禁じられたいのち-7
「……つまりお前らはヨモツ……いや、オトギ先生を脅してマクガーフィンを酔い潰した後、契約書を書き換えさせたってのか」
薄ぼんやりと灯ったランプを背に、ニワサメは冷たい声で言った。
風俗営業店連なる赤線地帯の一つ『鷹の街』に訪れたいつもの夜。
短い丈のドレスを着た若い女が通りを歩く男達に声を掛けて歩み寄り、路地裏では同衾目当ての初老の男が、匂いの強い煙草をふかす若い娼婦と声をひそめて話し合う。
退廃と猥雑が混ざって燻る桃色の空気からは、通りを何本も裏に入っても、空家の窓を幾ら閉め切っていても逃れられない。いつの時代も、いかなる場所であっても、この手の街は共通のニオイで覆われるものなのだ。
保健調査員のニワサメは、この界隈に漂う独特な雑味を紛らわそうと、瓶ビールをあおった。
時間が経ち、炭酸の抜けた温いビールの苦味が喉を下っていく感覚に顔をしかめながら、彼は椅子に座らせた大柄な老人を睨み下ろした。
椅子の背もたれに後ろ手を縛られたその老人は、口から垂れ溢れる血をシルクの柄シャツに吸わせながら、ぜえぜえ肩で息をしていた。頭の白髪は汗と水でずぶ濡れ、痣と傷にまみれた四角顔には脂汗が滲んで、肌を伝う汗が傷に染みる度にひくつかせる。
「くたばりやがれ!」
老人はモゴモゴ血濡れた口を動かして言い返す。既に口周りに生やしていた白い口ひげも余す所なく血を被り、塗れぼそっていた。
「……お宅のオヤジさんはとても優秀だ。自分から決して口を割ろうとしない。さすがはトンビ一家の総長、覚悟が決まってら」
ニワサメは柔らかい口調で言い、今度は後ろを向いた。老人と丁度向かい合うように、痩せぎすの若者が同じく縛られた状態で座らされていた。身につけている半袖シャツもズボンも上物だったが、殴られて溢した血や、失禁のせいでどちらも台無しになってしまっていた。
「こうなったら、息子さんにもう少し協力してもらう必要があるな」
途端に総長の息子は髭も生えていない縦長の顔を死人のように青白くさせた。
「な、なんだよ。オレは話したぞ!? 雨雀に忍び込んで、マクガーフィンの情婦を脅して、あの野郎を酔いつぶして……」
ガチガチ歯を震わせながら話していると、まるで話を遮るように、ニワサメが瓶を床に叩きつけた。
床の上で無数の破片を飛び散らして割れるビール瓶。総長の息子が「ひぃっ!」と、乙女のような悲鳴をあげる中、ニワサメは床に落ちた大きめの破片を手に取り、歩み寄り始めた。
「同じことを二度話せと言ったか? 違う、選手交代だ」
ニワサメは薄口の顔にいつもの柔和な笑みを貼り付けたまま、息子の口内にガラス片を押し入れた。口の端ギリギリまで達する尖った先端。少しでも動けば肉は容易に裂けるだろう。
口を開け広げながら、大粒の涙をこぼす息子。対面する父親は顔を真っ青にして怒鳴る。
「テメエ! それ以上やってみろ。何度でも殺す! 貴様の家族諸共、木っ端微塵のひき肉にしてやるぅ!」
これから息子が味わうであろう痛みを先に体験しているだけに、父の言葉には鬼気迫るものがあった。
血の泡をぶくぶく吐き、物騒な呪詛を並べ続ける総長に、ニワサメは涼しい顔で振り返る。
「それはお宅次第だ、総長さん。息子を助けたいのなら、分かっているだろう?」
ニワサメはそこまで言うと、半身になって片脚を振り上げた。尖った革靴の先が総長の息子の頬へ差し迫る。
「わ、わかった。話す……話す!」
総長が叫ぶと、ニワサメの足が顔のすぐ真横でピタリと止まる。
そしてニワサメの足が降りると、総長はおっかなびっくり言葉を紡いだ。
