第2話 主水との対話

判事の控室に近づくその一挙手一投足が、心拍数と比例してモネの緊張感を高めていった気がする。


ドアを三度…そう、日本ではそう推奨されている回数ぶん、ノックするモネ。


「どうぞ」


改めて顔を拝見すると、早乙女主水がいわゆるイケメンであるということがよくわかった。とてもあと三か月後に死ぬと言い渡された癌患者とは思えない初々しい男性は、かけていた眼鏡を左手の人差し指で調整した。


そして開口一番、


「ねぇ、モネ君。裁判官になってみないか。ロスでは大変大きな事件にも関わったと聞いているよ」


「ああ、あれは大したものじゃないですよ、ハンコを押した…いえ、署名しただけみたいなものですから」


「だが裁判官は、どこに何をサインすべきかわかってなくちゃならない。その選択が出来たのは他でもない、法律家の君なんだよ、モネ君」


顔を赤らめながら頬を指で掻くモネ。


「知っての通り、日本では司法試験は18にならないと受けられない。だが、もうあれ六法全書は全部頭に叩き込めているんだろう? じゃあ問題ない」


「一応覚えました…けど……」


「事例は次から次へと出てくる。記憶力だけで生きていられる世界ではないんだよ」


「でも、私も年齢が…それに、先生の余命も」


「そこは私からのパーソナル・サービスってやつよ。君が17になったら裁判官と名乗れるように御膳立てをしてある。超法規的措置ってやつだね」


「えっ」


「どうして17なんだ、って顔をしているね。ふふ、私の娘が虹の橋を渡って行った年なんだよ。娘はとても賢かった。それに、顔も声も、君は彼女に瓜二つだ。彼女の命日に、君が裁判官になる日を合わせてあげるのが、私にできる最後の孝行かと思ってね」


「…え……似て…ますか………?」


感極まったのか、早乙女は眼鏡を物凄い勢いで取り去り、嗚咽を漏らして男泣きに泣き始めた。大声で泣くもんだから、モネは思わず声が廊下にまで響いていないかという心配をしたほどである。


「これから、私の担当する裁判ではつねに傍に居てもらう。発言したり書類をどうこうしたりする必要はない。ただ、そこに居てくれればいい」


「…見て盗め、ということですか」


一転、大笑いを始める早乙女。


「うっフフフ、バレてしまったか! こりゃあ愉快だ」


メガネを戻し、


「そう、君には裁判の時間には現場で『目視』による見分を行ってもらう。言うなれば傍聴席の一員みたいな位置づけ、ただそれがであるだけだ。そのほかの処務は君に全般的に任せよう。何、学校にも毎日行けるし、宿題をする時間もたっぷり割けるよう配慮するつもりだ。無論、お友達と遊ぶ時間もね」


つまるところ、彼はモネに惚れてしまったのである。

それから、『訓練』がはじまった。日本の司法制度のいろはの再チェックにはじまり、裁判官としてのイレギュラーな判例へのレスポンド方などの修練。早乙女が亡くなる直前まで、それは続けられた。実務の空き時間に、二人してメキシコ料理を食べに行くのが良い息抜きとなっていた。


☆☆☆


それから三ヶ月が経ち、早乙女は医師の宣告通りに旅立った。

その死に際の言葉は、こうだった。


「君はもう…一人前の……裁判官だ……」


モネは泣いた。

主水以上に彼女を愛してくれた人はいなかった。


☆☆☆


八月十二日、お天道様が一番元気な頃。

蝉以外に何も聞こえない、そんな昼下がり。

今日は先生の月命日でもあり、娘さんの亡くなった日でもある。


墓標を前にして、モネは一人、桶と柄杓、花を持って居た。

そして、おもむろに水を墓に供える。


(先生、お暑いでしょうに)


そして、静かに口にした。


「あたしは、裁判官に、なる」


桶と柄杓を地面に置く。


目を閉じ、開いた掌を天に上げた。近くで猫がにゃあと鳴くのが聴こえた。


モネは大声で叫んだ。恰好はそのままで、


「あたし、裁判官になるでぇ!」


と。


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