禁じられたいのち-4
「なあ、おい。そろそろ引揚げようぜ」
泥だらけのタンクトップを着た若い作業員が面倒臭そうに言う。
「オイラだって早えトコ切り上げて帰りてぇさ。でもよお、下の連中が戻ってこねぇ限り、ここから離れらんねぇ」
投光器で水路の入口を照らしながら、髭面の同僚も億劫そうに返す。二人は魑魅川の流域で行われている配管工事に携わる日雇の作業員達だった。
魑魅川の周辺では連日に渡って凡ゆる再開発工事が行われている。
特に上流側は、戦後長らく放置されていた地下水路が再び使えるよう、大掛かりな復旧作業が進められていた。今日も日が暮れてずいぶん経つというのに、日々の遅れを取り戻さんと灯りまで点けて作業が続けられていた。
「聞いたか。俺たちが手を入れている地下水路、大界震でほとんどの出入り口が塞がって、ずっと入れなかったらしいじゃんか」
髭面男が思い出したように話題を振る。
「興味ねえよ、早く帰ろうよ。俺ぇ今日は赤線の方で呑みてえんだよお」
「まあ聞けって。実は水路は完全に閉ざされたワケじゃなくて、たった一つだけ、秘密の入り口が隠されてたそうな。んでよ、戦争が終わっても、軍隊がこっそり出入りしてたんだとさ」
「軍隊だあ?」
作業員達は機械油で汚れた顔を見合わせた。
「まあ聞けって。どうせ暇なんだし」
対岸にある赤線地帯の賑わいまでもが朧げに聞こえるほど静かな夜に、髭面のしゃがれた声がよく響いた。
「水路には陸軍の秘密基地があって、戦争の間はそこでヤベェ実験してたんだって。んでよ、軍隊はもう一回戦争起こすために、夜な夜な秘密基地で実験を続けて……」
「アホ臭えこと抜かすなや。誰がンなしょうもないホラ話を吹いてんのよ」
「赤線で物乞いやってるジジイ」
「やっぱりしょうもねぇ出鱈目だ!」
留守番組の二人がわいわい騒いでいる所に、ヒュロロロロオ……という、壊れた笛の音のような奇怪かつ甲高い音が響いてきた。
作業員達は会話を止めてまた顔を見合わせた。
「なんだいまの」
「さあ?
「どっから聞こえてきた?」
「水路の……中かな」
二人は投光器の光量を増やすと、水路の奥へ目を凝らした。すると奥の暗がりから、バシャバシャ音を立てて駆けてくる仲間達の影が見えてきた。
「た、助けてくれえぇ!」
「化け物だ。化け物がいるぞおぉ!」
続々と出入り口から外の砂浜へ飛び出す仲間達に、留守番組の作業員両名はポカンと呆ける。
「けけ、警察! 警察だ。誰か、警察……いや、防衛隊を呼んでくれえ!」
作業員の一人がズボンをぐっしょり濡らしながら、叫び散らす。
「落ち着け。何があった?」
などと尋ねている傍らで、一艘のランチが魑魅川をゆっくり下っていた。水路から逃げてきた年少の作業員が、そのランチを目に留めるや、急に顔を真っ青にしだした。
彼は半ば這うように水辺まで近づくと、ランチに向かって声を張り上げだす。
「逃げろお! こっちに来ちゃいかん、引き返せえ!」
「バカ。何してんだ、おい!?」
髭面が慌てて仲間の体を羽交い締めにする。気でも狂ったのかと仰天している間も、その年少の作業員は必死に呼びかけ続けた。
「水の中は危ねぇんだ! あいつは……あいつは……」
その時である。航行中だったランチが突然水面から浮いた。そして宙を舞ったまま、バキバキ音を立てて壊れ始めた。
街灯の灯りさえ届かぬ川の中央部で何かが起きている。髭面は仲間の拘束を解くや、反射的に投光器に飛びついて、向きを変えた。
一条の光がランチを照らす。途端に作業員達は言葉にならない声をあげて怯え慄きだした。
光の下に曝け出された木製の船体には植物の蔓にも似た、青くて太い触手がびっしりと絡み付いていたのだ。
そして彼らの目の前で、ランチは蔦に引きずられて魑魅川の暗い水中へと沈んでいった。
(夢でも見ているのか?)
