禁じられたいのち-6


 しばらく後。

「いやあ。すげえもんを見ちまったよお!」

 豆腐屋の店主が興奮気味に捲し立てる。

「デカい姉ちゃんがな、トンビ一家のゴロツキ共を、千切っては投げ、投げては千切っての大暴れ!」

 マキナとニワサメは揃って怪訝な面持ちで後ろを向いた。


 季節外れの陽気を浴びた熱い道路上には、『トンビ一家』なるゴロツキどもが倒れていた。


 飛び出していったシキを探すため、下町を探し回っていたマキナとニワサメ。やがて二人は「女の子がギャングどもと喧嘩している」という噂を耳にして、その現場に駆けつけた。

 しかし、既に喧嘩は幕を引き、当事者であるシキは、居合わせた女を連れて逃げてしまったのだという。


「あのシキちゃんが、ねえ?」

 ニワサメが困惑混じりに呟く。

 変人のお目付役だ。使用人もさぞ常識はずれな面があるのだろう……そう思っていたらコレだ。

 気を取り直してニワサメは質問を重ねる。

「お父さん。アンタさっき、トンビ一家と言ったな?」

「間違いねえ、逃げて行った連中の中に一家の若頭がいた。指の骨がぜんぶ折れて、ガキみてえに泣き喚いてやがった。ざまあみろ、だ」

 豆腐屋の返答に、ニワサメはますます表情を曇らせた。


「サエグス・マキナ。コイツは厄介な事になって……おい?」

 振り向いてみると、マキナは倒れている工員風の男の横にしゃがみ、さも当然のように懐を漁っていた。


「惜しかったなあ。もう少し早かったらシキくんの八面六臂の大活躍を拝めていたのに。お、コレは上物じゃあないか」

 澄まし顔のマキナが取り上げたのは、見るからに高級そうな銀の腕時計。それから出てきた財布の中身も、紙幣が詰まっていた。


「身なりの割に持ち物は高級品ばかり」

 男の作業着は煤だらけ。白目を剥いて昏倒している顔にも機械油がついていた。

「こいつらはトンビ一家。この辺りで幅を利かせているギャングどもだ。近ごろは魑魅川沿いのあちこちでやっている再開発がらみの仕事で、こういう下っ端まで羽振りが良い」

 ニワサメが渋い表情で説明する。


「シキちゃんは面倒な連中を相手にしちまった。こういう看板で飯を食ってる手合いがコケにされたらどうでるか、お前だって知らない訳じゃないだろう」

「出るも何も、コイツらの仲間は既に動いている。血眼になってシキくんを追いかけている筈だ。それに、この人のことも」


 立ち上がったマキナが一枚の写真を渡す。写っているのは複数人の若い美女たち。柄付きの着物に洋風のエプロンを身につけ、丸テーブルを囲んでいる。撮影者は足場に登って、やや上から見下ろすように撮っており、彼女たちは艶やかな笑みや、緊張しているような硬い顔で見上げていた。


