

 樵が云うと、百姓も首を傾げながら頷く。

「ウン……でも何だべな……」

「取り敢えず爺さんたちン処に往ってみるべ」

 二人は、村中に漂う何処か暗い、奇妙なおもむきに急き立てられるようにして、少しく足早に老夫婦の許へと向かった。

 老夫婦のあばら屋の脇の畠まで来たところで、二人は絶句した。荒寥たる有様であった。悉く作物は黒々と萎え果て、其処いら中に干涸らびた蚯蚓の屍が転がり、竹籠が引っ繰り返って腐った馬鈴薯が散乱している。

「何だこれは……」

「ドウなってンだ……朝はこんなんじゃなかったよな……」

「ああ……俺等が釣りに往ってる間に何が……アッ」

 と、呆然と変り果てた畠を見回していると俄に樵が一驚の声を上げたので、如何したと百姓も同じ方に見遣れば、スッカリ萎びた茄子の枝葉の蔭に、人の足が覘いていた。それは、翁のものに相違なかった。

 釣竿も釣果も放り捨て、呼び掛けながら急ぎ駆け寄ると、其処には老夫婦が揃って倒れていた。そうして、それを認めた刹那、二人は思わずギョッとした。老夫婦の容子が尋常ではない……まるで精気を搾り取られたかのようにゲッソリと骨張り、変り果てた、木乃伊の如き様相で地に横たわっている……。

「おいッ、爺さんッ」

 耳許に呼び掛けるが、ピクリとも反応は無く、その身体の非道く冷たいことに、樵と百姓は愈々青ざめた。

 一方、媼は辛うじて息をしていた。

「婆さんッ……一体何があった……」

 樵がなるべく優しく落ち着いた調子で訊うと、媼は虫の息を振り絞り、微かに震える口から、消え入りそうな殆ど声にもならぬ嗄れた声で、何か訴え掛けていた。その容子がアンマリ惨酷むごたらしく、二人はその一音一音を聞き洩らすまいと媼の顔に耳朶を寄せた。

「……じ……がァ……ィ、も……に、げ……ッ……」

「……何、じゃがいも……馬鈴薯が、如何した……」

「…………」

「婆さんッ……」

 何か意味ありげな言葉を遺し、媼は静かに息絶えた。

 二人は、哀惜の眼を見合わせると、老夫婦の亡骸を並べ、手を合わせた。亡骸は驚くほど軽かった。

 そうして、陰鬱なおもむきの中で二人は、斯かる惨事の元兇は一体何かと考え始めた。

 ……畠を遍く枯らし、収穫した馬鈴薯を悉く腐らせ、剰え老夫婦や畠中の蚯蚓の精気までも搾り尽くして往った者の正体……。

「コンナの、得体の知れない妖怪変化の類としか思えねェな……」

 樵は手を拱いて唸っていたが、

「おい、見ろ」

 何心無く亡骸を検めていた百姓が、ふと何かに気付いた。

「何だ……ン、これは」

 見ると、翁にも媼にも同様、四肢に何やら細長いモノの巻きついたような痕が、痛々しく、焼き付けたように残っていた。

「非道ェモンだな……蛇か」

「ウーン、蛇だべ。しかし剣吞だな、ソンナ恐ろしいヤツが近くに居るとなりゃ……」

「爺さん婆さんらの仇讐かたきだァ、見つけて懲らしめてやるべ」

 樵は腕捲りしいしい意気込む。

「ウム……でも、俺等までやられッちまったら如何すンだ」

「大丈夫だァ、蛇なんて首根ッこ摑まえちまえば造作も無ェ」

 百姓の心配を余所に、樵は鼻息荒く自らの手首を摑んで見せたが、その時、ふと物音がした。老夫婦の家からであった。

「ヤッ……其処に居ンでねェが。ホレ、往くぞ」

「お、おう」

 二人は足音を忍ばせ、裏口の方へやって来ると、戸の隙間から中の容子を覘き込む。そうして、薄暗くハッキリとは見えぬ中に、何やら細長くニョロニョロと蠢く影を認めた。確信を得た樵は声を潜めて、

「……見たか、ヤッパリ蛇だべ」

「んだな……如何するべ」

「オレが表に回るからよ、挟み撃ちすんべ」

「おう、わかった……」

 百姓も次第に、蛇ならば案外何とかなるだろうという心持になっていた。

 しかし、樵が表の方に回ってからやがて、百姓の耳朶を打ったのは、悲鳴であった。

「うああああぁぁァァッ」

 只事ではない声に百姓は心底吃驚して、周章あわてて戸を打ち破るかの如く飛び込んだ。

「如何したッ……」

 樵は、倒れていた。ちょうど老夫婦がそうであったように木乃伊の如く干涸らび、眼を飛び出しそうな程に見開いた恐ろしい形相で何か必死に叫び掛けている容子であったが、しかし最早声も出せぬらしく、ただ口の動きばかりであった。

