001-02. 始まりは春の錦

 

 翌日から、早速アイドルとしての活動が始まった。

 とは言え、現時点ではまだ事務所と契約しただけの一般人に過ぎないので、今日から専用プログラムを軸とした研修を実施することになるのだが……。

 そんなわけで、柘榴は今日も事務所へと赴いた。


「お、お疲れ様です」

「あ、ざくくん~! いらっしゃい~!」


 ジャージに着替えて指定されたダンススタジオに入れば、見知った姿が床に座って待ち構えていた。

 艶のあるピンクの髪に人懐っこい笑顔……昨日顔合わせをしたローザだ。


「学校終わってから来た感じ?」

「あっ、は、はい。柴田マネージャーにここに向かうように言われて……」

「うんうん。まずはダンスレッスンからなんだね」


 多分もうすぐ先生来るよ~、と言うローザは既にしっとりと汗をかいていて、手の中のペットボトルの水も残り僅かだ。


「あの……ろざさんはレッスン終わったところなんですか?」

「ん? ああ、そうそう。俺の後にざくくん来るって聞いたから、顔だけ見ておこうかなって思って残ってたの」

「え……」

「今日がレッスン初日でしょ? だから、緊張してないかなって」


 小首を傾げ、上目遣いで問いかけるローザ。

 その仕草はあざといと言うほかにないが、柔らかい表情と声音には、新人の柘榴を労わる気持ちが確かに滲んでいる。


「えっと……正直、緊張してます……」


 ローザの穏やかな受け答えに、柘榴の肩の力がほんの少し抜けた。


「ふふふ、そうだよね……俺も最初のレッスンの時緊張しちゃったもん」

「あ、そっか……ろざさんも、元はモデルさんですもんね」

「そうそう! トレーニングは経験あるけど、ダンスはからっきしだったんだよ~」


 未経験者で構わん。

 尾崎社長がそう言っていたのを思い出す。

 どうやら、このプロジェクトは本当に経験・経歴を問わず、社長が何かを見出したメンバーだけを集めているらしい。

 ……とは言え、その道のプロであるローザと、芸歴半年の自分を並べて語るのは烏滸がましいにも程があるけれど。


 ローザ・ノーストピアは、その道では有名なファッションモデルだ。

 十五歳で尾崎芸能のスカウトを受けてから七年、雑誌やファッションショーといったフィールドで活躍を見せている。


 思い返せば、芸能界に疎い柘榴であっても、その顔は雑誌で見覚えがあった。

 それにも関わらず、どうして昨日は気が付かなかったのかといえば……理由は、この圧倒的な美貌のせいだ。

 肩より少し上で切られたストロベリーブロンドの髪に、ぱっちり開いた空色のアーモンドアイ。

 細い手首、しなやかな体つき、艶やかで透明感のある白磁のような肌……そして何より、この蠱惑的な表情と仕草。

 誰が言ったか、その愛称は『妖精』。

 だからこそ、かつて雑誌の表紙を飾るローザの姿を流し見た柘榴は、彼を女性だと認識していたのだ。


 ……だって、最初見た時はレディースファッションの雑誌に載ってたから。

 ろざさんがメンズもレディースも着てるっていうこと自体、昨日調べてやっと知ったことだったし。


「……っと、そろそろお暇しようかな。夕飯の前にシャワー浴びたいし!」


 しばらくの雑談ののちに、ローザがトートバッグを手にして立ち上がる。

 「今夜はパスタ茹でようかな~」なんて呟く様子を見るに、本当に柘榴の顔を見るためだけに残っていたようだ。


「あ、あのっ」

「ん~?」

「あ、ありがとうございます……ちょっとだけ、気持ちが楽になりました」


 素直な感謝を述べ、ぺこりと頭を下げた。

 自分自身で選んだこととは言え、新たな挑戦をすることへの恐怖は間違いなく存在している。

 そんな柘榴の心に、ローザの心配りは温かく染み渡った。


「……んひひ、どういたしまして!」


 柘榴の感謝を受けたローザは一瞬ぽかんとして見せたが、その表情は瞬く間に無邪気な笑みへと変わっていく。

 蕾が花開くような可憐な光景に、柘榴はローザが妖精たる所以を見たのだった。




 ドのつく初心者に施された二時間のレッスンは、肉体が悲鳴を上げるのに充分すぎる試練だった。


「何事もまずは基本から」という原則に基づき、柘榴に課せられたのは基礎となるステップの習得……などではなく。

 プランク、クランチ、ランニング、そして適度なストレッチ。


 そう、筋トレである。


 今まで頑なにインドアを貫いてきた柘榴の体は、どうやら無駄な筋肉などという概念とは無縁とのことで。

 とにかく体力がない、持久力がない、加えて体幹は絶望的。

 柘榴の体と簡単な動きをチェックしたトレーナーからこんな酷評を受けた末、託されたのは明日からの自主トレメニュー。

 このメニューに基づき、まずは各種パフォーマンスに耐えられる体づくりをしていくのが当面の課題なのだという。