 写真の持ち主は、その中の一人に印をつけていた。顔の造りは悪くなく、頑張って笑おうとしているつもりが、眉を八の字に歪めて困ったような苦笑いになっている。


「あっ」

 ニワサメが目を見開く様を見て、マキナは肩を竦める。

「その反応……ふむん、この人がオトギ先生なんだね。でもどうしてギャングに追われているんだろうねえ。コイツは僕の想像だが……おっと」

 マキナの言葉が途中で途切れる。訝しんだニワサメが彼女の見ている方角へ視線を向けた。


 半袖の柄シャツを着た老人に率いられた、労働者風の輩やらの大群が、橋のふもとに集まっていた。

 ステゴロもいればツルハシに工具に角材、その他雑多な武器になりそうな道具を握り、出番を今かいまかと待ち構えている。


「これはコレは、親分さん! それに若さんまで」

 集団の最先頭に立つ柄シャツの老人のもとに、豆腐屋の店主が揉み手で近付いていく。


「実に商売上手だ、資本主義者とはああでなければ」

 男どもの敵意に満ちた視線がギロリと注ぐなか、マキナは不敵に微笑んでみせる。ニワサメも、もじゃもじゃ頭をかいて舌打ち。


「トンビ一家の総長自ら陣頭指揮か」

 逃げる態勢に入った二人は、打ち合わせをしていないにも関わらず、つま先は別の方角へと向かっていた。


「つまり」

「ここは」

 二人は共に頷き、

「逃げるんだよおぉ!」

 同時に駆けた。これを皮切りに男ども……トンビ一家も、鬨の声をあげて走り出した。


 ……


「なんでこっちにだけ、クソほど押し寄せて来ているんだよお!?」

 下町のバラック住居連なる裏通りを全力疾走しながら、ニワサメが吠える。

 二手に分かれた分、人数が分散してくれていれば逃げようがあった。

 しかし、己が背中に迫る輩どもは全体の七割強。明らかにニワサメを優先的に狙っていた。

 如何にしてこの場を切り抜けようか算段組み立ていた所に、馬の嘶きよりよく通る轟音が耳に飛び込んだ。


 どかん。


 目前のバラック小屋を突き破る一台のスポーツカー。深緑色の流線型のボディがニワサメの眼前を横切り、音を置き去りにして砂地を疾駆していく。

 その瞬間的な時間で、運転席から銀幕俳優よろしく、キザなウインクを送るマキナの姿が、ニワサメの視界に映った。


「この……」

 彼方へと走り去るマキナと、彼女がハンドルを握るジャギュア。

 その後ろ姿に向かってニワサメは怒号をぶつけた。

「この……クソッタレがあぁ!」


 ………


 一方その頃。

「あの。ここなら大丈夫なんですね?」

 シキは呼吸を整えた上で尋ねる。

「ええ。この店は中立地帯。トンビ一家の奴らだって迂闊には手出しできないの」

 妙齢の女は煙草をガラスの灰皿に押し付け、火を消した。

 紅色ドレスは、真っ白な肩やら豊満な胸の深い谷間まで露わになるほどの派手な造りであった。


「だからサ……早いトコそいつを下ろしたら、お嬢さん」

 シキは頭上高く持ち上げていた三人用の豪奢なソファを、そっと床に下ろした。妙齢女はクスリと笑い、隣に座っていたオトギは目を白黒させている。


 シキは小さくため息をつくと、あらためて紅色を基調とした部屋を見渡した。置かれている家具や調度品は、どれも異国情緒に溢れた高価な輸入品ばかり。サエグス家の屋敷でさえも、ここまでの高級品は置かれていない。