 次第にそれが「逃げろ」と云っているのだと明らかになってくると、やがて白眼をむいて頭を落した樵を前に、百姓は愈々血の気が引いて、死に物狂いに駆け出した。が、戸口から出かけた処で、何に躓いたかモノスゴイ勢いで転んでしまった。顔を上げるとボタボタ鮮血が滴り落ちたが、それは大した問題ではなかった。ただ恐怖のために粟立つ総身を震え上がらせながらも急いで立ち上がろうとする……が、しかし、今度は不意に足を引っ張られ、また無抵抗にタタキつけられた。そうして、その儘ズルズルと暗く冷たいあばら屋の中へ引き摺り込まれる。その面妖な力に、両手を突き、足をバタつかせ抗うと、足先から脹脛ふくらはぎにかけて細いモノが幾つも絡み付く気味の悪い感触をジンジンと痺れるように自覚して、胸の内側から激しく鼓を打つようにドッと心臓が跳ね上がった。それは恐怖の絶頂であった。地獄へと招かれているような心地であった。足許に眼を向けるなぞトテモ出来ず、寧ろ断じて見ぬよう努めていたくらいであったが、その内にも、脚の締め付けられる感覚に、これは真個ほんとうに蛇の仕業かしらんと云う疑心を懐きはじめながら、では何の仕業かと云うのに、其処まで考え至る余裕など些かも無く、百姓は只々必死に踠いていた。けれども、そんな彼の努力とは裏腹に、身体はズルズルズルと後退してゆくばかりである。足許から絶えず襲い来る厭な気配にビリビリと肌膚を撫でられながら、彼はだんだんと身体中が乾いてゆくような感覚を覚えていた。すると同時に、並んだ老夫婦の亡骸の閑寂しずけさや樵の死際の顔の烈しさが、アリアリと眼球のうしろ側に過ったかと思うと、忽ち彼自身にも信じられぬくらいの力がグングンと湧き起こり、両腕を杭の如く目一杯突き立てて堪えた。そうして、血と汗と塵に塗れた顔を徐に上げて戸口を真っ直ぐ見据えると、中の暗さに比して外の景色がアンマリ眩しく……嗚呼、今におれはこの地獄の鎖を引き千切ってアノ光の中へ逃げ出してやるぞ……と強い気持になりながら、逃げおおせる彼自身の姿を戸口の向こうに幻視していたが、それも束の間、背後の兇手は今まで本気でなかったらしく、先刻さっきとは比べ物にならぬ力をグングン発揮し始めた。喰い込む程に脚を締め付けられ、理不尽とも云える力に引っ張られて、百姓は必死に踠く。恐怖のドン底に這い蹲い、獣の如く一心不乱に四肢を動かし声を張り上げて殆ど発狂したように抗うが、しかし矢張り後退するばかりで一向儘ならぬ。身体は愈々乾きを増し、膂力もみるみる失われ、抵抗はただ虚しいばかりであった。

 そうして竟には、兇手は脚から腰、腕へと絡み付き、力無く足掻く百姓を吞み込んでいった……。

「あああぁぁァ……ァァ……たッ、たすけてくれェッ……」


 鹿と猪を担ぎ、瑞々しい山菜を携えてゴキゲンに村へ帰るところの猟師は、真っ直ぐ並び立つ二本の檜の間に鎮座する小さな祠の前で歩みを止めると、胸の前で手を合わせながら恭しくお辞儀し、山の恵みに感謝を捧げた。やがて顔を上げた彼は、ニコニコと実に晴れやかな表情で獲物を担ぎ直しつつ、皆で火を囲み藹々と飯を食う光景をシミジミと眼球のうしろ側に見つめながら、再び帰途を歩み始める。

 祠の石が真っ二つにひび割れていることなぞ、気が付く由も無く……。

 村へ帰り着くと、平生とは趣を異にする空気が冷ややかに猟師の肌膚を撫でた。其処に在ったのは、川の流れの止まったような閑寂けさであった。彼はふと立ち止まり、不思議に思った。昼餉の仕度をしている頃合だと太陽は示しているが、しかし煮炊きの煙が立っている容子も無い。

