第11話 蟻塚
渓谷沿いに、かつては賑わいを見せていた歓楽街の廃墟がある。
数年前の局地的豪雨の災害により土砂崩れと、川の氾濫により押し流された岩や流木が積み重なり人の出入りを拒んでいる。
その一端、かろうじて倒壊を免れた廃屋から一筋の煙が伸びていた。
廃屋の脇には納屋らしき小屋があり馬が一頭、蹄を休めていた。
ガチャガチャと廃屋から音が聞こえる。
黒蟻の鎧、オーガ狩りのミルレオ(蟻獅子)だ。
どれほどの血を吸ってきたのか、黒蟻のハルバートは悍ましいほどの妖気を放ち、周囲の空気をも黒く染めていくようだ。
外見の廃れた廃屋の中は以外にも整頓されている、寝具もあり炊事場に水も汲んである、基本的な生活が保たれていた。
鎧から這い出た男は身長の割に細く、瘦せすぎの印象が強い、落ちくぼんだ双眸だけが爛々と光を放っている。
今の姿からハルバートを竜巻のように振り回す剛腕は想像できない。
男は炊事場の水を桶に汲むと、洗面所に向かい全裸となり、身体を清める、全身の傷の跡は数え切れぬほど奔っている。
新しい傷から古き傷まで様々に浅く、深く刻んでいる。
いくつかは致命傷になっていないのが奇跡に思えた。
汗と垢、血と埃をこそぐと、その下からようやく人間が現れた。
その風貌はオーガの赤ではなく浅黒い肌に白髪の髪が年不相応に感じる、彫の深い顔立ちが苛烈な心情を物語るようだ。
いくら洗っても焦りと苛立ち、後悔と懺悔は流れ落ちることは無かった。
ミルレオはボロボロだが洗濯してある服に着替えると、起こしてあった火に、串に刺した塩漬けの肉の塊を直接炙る、肉から溶けた油が薫香となって肉をいぶした。
いつのものだったかしれない固くなったパンも同様に炙ると、さらに固くなった。
むしり取る様に喉に押し込み、水で胃に流し込む。
食事ではなく給油のように、味わうことなど忘却してしまったようだ。
表情なく肉とパンを貪りつくした後、ミルレオは揺らめく焚き火に見入っていた、触ることのできない美しい揺らぎは何を映しているのか本人にしか見えない。
廃屋に水桶を背に担いだ女の姿が近づいてくる。
まだ若いエルフのようだ。
エルフらしく銀の長髪に色白、ややオレンジの影を落とした緑の瞳、細身に質素な布を纏っている。
ただ両耳の先端が切り取られている、オーガが捕らえた奴隷に対して行う印だ。
躊躇なく小屋の扉をくぐって中に入る、ミルレオの存在を知っているのだろう。
「ああぅ」
女が声を発したが聞き取れない。
炎に見入っていたミルレオが振り向き一瞥した。
女は嬉しそうに水桶を炊事場に降ろすと、ミルレオの前にちょこんと座り頭を下げた。
ご苦労様でしたと言っているようだ。
「あう!」
ミルレオの肩に開きかけた傷を見つけたようだ、慌てて立ち上がり傷薬だろうか、瓶に入った軟膏のようなものを持ってきて傷口に塗り込む。
ミルレオは下をむいて、されるがままにしていた。
「うぃ」
反応が薄いミルレオの周りをクルクルと動き回りなにかと世話を焼きたがっている。
「ミロク」
ミルレオが初めて声を発し、手招きして焚き火の前に座らせると串焼きの肉を新たに串に刺して、今度は丁寧に焼いていく。
ミロクと呼ばれた女が桑の葉で淹れたお茶を、ふちが欠けたコップに入れて、いい焼き色がついた肉を二人で食した。
ミロクは嬉しそうに笑顔をミルレオに向けている、少しだけミルレオの頬も緩む。
「なあ、ミロク、お前はここにいることはないのだ、仲間の元へ帰れ」
「!」
嫌です、首を振る。
「俺といると危ないのだ、ここもいつ襲われるか分からん」
「それに俺は遅かれ早かれ昨今中に死ぬことになろう、ここで待っていても帰ってくるか分からない」
「いぃぃ」
嫌だと訴える口腔に舌がなかった、後天的なもの、オーガの仕打ちに違いなかった。
ミルレオの視線が哀しそうに炎に戻された。
ミロクが眉根を寄せた強い目で、ゴツゴツしたタコだらけのミルレオの巨大な手を強く握りしめて訴える。
( 絶対に出ていかない、死んではいけない )
生きることに無頓着なエルフでも、死線を潜ったことによる死生観の変化は起こるようだ、エルフらしからぬ強さが伺える。
ミロクはオーガの奴隷商人をミルレオが襲撃した時に偶然助けられたエルフだった。
既に舌はなく話すことは叶わなくなっていた、絶望した顔に蟻獅子ミウレオの懺悔の燭台に業火が迸った、ハルバートの旋風が巻き起こす機関砲のような斬撃が奴隷商人を刻み、辺りを血の海に変えた。
奴隷たちの前に立ったのは白く清い救世主や、快活な英雄でもない、黒い妖気を纏った蟻と獅子の混血の怪物ミルレオだった。
開放された奴隷エルフのほとんどは元の村を目指して散っていったが、ミロクだけは恐ろしい狂戦士の傍を離れなかった。
蟻獅子の甲冑を解いて、ミルレオからワンドロップのヘリオスへと戻りつつある。
甲冑とハルバートに纏わりつく血と怨念が妖気となりヘリオスをミルレオに変えている。
ミロクの存在がヘリオスを狂人から引き戻す。
狂ったまま戦いの中で死んだ方がどれほど楽だろう。
正気に戻れば、あの人を助けられなかった後悔が心を蝕み狂人の淵に近づいていく、発狂と覚醒の繰り返し。
あれほどの痛みと屈辱を間近で見ながら……もっと早く逃がしてやれれば。
悔やんでももう遥かに遅い、あの人は死んでしまった。
エルーに乗せたときの出血、深く射られた矢が背中から伸びていた、助かるはずがない。
一緒に死んでやれば良かった、近くで死ねばあの世まで手を引いてやれたかもしれない。
炎の揺らめきの中に哀しい奴隷王妃の顔が浮かぶ。
イシス・ペルセル 春の娘 冥界の王妃公妾
いつの間にかミロクが隣で肩に頭を乗せて寝息をたてている。
見下ろす寝顔にイシスの顔が重なる。
俺はまた繰り返すのか、この子も助けられずに放り出すのか自答する。
復讐と情の間でヘリオスの感情は翻弄されながら、やがて短い午睡の闇に溶けていった。
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