「マクガーフィンは……あのクソ野郎が『貸している重機を全て引き上げさせろ』と、急に言い出しやがった。近ごろ川で続いている事故で、奴から借りた機械は軒並みぶっ壊されたからな。だが返しちまったら仕事は止まっちまう」
総長が言うには、マクガーフィンは駐留軍基地のはみ出し者達まで寄越して、作業の妨害までして来たそうだ。
「それでマクガーフィンを事故に見せかけて殺したのか。保険金詐欺もついでに企てて?」
「ち、違う! いや、それもそのつもりだったが……」
総長の歯切れが悪くなる。黙って続きを待ちながら、ニワサメが息子を一瞥する。無言の圧力を察した総長が慌てて口を開いた。
「始末するのはまだ先の話だった。オレ達のシマの外、それこそ山奥でバラして埋めるつもりだったのに、あの事故が起きちまった。本当なんだ!」
(全く偶然のタイミングで、マクガーフィンは船の事故で死んでしまったのか)
嘘を言っている風には見えないと、ニワサメは判断した。想定外の早さで標的が死に、そして露見したという事になる。
ニワサメはため息をつくと、愛用のソフト帽を頭に被せた。
この親子に用は無くなった。あとはオトギ先生を確保しなければ。
彼が出立しようと動き出したその時、俯いていた総長が突然笑い出した。
訝しむニワサメは、総長の顎を掴んで顔を上げさせた。
先ほどまで余裕を失い、散々喚いていた男が、ニヤリと笑顔を浮かべている。
それは勝利を確信した笑いだった。
……
「ふむん。シキ君はオトギ先生と合流できたか。まずは良かった」
ジャギュアの車載無線機を使い、マキナは屋敷との通信を行っていた。
〈雨雀という名前のカフェーから電話を入れてくれました。支配人マダム・ヒバリが経営するこの店は、赤線地帯の駆け込み寺のような場所だとか。ひとまずシキ様の安全は確保されたとみてよろしいでしょう〉
車載無線機のスピーカーからフルミの嬉しそうな声が返ってくる。
〈しかし、本当によろしいのですかお嬢様。ここはシキ様と合流した方が、お互いの安全の為になると思われますが〉
「逆だよ、フルミ。今のシキ君はオトギ先生を第一に守らなければならない。そこに僕の護衛まで任せたら、彼女は動き辛くなる。なぁに、こっちはこっちで上手くやるさ」
トンビ一家の追跡から逃れたマキナもまた、別行動をとっていた。
シキが重要人物であるオトギ先生と接触しているのなら、自分は別の角度から……つまり被害者のマクガーフィンが命を落とす原因となった、魑魅川の事故を探ってみようと考えたのだ。
「それでフルミ。指示された場所に来てみたが、肝心の助っ人とやらの姿が見えないぞ」
マキナが待機しているのは、赤線地帯の手前にある工事現場であった。
とっくに夜もふけたいま、水辺の作業場に重機はおろか人の姿さえも見られなかった。
(それはそれで好都合だが……)
マキナはここでフルミが派遣した「打ってつけの案内人」と落ちあい、調査をする手筈になっていた。
しかし待ち人が来る気配は全くない。
土手に住まう季節の虫たちが謳い、赤線地帯から聞こえてくる享楽の音が夜風に乗って運ばれてくる。
一方のマキナはジャギュアのエンジンを切り、魑魅川の静かな水面をぼんやり見て待っていた。
〈いま少しお待ち下さいませ。何しろ急いでいるとはいえ、ウマノ沢の駐屯地から向かっておるのですから〉
フルミの回答にマキナは目を瞬かせる。
「おいおい。駐屯地ってまさか……」
話を遮るように重く低いエンジン音が聞こえてきた。窓の外へ目を向けると煌々と輝く丸い灯りが一つ、こちらへ向かって来ていた。
車外へ降りたマキナのもとへ灯りが近づく。その正体は一台のオートバイだった。