「それにしてもすごい力ねえ、お嬢さん。店のボーイ連中が玉汗垂らして運ぶようなものを軽々と持ち上げちゃって」

 女はハリのある低い声で愉快そうに言いながら、シキのもとへと歩み寄ってくる。


 化粧で仕上げた上品な顔から、頭の後ろで結えた黒髪の色艶、そして優雅な歩き方まで何一つ隙がない。

 長い年月を掛けて円熟させた美は、ぞっとするほど艶やかな毒花のようだった。


「是非ともウチで働いて欲しいねえ。用心棒兼女給? ううん、こんなにそそる若々しい娘なら、表に出すよりワタシ一人で独占したいわねえ」

 長いまつ毛の下で濡れた瞳が妖しく光る。

「え、ええと。ごめんなさい、あたしは……」

 女は戸惑うシキの瑞々しい唇に扇子の先を近づけて黙らせた。

「冗談よ。その気がない子を無理に引き込んだとなれば、雨雀の看板どころか、このヒバリ様の名前にも傷がついちまう」


 カフェー『雨雀』の女支配人、マダム・ヒバリは、悪戯っ子のようにウインクをしてみせた。

 トンビ一家からの追跡を逃れる内に、シキは魑魅川の上流にある鷹の街に入ってしまった。

 この一帯は戦前から続く遊郭やカフェーなどの風俗営業店が連なる区画……俗にいう赤線地帯の一つであった。


 慌てて引き返そうとしたシキだったが、ここでオトギが震える声で提案してきたのであった。

「私の働いているお店、雨雀というカフェーなら匿ってくれるかも」


 こうして二人は雨雀に駆け込んだのであった。

「あらためて御礼を言わせて頂戴。うちのヨモツを……ううん、オトギちゃんを助けてくれて有難う」

 ヒバリは丁寧な態度で礼を述べる。オトギもまた気付け代わりのウヰスキーを脇のテーブルに置いて、深々と頭を下げた。


「た、助けたというよりアレは成り行きで……ううん、それよりも先生」

 シキは不安に満ちた顔でオトギに尋ねた。

「先生の周りで何が起きているんです?」


 オトギは暗い顔で俯き、両手をきゅっと握りしめる。

「これ以上、貴女を巻きこむことはできません。め、迷惑をかけたくないの。あなたにだけは絶対に」


「何を仰るんですか、先生。あたしはもうとっくに充分巻き込まれています。だったら首までどっぷり浸かってやりますとも!」

 胸を叩いて強気に言うシキ。ヒバリは扇子で口を覆いながら、クスクス笑う。


「威勢の良い王子サマだこと。これはもう観念するしかないわよ、?」

 オトギはシキとヒバリを交互に見回した後、困ったような、苦しいような、只管悲痛そうな表情を作るのであった。


 ……


「戦争が終わった後も、私は留学先で暮らしていたの。終戦直前に起きたあの大界震で、父と妹は行方不明に、親戚たちもみんな死んだと聞いていたから」

 オトギはそこまで言うと、すぅっと静かにグラスに口をつける。気付け代わりのウヰスキーが、小さな口の中に入っていく中、今度はマダム・ヒバリが口火を切った。


「この子はそんなこんなで十数年も外国で暮らしていたんだけれど、二年前に戻ってきたの。行方不明だったお父さんが、鷹の街で見つかってね」


 シキは二人の沈んだ顔を見て察した。

「あまり嬉しい報せでもなかった?」

「そう。お父さんは雨雀の店前で行き倒れてたのさね。ボロボロの服に骸骨みたいに痩せ細った姿。見ちゃいらんないから、アタシが知り合いの医者のトコに運んで、成り行きで看取ったの」

 そこまで言うと、ヒバリは血のように艶かしい厚い唇に紙煙草を咥えて火をつけた。


「ヒバリ先生のお父さんはこと切れる前、うわごとのように、オトギ先生の名前を口にしていたわ。だからアタシは、娘さんは今探している所だと伝えてあげた。そうしたら……」

 マダム・ヒバリは煙草の紫煙を不味そうに吐いて言った。


『ヨモツ。喜べ、姉さんが帰ってくるぞ』


「あの人は笑ってそう言うと、そのまま息を引き取ったわ」

「え?」シキは微かに声をあげた。


 対面して座るマダムたちは、口を閉ざして互いに黙り込む。

「さっきの話だとオトギ先生の妹さんは」

「行方不明。でもお父さんが最近まで生きていたのよ。だから妹さんもひょっとしたらと思うじゃない。戦争や大界震の混乱で死んだとされていた人が実は生きていて、最近ようやく再会できた、なんて話も珍しくないんだし」マダムが静かに言う。


「妹は病のせいで、ずっと寝たきりの生活を送っていたわ。だから大界震を生き伸びていても、既に亡くなっているかもしれない。だとしても……可能性がほんの僅かでもあるのなら、賭けてみたいと思いたくなるでしょう。それがたった一人だけ残った家族であれば、尚更」

 シキは何も答えられず、黙って成り行きを見守ることしかできなかった。


「オトギ先生はね、待っているだけじゃあ嫌だと昼間は教師をやりながら、夜はウチの女給にまでなって、客や地元の人間たちにも尋ねてまわった……妹さんの名前であるヨモツを名乗ってね」

 源氏名にも理由があったのか。シキは俯くオトギに顔を向けた。


「ヨモツの名前を名乗って動けば、関わりのあった人にも会えるかもって、そう思って。でも上手くいかなった。この二年間は手掛かり無し、学園にも夜の仕事がバレて、クビにされてしまうし」

 しおしおと目に見えて生気が抜けていくオトギ。マダムも煙草を灰皿で潰し、ため息混じりに煙を吐く。


「トンビ一家のシノギにも利用されちまうしねえ……」


 シキは太い眉をひそめて問う。

「もしかしてそれって保険金の?」

 生徒の発言に、オトギは口を閉ざしたままウヰスキー瓶を取り、手酌で空のグラスに並々と注いだ。


「せ、先生?」

 オロオロ狼狽えるシキの事さえ無視して、オトギは殆どひと息で飲み干してしまう。

 絶句するシキと、曇り顔で追加の煙草を咥えるマダム。


「きっとこのまま、私は警察に捕まるんだわ。ヨモツに会う前に……うぅ……」

 オトギは真っ白い手で顔を覆い隠すと、しくしく嗚咽を漏らしだした。


 マダムは不味そうにタバコの煙を吐いて、こう言った。

「オトギ先生はね、トンビ一家に脅されて、詐欺の片棒を担がされたんだ」

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