 ……イヤ、これから取り掛かるところなのかもしれんな。どうやらチョット早く着いたらしい……。

 何か形容し難い引っ掛かりを覚えながらもそんな事を思い思い、取り敢えず焚火の処へやって来たが、果して誰も居ない。むろん火などおこっておらず、石の囲いの中で燃え滓がモノクロにうら悲しく横たわっているばかりである。

 ……爺さん婆さんは畠仕事をしてた筈だが、何処さ往ったんだべ。イヤ、家ン中か……。

 何となく独り世界に取り残されたような心持になりつつ、猟師は老夫婦の家へ歩を向けた。

 そうして家の脇の畠の前に至ると、如何云う訳か、魚が落ちていた。何だってコンナ処に……と訝しげに視線を先へ遣れば、魚籠が二つ無造作に転がり、沢山の魚を地面に吐き出している。それは樵と百姓のものに相違なかったが、彼は二人が既に帰っていたのを知ると同時に、置捨てられた魚籠の寂しさと眼の球の濁り切った魚たちのなまぐささ、依然として重く伸し掛かる閑寂けさに、言い知れぬ胸騒ぎを覚えた。視線を少し移した処には、釣竿も二本打捨てられている。其処から更に視線を動かし、彼は畠を視界に収めた。

 彼は眼を丸くした。今朝は緑でイッパイであった筈の畠が、眼も当てられぬくらいに黒々と萎え果て、土の上には干涸らびた蚯蚓の屍が無数に散らばっている始末である。正しく、畠は死んでいた。

「な、何だコレ……」

 何が如何してこうなったものか、まるで見当もつかず、彼は困惑しきって、顔を顰めながら畠を見回していたが、そのうちに視界の端に何か見えたような気がしたので、覘き込むようにその方へ近付いて往くと、

「……ウワッ」

 思わず悲鳴を上げ、尻を打った。

 木乃伊が二つ、仰向けに並んでいた。否、それは老夫婦の亡骸であったが、惨酷たらしく骨張ったあまりの変容ぶりに彼は初め気が付かなかった。やがてその背格好や面影に老夫婦だと確信を得ると、彼は猶狼狽し、急いてその許へ駆け寄った。

「ど、如何なってンだ……爺さん、婆さん、何があったンだよ、おい……」

 青ざめながら、二人の肩を揺すり揺すり問い掛けるが、その身体は凍り付いたように冷たく、瞼も口も竟に開かれることはなかった。

 彼は、ただ呆然とし、徐に立ち上がると、思考の追いつかぬ儘に二つの亡骸の間で暫く佇んでいた。傍に腐敗した馬鈴薯の散乱している様を、見つめるともなく見つめながら……。

 やがて、ふと樵と百姓の顔がうかび、彼はハッと我に返った。

 ……そうだ、彼奴あいつらはドウしたんだ……。

 自ずから湧き出づる好からぬ予感を押殺し押殺し、努めて望みを懐きながらキョロキョロ迷子みたように辺りを見回す。と、その首の回転と眼球の動きは、或る一点を捉えてピタリと止まった。

 開け放された、老夫婦の家の柴扉……。その佇まいは如何にも空しく、また一方で、彼をその奥の空間へ誘うべく手招いているようであった。気付けば彼は、その魔力にスッカリ吸い寄せられていた。

 ……彼処あすこだ。彼処にキット、真個の事を知る手掛かりが在るに違いねェ……。

 老夫婦の変死体と戸口とを交互に見遣りながらそう思いすと、慎重な足取であばら屋へと近付いて往く。

 戸口の前に立ち、薄暗い室内を覘き込むと、矢張り静かであった。人の気配なぞまるで無く、小さな虫一匹すら居ないように思われた。それでも彼は、戸口を潜りつつ、中へ呼び掛ける。

「オーイ」

 果して応答は無い。声は虚しくこだましたかと思うと、隙間だらけの薄っぺらな壁に余韻も無く吸い込まれていった。よくよく耳を澄ましてみても、聞えるのは彼自身の呼吸音くらいのものであった。そんな薄暗がりに、ポツネンと置かれた己の憐れな姿をマザマザと認めながら、彼は猶吸い寄せられるように奥へ足を踏み入れて往った……。