一部始終を見届けた髭面は、顔面を蒼白にして肩で荒い呼吸をする。そんな彼の耳に、再びあの笛の音が聞こえてきた。
今度はハッキリとわかった。笛のような音は自分たちの背後にある水路の出入口から聞こえてきた。それも、すぐ近くで。
おそるおそる振り返った髭面は、暗闇の中に潜む「それ」を見るや、顔をぐしゃぐしゃに歪めて絶叫する。だがその声は、例の笛のような音によって上書きされた。
ヒュロロロロオォォ……。
……
『またもや船舶事故、乗員三名の安否不明』
『相次ぐ作業員達の失踪。治安警察、特別捜査本部を設置す』
『魑魅川に妖怪出現か!?』
『河川沿いを次々襲撃 住民に広がる恐怖』
「物騒な事件だぁねえ」
今朝の新聞を横目に、えんじ色の浴衣を着たマキナが寝ぼけた声で呟く。
帯は締め具合が適当すぎたせいで緩んでおり、オリーブ色の撫で肩まで見えてしまっていた。
「しかし妖怪とはね。ゴウライオーも鬼扱いだし……どうしてアキヅの人間は、昔っから何でもかんでも、不思議なことは妖のせいにしたがる」
などとブツブツ呟くマキナは、寝癖はそのまま、応接室のソファの上にあぐらをかいて座り、ガラステーブルに並べた朝食をもそもそも食べ進めていた。
麦飯に水菜と浅利の味噌汁、きゅうりの浅漬け、それにネギ味噌を塗って炙った焼き豆腐。
これらの料理を用意してくれた使用人のシキは、朝から学校に行っている。
午後半休……いわゆる半ドンの土曜日であり、マキナの事務所があるD坂周辺でも、平日のように慌ただしく行き交う人々の姿がちらほら見られた。
彼らの忙しない姿をよそに飯を食べ進めていると、その半ドンの終わりを告げるように、頭上で大きな音が鳴った。
昼を知らせる号砲だ。マキナが目を向けた時計の針は、正午ちょうどであった。
「こりゃあいかん、朝食が昼食になってしまっているぞ」
号砲な音でようやく目の覚めたマキナは、麦飯が半分ばかり残った茶碗に味噌汁の残りを注いで、ひと息にかきこんだ。
(早くしないとシキくんが帰ってくる。寝坊したことがバレたら、小言の嵐だ)
……遅い朝食を終えてから30分後。
学園の制服に身を包んだシキが戻ってきた。
「ただいま戻りました、お嬢様」
執務室を覗くと、いつも通りの赤シャツにベストを着た主人が机に向かって書き物をしていた。何食わぬ顔で振る舞っているが、シキが事務所の玄関を潜る直前まで身支度をしていたせいで、心臓がバクバク高鳴っていた。
(珍しく仕事をしている?)
シキが訝しんでいると、マキナが手を止めて顔を上げた。
「お帰り、シキくん。いつにも増して早いご帰宅だが、学校をずるけて来たのかい」
「そんなんじゃ有りませんったら」
マキナの冗談を笑って受け流しながら、シキは執務室の中へと入る。彼女の手には一通の封筒が握られていた。
「郵便受けの中に入っていました。フルミさんからですが、もしかして」
中の手紙をあらためたマキナがすぐに口もとを綻ばせた。
「その通りオトギ先生の住所だ。さすがフルミ。今度、彼の友人たちにも一杯ご馳走しておかないとね」
「お嬢様!」
「うん。車を出す、支度をしてくれ」
……
皇都の東に流れる魑魅(すだま)川。その両岸に広がる下町では、古くから渡し船による交通が盛んであった。その活気は都市の整備が進んだ現在も続いている……筈だった。
「珍しいこともあるもんだ。魑魅川に一隻も船が浮いていないとは」
魑魅川沿いの砂利道を速度を落として走りながら、マキナが意外そうに言った。
水上を行き交う船は一隻もなく、その全てが河岸や浜へと引き上げられている。そればかりか水上生活者たちのだるま船の群れさえ、どこかに消え失せてしまっていた。
「もしかして、あの騒ぎが関係しているのかも」
シキが思い出したように言う。
「昨日の夜、川で船が襲われたそうですよ。なんでも妖怪が出たとか何とか。学校でもちょっとした噂になっていました」
「またか」
