第2話
私は耐え難い喪失感に襲われていた。
昨日宇都宮アルプスでアトラスとの壮絶な別れを経験したからだ。
私にとってあの選択は正しかったのか?
自問自答を繰り返していたため、昨晩はなかなか寝付くことができず、睡眠時間は7時間ほどしか取ることができなかった。
目が覚めた時はまだ薄暗かった。
悩んでいてもしょうがない。
私は急遽山に登ることにした。
私はそのことを妻に伝えるために隣を見た。
すると、妻も目を開けているではないか。
どうやら私が目覚めてゴソゴソと動いているうちに起こしてしまったよう…
いや。違う。
寝ている。
目を開けながら寝ているのだ。
よく見ると口も少しばかり開いている。
私はそんな不用心な妻に対して行ってきますと伝え、身支度を整えた後に出発した。
本日登る山は奥久慈男体山だ。
茨城県の大子町に鎮座し、連続する鎖場が有名な山だ。
しかし、本日は朝からしとしとと雨が降っている。
鎖場は危険であると判断し、鎖場がない男体神社から登ることにした。
駐車場は10台程度止めることができそうだ。
トイレはないため、事前に済ませておく必要がある。
身支度を整えて出発した。
登り始めから急な坂が続く。
マイナーな登山口であるため、蜘蛛の巣のオンパレードだ。
しかし、アトラスはいない。
私はボクシングの王であるマイクタイソンのピーカーブースタイルで突き進んだ。
しかしながら、夏の低山はやはり残酷だった。
とてつもない大きさの蜘蛛が登山道を塞ぐように蜘蛛の巣を張り巡らせていたのだ。
私は一歩も進むことができずに撤退を考えた。
その時だ。
ふと下に目をやるとそこには昨日永遠の別れをしたはずのアトラスがいた…。
いや。違う。
アトラスのはずはない。
よく見ると少し小さいではないか。
私はアトラスJr.を手に取った。
攻撃力はアトラスには敵わないが、軽い分操作性がある。
私はアトラスJr.とともに男体山の頂を目指した。
山頂に建てられた社からは絶景が拝めるはずであるが本日は見渡す限り、ほぼ霧が支配していた。
しかし、地上は晴れているため、一部の集落が見えた。
とてつもない高度感に足がすくんだ。
足元は切り立った崖になっているようだ。
暫く景色を眺め、白木山を目指した。
白木山までは一旦山道を下り、車も通る砂利道を歩く。
暫くすると集落が見えてきた。
そこからは舗装路を歩く。
白木山の登山口は看板が立っているためわかりやすい。
里山あるあるだが白木山も終始急登が続く。
ロープを掴みながら登っていく。
梅雨特有のジメジメとした暑さから汗が吹き出してきた。
おそらくではあるが袋田の滝の水量よりも私の汗の量の方が多かったはずだ。
白木山の山頂は眺望がゼロだ。
暑い中息を切らしながら登ったがそんなこともあるだろう。
私はザックをおろして中からスポーツドリンクを取り出し水分を補給した。
そういえば、本日は妻のザックを拝借してきた。
最近購入した、マムートのデュカン30だ。
体にフィットしてとても背負いやすい…。
その時だ。
ザックを見た私の頭の中に突然妻の顔が浮かんだ。
玉座であるソファに腰を下ろした妻だ。
小枝…いや、アトラスJr.とのアドベンチャーの最中であったが、私を現実世界に引き戻した。
相変わらず恐ろしい引力だ。
そういえば先日頂き物の木の実を食べたら美味しくなかったと言っていた。
おそらくヤミヤミの実だろう。
最近ゼハハハァと笑うなと思っていたがそういうことだったのだ。
昨日と一緒だ…。
私はアトラスJr.とも別れなければいけない。
私は白木山の山頂標識の隣にアトラスJr.を立てた。
感謝を伝えた私は振り返らずに走り去った。
目から流れ落ちる水分は汗なのか涙なのかはわからない。
今日も無事に下山できた。
私は女王の待つ家に帰った。
玄関を開けリビングに入るとソファの上には人影が2つあった。
一つは女王。
もう一つは我が家の第一王子。
2人とも尻にソファが吸い付いているのだろう。
こちらもしっかりと遺伝子を引き継いでいるようだ。
王の引力 〜男抱山・女抱山・奥久慈男体山〜 早里 懐 @hayasato
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