 ふと、人の影が在った。

 むしろの上に俯せピクリとも動かぬ、それは樵に相違なかった。

 その容子を認めるや、彼は手遅れを悟るともなく悟り、恐々と近付いてその肩に触れると、果してその感触は老夫婦の如く生きた者のソレではなかった。

 彼は肩を落し、せめてその顔を拝んでおこうと樵の亡骸を仰向けようとしたが、右半身を起こしかけたところで顔が見えると、

「ヒッ……」

 思わず小さく悲鳴を上げ尻を打った。

 その顔は、地獄をアリアリと現していた。白眼を剝き出し、肉は削げ落ちて殆ど骨ばかりにになり、必死に叫んでいるかの如く口は大きく開かれた儘……。それは正に、想像を絶する苦しみの中で逃れることも能わず命を吸われていった事を無言の内に説明していた。

 ……知らぬ間に此処でトンデモナイ事が起きていた……。

 彼はヒシヒシと思い知ると、総身が粟立ち、手足はガタガタ震えた。

 ……コンナ処に居ちゃァいけねェ。キットおれもやられちまうぞ……。

 そう思い思い、腰を抜かした儘に後退りしていると、ふと後ろ手に何かが触れた。彼はすぐに直感し、震えながら顧みれば、百姓の無惨な屍であった。彼は愈々絶望のドン底にタタキつけられ、もう堪らなくなってヨロめきヨロめきあばら屋を飛び出した。

 戸口の前に躍り出ると、息を切らし、冷汗を滴らせながら倒れ込むように跪く。そうして地に突いた両手の間に、走馬燈の如く頭の中をグルグル廻る惨憺たる光景を凝視するともなく凝視していたが、俄然、彼は或る考えに閃き至り、一転して気の触れたように笑い始めた。

 ……ハハン……そうか、判ったぞ。そうだよな。ハハハハ、キットそうだ……これは夢なんだ。おれは今、悪い夢を見ている……そうに違いない。でなきゃ、こんなムゴイ事……起こる訳無ェじゃねぇか、アハハ……アハアハアハ……。マッタク、非道い夢だぜ、寝覚めが悪そうだ。起きる頃にはキレイサッパリ忘れていると好いんだがなァ……ハハハハハ……は……。

 楽天的に思い廻らしながら、何心無く畠の方に顔を向けた時であった……それは如何にも何気無い動作であったが、しかし同時に、何かしらの気配を無意識のうちに感じるともなく感じての動きでもあった……と云うのは彼自身には知る由も無い……。

 何かが居た。

 ソレは、気味の悪い紫色の蔓みたようなものを四方八方に幾つも伸ばし、猟師の獲って来た鹿と猪にグルグル絡み付いていた。かと思うと、それら獲物はみるみるうちに乾物の如く凋んでペシャンコになってしまった。

 アンマリ信じ難い光景に、彼は眼をマン丸くした儘固まっていた。

 鹿と猪を乾物と成した奇ッ怪な蔓を辿り辿れば、その元に在るのは丸くもいびつなりをした、なるほど馬鈴薯みたような……否、それは馬鈴薯であった。正しく馬鈴薯が、その身から幾つも長く長く伸びた芽を手足の如く操り、奇妙に蠢いているのであった。

 彼は殆ど思考の止まった、呆然とした体で、夥しい芽の不気味な紫と干涸らびた獲物とを見比べていた。そうしてやがて、何度も眼球を左右に転がしているうちにだんだん頭が冷静になってくると、ふと、皆の木乃伊の如き変死体と眼前の鹿と猪の様相とが重なり、その意味するところが自ずと明らかになってきた……。

「……まさか……」

 アレが、元兇……と思うと同時に、彼の方に気付いた馬鈴薯と眼が合う……むろん馬鈴薯には眼はおろか鼻も口も在りはしないが、彼は確かに馬鈴薯と相互に存在を認め、寧ろ表面の微妙な窪みや土汚れが顔のように見えてくるくらいであった。彼は総身が金縛りみたように緊張するのを自覚した。

 すると馬鈴薯は、芽を地に突き立て、宛ら巨大な蜘蛛の如くい寄って来る。

 忽ち、身体中の粟立つ不快さと同時に、彼の心臓はドッと烈しく早鐘を打ち鳴らし始めた。最早眼の前の事が夢か現かなど問題ではなく、捕まれば喰われるものと本能の悟る儘、彼はただ一心に駆け出した。

 何処へ向かうともなく森へ飛び込み、草木の間を、藪の中を、蜘蛛の糸が纏わるのも、枝先に引っ掛けて傷だらけになるのも構わず、遮二無二、発狂したように走る。

 やがて見慣れた山道に出たが、後を顧みる余裕も無く道無き険阻な処を走って来た彼の脚は重かった。呼吸も苦しく、心臓はイヨイヨ喧しく胸を叩く。それでも猶、脳裡を離れぬ馬鈴薯の芽の、妖しく波打つ紫の鮮烈な恐怖の為に、彼は血塗れの体で走り続けた。