ドロドロとくぐもった重低音を響かせるエンジンはV型2気筒の空冷仕様、深緑色の大きなボディに舟形の側車を横に備えた「97式獅子王」である。
マキナは腕を組み、鉄馬に跨る男に呆れた視線を送った。
「これはどういう事だい、父さん?」
娘の前でバイクを停止させたサエグス・セイタロウは、毛皮の飛行帽とゴーグルを取って笑んでみせた。
「どうもこうもない、助っ人の登場だ」
バイクから降りたセイタロウは、防衛隊の制服ではなく、それこそ飛行機乗りめいたジャンパーに綿ズボン、そして革のブーツという出立ちだった。日中であれば奇抜この上ない格好だったであろう。
しかし生来より持ち合わせていた西洋人じみた精悍かつ濃ゆい顔に、均整の取れた体つきの効果で、奇跡的に「キザな銀幕男優」然とした雰囲気で留まっていた。
……それはさておき。
「こんな所に居るのを人に見られたら不味いんじゃあないのかい、父さん?」
マキナは心底白けた顔で父に問う。
「案ずるな。ここに居るのは大げさな階級を着た軍人ではない。娘の探検ごっこに付き合う、只の父親さ」
胡乱な目で見てくる娘に、父親は胸を叩いて自信満々に答える。仮にシキがここに居れば「やはり親子ですね」と言っていたであろう。しかし、それを認めたくない娘は冷たい視線を父へと向ける。対する父親はキザな笑みを交えてこう言った。
「未開の迷宮に勇んで探検へと向かう。しかも親娘水入らずで。何とも浪漫じゃあないか。お父さんは嬉しいなぁ!」
(また『浪漫』か、この人は……)
マキナは呆れたようにため息をつく。
一に浪漫、二に浪漫、三四も浪漫で五に浪漫……何かにつけて浪漫などと形容しては、荒唐無稽な思いつきで周囲を振り回す。それがサエグス・セイタロウという人間の本性なのであった。
しかし、そんな健康優良浪漫中年も、時と場合は弁えるだけの分別を持ち合わせていた。彼はふっと真面目な面持ちを作り、娘に対して冷静に言うのだった。
「それに君たちが調べようとしているこの騒動、私も無関係とは言えないんだ」
……
「……戦争が始まって間もない頃、この一帯の地下を掘って野戦病院を建てる計画があった。本土空襲に備えた非常用の施設だな。しかし計画は建設途中で中止、放棄された建設途中の施設は軍のある部隊が譲り受けて、改修工事を行った」
工事現場の横穴から地下水路へ侵入を図ったサエグス親子は、濡れたコンクリートの細道を歩きながら、先の見えない暗闇を進んだ。
先頭を歩くセイタロウは懐中電灯で正面を照らし、もう片方の手には持参した地図を握りしめている。そんな父の背中に、娘は静かに声をかけた。
「Z機関。かつて、父さんが責任者をしていた、あの……」
元Z機関機関長サエグス・セイタロウは、何も答えず、ひたすら前進を続ける。
「だとすれば解せないね。父さんやフルミたち、それに僕も、Z機関に関わった者たちは皆、南方の秘密基地に居た筈だよ」
ぴちゃり、ぴちゃりと天井から染み出した雫が水路へ落ちる中、セイタロウは声を低くして説明を始めた。
「正確には改修して直ぐに譲り渡したんだ。我々もゴウライオーの開発に注力しなければならなくなったからね。譲渡先は皇都帝國大学で遺伝学を教えていた、チシキノ博士の研究室」
ここでマキナがはっとした顔をする。
「チシキノ博士。つまりオトギ先生のお父上はね、軍の研究に協力していたんだ」
不意にセイタロウが足を止めた。マキナは体を傾けて、父の背中越しから前を覗く。
立ちはだかるのは変哲もない錆びた鉄の壁。その表面には、月日の経過を形容するように苔藻がみっしり生えていた。
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