 ……加えて、これと同時進行で基礎レッスンも実施していくというのだから、正直なところ既に眩暈がしている。


 とは言え、何も四六時中鍛え続けろというわけではない。

 今日のレッスンはこれで終了し、シャワー休憩ののちにミーティング、そして終了次第、帰宅の予定となっている。

 柘榴は綺麗なシャワールームで汗を流し、乾かしたてでふわふわとした髪のまま、柴田マネージャーに指定された会議室へと向かっていた。


 シミひとつないカーペットを踏み締めて歩いていれば、廊下の先に柴田マネージャーの姿を見つける。

 もしかして待たせてしまったのでは、と不安になった柘榴は、反射的に早足で駆け寄ろうとして――


「……っ、どうしてだよ!」


 突如響き渡った大きな声に、びくりと体を竦ませた。

 よく見れば、柴田マネージャー以外にもう一人、誰かの姿がある。

 どうやら揉めているらしい二人の様子を見て、柘榴は思わず柱の陰に体を隠した。


「だから、来週末に話す機会設けるって蓮も言ってたじゃんか……!」

「そんなに待つ必要ないだろ! そう言ってこの間だって、話し合っても結論出なくて……!」

「あーもう! そんなに焦ったって仕方ねえだろ、衣織!」


 衣織。

 柴田マネージャーの口から出た名前に、柘榴ははっとする。

 それは、本来存在するはずの「四人目」の名前だった。


 柘榴は柱からそっと頭を出し、目の前の光景を観察する。


「……焦るに決まってるだろ」


 柴田マネージャーに窘められた彼――衣織は、苦しそうな声で呟いた。

 その背丈は柴田マネージャーよりも高く、昨日会ったニゲラと同じくらいだ。

 平均よりも大柄な部類に入るはずなのだが、その華奢さ――瘦せすぎているわけではなく、各所のするりとした曲線美によってそう思わされるのだ――の影響で、小柄な柴田マネージャーと並んでも決して威圧感や圧迫感は感じない。


 しかし、柘榴にとって一番引っかかるのは、そこではなく。

 深い夜空のような美しい黒髪が、包み隠すかのように顔を覆っている様だった。


「……とりあえず、そろそろ別のミーティングだからさ。明日なら時間取れるから、少し話そうぜ」


 柴田マネージャーにぽんぽんと肩を叩かれ、衣織がこくんと頷く。

 その様子に納得したのか、優しく微笑んだ柴田マネージャーは踵を返し――


「……あっ」


 ちょうど柱から顔を出していた柘榴と、視線がぶつかった。

 ついでに、柴田マネージャーが上げた声を訝しんだ衣織がこっちを向いたことで、柘榴の存在はその場の全員に認知されることとなった。


「あー、うん……ちゃんとミーティングに間に合ったんだな、うん、良かった!」


 しばしの沈黙の後、柴田マネージャーが場を取り持とうとして明るく声を上げる。

 この気まずさはどう足掻いたって拭えないのだから、空元気を出さなくても……とは口が裂けても言えない。

 柘榴は観念して、一歩横に出て全身を露わにした。


「えっと、衣織。彼は――」

「……分かってる。紫乃しのの後継、だろ」


 衣織が柴田マネージャーの言葉を遮る。

 紫乃――それが、昨日ローザが話していた脱退メンバーの名前であることは、その口ぶりからして確定的だった。


「……鈴鹿柘榴です、よろしくお願いします」


 柘榴は静かに名乗り、深く頭を下げる。

 衣織の声音と言葉から、自分が手放しで歓迎される立場でないことは容易に察せられた。


「……橄欖坂かんらんざか衣織です」


 柘榴に名乗られた手前を考えてのことか、衣織が名乗りと会釈を返す。

 ぺこりと頭が下がった拍子に、柘榴は一瞬だけその顔を拝むことができた。


 すっと通った鼻筋に、少し吊り気味の涼やかな目。

 この状況のせいだろうか、口元はきゅっと引き締められてお世辞にも和やかではない。

 そして何より目を引くのが、その右頬の大部分を覆うように、真っ白なガーゼが当てられていることだ。

 先程から気になっていた鬱陶しそうな前髪は、恐らくこれを隠すためのものなのだろう。


 ちょっと事故があって、とローザは言っていた。

 詳細を知らないので断言はできないが、そのガーゼが一連の問題に深く関わっていることは部外者の柘榴でも何となく分かった。


「……俺、帰ります。さっきはすみませんでした」


 衣織は柘榴からさっと顔を逸らし、柴田マネージャーに告げる。

 そして、次に誰かの言葉が発されるよりも先に、早足で柘榴の横を通り抜けて去っていってしまった。


「……あの、柴田マネージャー」

「ん?」


 衣織の背中が見えなくなってから、柘榴は柴田マネージャーに問いかける。


「俺、嫌われちゃった感じでしょうか……?」


 その問いに言葉が返されることはなく、二人分の乾いた笑いだけが廊下に寂しく響き渡った。

 

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