 それからモウどれだけ走ったか、今己が何処に居るか、彼にはサッパリ判らなくなっていた。地を踏み締める度にジンジンと痛んでいた脚も、最早何も感じぬ。馬鈴薯の逐って来る容子は疾うに無かったが、彼がやっと足を止めたのは、何処とも知れぬ閑かな森の中でむき出した木の根に蹴躓いた処であった。力無く倒れ伏した彼はそのまま暫く動けず、朧気な意識の中で穏やかな鳥の囀りを聞くともなく聞いていた。

 そうして死んだように倒れていたが、暫くして少し気力を回復すると、徐に起き上がり、虚ろに天を仰いだ。

 ……何処だ、此処は……はて、おれは、何をしていたんだったか……。

 記憶が少々曖昧になっていた彼は、ドウにか現状を把握するべく、グルグルと辺りを見回した。上を見れば空を覆う喬木の無数の枝葉……視線を下げれば、右も左も各々に鬱然たる名も知らぬ草花の群……何処をドウ見ても、愈々判らなくなるばかりであった……が、ふと、すぐ傍のゴツゴツと地面からむき出した木の根に眼を遣った時であった。

 ……ああ、そうだ。この根ッコに躓いて……。

 と思うと同時に、霞がかっていた記憶が閃光の如くアリアリと泛び始めた。

 枯れ果てた畠……夥しい蚯蚓の屍……スッカリ変り果てた仲間たちの亡骸……暗く冷たいあばら屋の趣……生命を吸い尽くす馬鈴薯の芽……その妖しさ、艶かしさ……。

 それらがハッキリと頭の中を駆け廻るうちに、彼はハッとしてまたキョロキョロと辺りを見回すと、周囲の趣が違っていた。遍く草木は暗くザワザワと不気味に揺れ、あらゆる方向から何かに見られているような気さえする。今にあの化物が何処からか飛び出して来るのではないかと、疑心暗鬼のうちに身体がガタガタ震えた。

 すると、そんな心持に追討を掛けるように、突として木の根がグネリグネリ蠢き出したかと思うと、彼の脚に絡み付かんと伸びて来た。

「ウワァぁぁぁぁぁッ」

 彼はもうスッカリ正気を失って、再び当て処もなく、脱兎の如く草木の間に駆け出して往った。

 それから今にも転びそうな脚で彷徨していると、眼前に川が見えてきた。なかなか幅があり、深さは一見では計り難く、橋のようなものや突出した岩場なども見当らぬので、向う岸へ容易には渡れそうにない。剰え速い流れであった。

 しかし虚ろな頭の彼は一向気にも留めず、フラフラ遁走して来た儘にバシャバシャと急流に突き進んで往く。一歩往く毎に身体は沈み沈み、数歩往った処でモウ足が付かなくなった。彼は猶手足をバタバタ動かし進もうとするが、徒々ただただ流されてゆくばかりである。そうして虚しく頑張っているうちに、とうとう限界を迎えたものらしく、脚がモノスゴイ悲鳴を上げはじめると、彼はもう泳ぐことも儘ならず、息も絶え絶えになりながら、凄絶な苦痛と激流に吞まれて往った……。

 流木の如く流れ流されて往く中で、彼はモウ殆ど意識が判然としなかった。途中、流れを分かつ岩にブチ当たり、しがみついて一縷の望みに踏ん張りかけたが、一面にした苔に辷り、それは果敢無くみるみる遠のいて往くのであった。

 そうして忽ち、イヨイヨ薄らいでゆく意識の中、彼は不思議な感覚に包まれた。

 ……ナンだか浮き上がるような……しがらみを脱したような……憑物のサッパリ落ちたような……。

 ……こいつァ愉快だ……アハアハ……アハハハ……。

 轟音、水飛沫と俱に、音も無く影も無く、猟師は夢見心地の中に、千尋の水底へと落ち込んで往った……。


 斯くして、深山幽谷にヒッソリと在った名も無き寒村は、或る一箇の馬鈴薯のおぞましい働きによって絶滅と相成り、ただ何事も無かったようにシンカンとしているのみである。其処に在り、人の住んでいた事を知る者は此世に無く、また化物じゃがいもの所在も、別の腐敗した馬鈴薯の一つが毒々しい芽をメリメリと伸ばし始めている事も、知る者は無いのである。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

馬鈴薯 傍野路石 @bluefishjazz

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