……やがて川沿い一画に建つ、オトギの自宅に到着した。
車から降りた二人は、斜めに傾いたバラック住宅を見上げる。木の壁は色が落ちて、屋根の瓦も汚れてしまっている。それに陽気な昼下がりだというのに窓はピッタリと閉じられて、錆びた郵便ポストには大量の手紙や新聞が入ったままとなっていた。
「やはり留守なんでしょうか?」
シキが怪訝な顔をしながら玄関の戸を叩いて呼びかけるが、案の定反応はなかった。
「その家の住人、もうずっと帰って来ていないそうだ」
不意に横から声が掛かる。振り向いた二人が揃ってポカンとした。
その青年は鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭にソフト帽を軽く載せて、よれた灰色スーツに袖を通していた。
「あなたは、ワイズマン保険の」
「何だい、なんだい。また僕の車にケチをつけに来たのかい、保険屋くん」
腕を組んで挑発的に言うマキナ。
「いきなりご挨拶だな」
青年は色白で薄口の顔に苦笑いを作った。
ニワサメ・ジョウ。ワイズマン保険組合の現地調査員で、マキナ達とは以前、とある事件で知り合った間柄だった。
「あなた達もオトギさんに用事かい?」
彼の横に立つ達磨のようにまん丸い老婆が、マキナ達へ声をかける。男装の小柄な女と、着物に袴姿の長身娘という組み合わせが珍しいのか、じろじろ値踏みするような目つきだった。
「諦めた方がいいよ。とっくに夜逃げした後だろうから」などと無愛想に言って来た。
「よっ!?」
着物の広袖で口を覆うシキ。一方のマキナはニワサメをしげしげと見つめた末に口を開いた。
「保険屋くん。君がここにいるって事は、オトギ先生に何かあったんだろう。少し話を聞かせてくれないか。ここにいるシキ君の為にもさ」
ニワサメはもじゃもじゃ頭をかき、きまりの悪い顔をし出した。マキナの発言で、それとなく関係性を察したらしい。
しばしの時間迷った末、保険組合の調査員は諦めたように肩を竦めた。
「……場所を変えよう」
こうしてマキナ達は川沿いの小さな喫茶店へ場所を移す事となった。
ニワサメは見るからに薄そうなアイスコーヒーで口を湿らせた後、相変わらずきまりの悪そうな顔で切り出した。
「シキちゃんには嫌な思いをさせるが、まずは聞いてくれ。オトギ先生にはいま、保険金詐欺の疑いが掛けられている」
「ええっ!?」
今度はシキだけではなく、マキナも驚いた。
「警察は彼女を指名手配する準備に入っているそうだ。事情があってオトギ先生に会いたいのだろうけど、悪いことは言わないから、会うのは止めた方がいい」
マキナ達は蒼白になった顔を見合わせた。
「せ、先生は先週から学園に来ていませんでした。という事はまさか」
「察知して逃げたのかもしれないねえ、シキくん。なるほど、教頭が理由を明かさない訳だ」
マキナはニワサメに向き直って言う。
「保険屋くん。その詐欺の話、可能な限り教えてくれたまえ」
「断る」
ぴしゃりと言うニワサメに、ガクリと肩を落とすマキナ達。
「つれないなぁ」
「この間の騒動で分かった。アンタを味方にすると碌な事にならない」
「そ、それは確かにその通りですけれど」
同意しつつ食い下がるシキ。
「ちょっと待って。いま僕、貶された?」
目を丸くするマキナを尻目に、シキはテーブルに手をついてまで頼み込む。
「どうか……どうかお願いします!」
少女の頼みに、ニワサメは頭をかきながら困惑。やがて諦めたように呟いた。
「……絶対に他所へ漏らすなよ?」
「ありがとうございます!」再度頭を下げるシキ。
「任せてくれたまえ。この間の貨物船のことだって、今もしっかり秘密にしているではないか」と、マキナも平坦な胸を叩いて誇る。
「言ってるそばから口にしやがって……しょうがねぇなあ」
ニワサメは観念したように話しはじめた。
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