禁じられたいのち
禁じられたいのち-1
十五年前。
八月×日
寝ても覚めても『死のニオイ』が漂っている。あの日以来、どこへ行っても目につくのは死体、死体、死体……。
瓦礫に押しつぶされた哀れな亡骸、炎に呑まれて骨の髄まで焼け焦げた可哀想な骸、幼子をしっかり抱きしめたまま川に浮かぶ、膨らんだ屍。
火葬場で、廃墟と化した街のあちこちで、今日も無数の死体が燃やされて骨に変えられる。朝から晩まで死体の焼ける臭いが空気を染めていた。
あの日、世界は地獄と一つになった。
つい今朝、焼け跡に虚しく響くラジヲニュースが、あの日起きた巨大地震に「大界震」という名が付けられたこと、世界全土があの瞬間、同時に揺れて、各国に未曾有の大被害をもたらしていた事を伝えてきた。
つまり大勢の命がいっぺんに消えたのである。
これまでも長い期間、世界全土を巻き込んだ戦争が、4年にも渡って繰り広げられて、多くの命が散ったのだが、それ以上の命がたった一瞬で奪われた。
こうなってしまえば、外国へ渡った娘の無事も……期待はできない。安否を確かめる術がない今、中途半端な希望はかえって重荷となる。
それに今は……。
男は、暗く冷たい小屋の中で久方ぶりの休息を取っていた。
焼け跡から拾い上げたトタンや木板を組み上げた、バラックとさえ呼べない粗末な小屋。穴だらけのゴザに寝転がり、落ち窪んだ双眸で、錆びたトタンの天井をぼんやり見上げる。
目を瞑りたくはなかった。瞼が閉じた瞬間、きっと眠ってしまう。思い出してしまう……あの地獄の日を。
(おとうさま! おとうさま!)
起きていても耳からこびりついて離れない。
ベッタリと、くしゃくしゃのボール紙のように潰れた家の中から聞こえる次女の悲鳴。
ひと言発するだけでも咳き込むか弱い娘が、周囲の騒音さえもかき消すほどの大きな声で助けを求めてきた。
そして、迫ってきた炎が潰れた家を包むと、今度は悍ましい断末魔をあげて……。
「ヒュロロロロオォ……」
シワがれたか細い音に男は慌てて身を起こす。
顔を青くして部屋の中央に敷いた布団へ這い寄ると、掛け布をそっとずらした。
「ヨモツ。ヨモツや、どうしたんだい?」
優しい声色を保とうと努めるが、どうしても震えてしまう。
布団の上に横たわる少女は頭のてっぺんから、切り落とされた両膝の付け根まで、全身を血の渇いた褐色の包帯でぐるぐる巻きにされていた。
ヒュロロロロオォ……。
爛れて皮のめくれた唇を半開きにし、壊れた笛の音色のような吐息を苦しそうに漏らす度に、男は水で濡らした布を少女の口に近づけてそっと絞る。染み込ませた水がタラリと少女の口に入り込み、焼け焦げた喉を湿らせる。
「ヨモツ。もう少しだけ辛抱しておくれ」
男は娘の体に布団を掛け直した。焼け跡から助け出した次女のヨモツ。彼女の命が潰えるのは時間の問題だった。
しかし、たとえわずかな時間でも、彼女は生き地獄で苦しみ続けなければならないのだ。
今まで以上に!
男は悔しげに歯を食いしばり、剥き出しの土の地面に爪をたてた。
(なぜだ。なぜ神は、ヨモツにだけ……この子にだけ苦難を与える!?)
次女のヨモツは生まれつき病を患っていた。起きて自分の足で歩くこともできず、歳を重ねるごとに弱っていく最愛の娘。
彼女を救うことこそが、研究者として、何よりも一人の父親としての、人生そのものであった。そのために生きてきた。
しかし、ヨモツはまもなく死ぬ。そればかりか、先に亡くなった母親の代わりに、親身になって妹に寄り添い続けた長女オトギまで、帰ってこない。
あの二人が居てくれたら何も要らなかったのに。あの二人こそ人生そのものだったのに。すべて消えた。残っていない。もう何も……ただ一つさえ。
男は大粒を涙をこぼしながら地面に蹲る。しばらく声を押し殺して泣いていると、生温い夜風が隙間から入り込んできた。例によって、風に運ばれてきたのは死のニオイ。
生命活動を終えた肉体は言ってしまえば魂の抜け殻。時間の経過と共に全身の細胞は死んでいく。一つ残らず消える、何も遺さずに。
遺らない?
いや、違う……。
男は徐に体を起こした。彼の目は凍て付くほどに虚で、おまけに暗く濁りきっていた。そんな目で、土にまみれた手を見下ろす。
手ならとっくに汚してきた。
それで得られた術がある。とうに私は世紀の大罪人となっている。悪魔に魂を売った私に待ち受けているのは、地獄の底で苦しみ悶える未来だ。だが、それでも構わない。方法があるなら実行するだけだ。
あの方法なら……ヨモツは生き続ける!
……
十五年後。
皇都・
「これじゃあ仕事にならんぜ、おい」
辺りが宵闇に包まれだした頃、泥だらけの工事責任者が何度目かも分からないため息をついた。
戦後復興の延長線ともいえる再開発が連日に渡って行われる皇都。その中でも特に一級河川『魑魅川』の周辺では、護岸工事から橋梁増設、上下水道整備に、地下鉄線延伸などなど……様々な開発事業が行われていた。
「これで何度目だ。ポンプの故障にしたって、こんなに繰り返すなんておかしいだろ」
などと不満を漏らす作業員が、ヘルメットを地面に叩きつけた。
魑魅川上流域。ここでは戦後長らく放置された地下水路の再整備が行われていた。しかし、この工事を請け負った建設会社の作業員たちは、この数日、ある問題に頭を抱えていたのであった。
「地下に溜まった水を吐き出さなきゃならないってのに。いつもいつも、肝心の排水ポンプが壊される。水を出さなきゃ工事が進まねえってのに」
「昨日はポンプに何かがぶつかって部品が取れちまったし」
「その前はホースが切れちまった……悪戯にしちゃあタチが悪すぎらぁ」
全国各地から出稼ぎにやってきた作業員たちは、揃って困惑した顔をつき合わせた。
連日のトラブルで作業は大幅に遅延、このままでは計画そのものが破綻する。そうなってしまえば、金が稼げない。作業員たちにとっては致命的すぎる問題だった。
現場責任者は川沿いの横穴へと目を向けた。問題の排水用ホースは、投光器の光を吸い込む暗い穴中へと伸びている。五人組の班を下に降ろして原因を探させているが、30分待っても、一向に戻ってくる気配がない。
「何が起きているんだ、一体よぉ?」
……その頃。地下水路に降りた作業員たちは、ランプに照らされた池のように大きな水溜まりの前で大いに狼狽えていた。
「冗談だろう。今まで一度だって、こんな事あったかよお?」
まとめ役の大柄な班長がうめくように言う。他の部下たちも、眼前の光景に息を呑んでいた。
深い陥没箇所に溜まった地下水を排出するために設置した、発動機付きの排水ポンプ。人の腰丈ほどあった重厚な機械が、ぺしゃんこになっていた。
どうやら真上から強い衝撃を受けたらしい。大小無数の破片や部品の塊が、周囲に四散している有様だった。
「天井が崩れたワケでもねえし、どうしてこんな風になっちまうんだ」
そんな中で、別の通路に向かわせていた一人が駆けてきた。
「おーい。大変だぁ、マル五の八にも水が流れてきているぞ!」
「何だと!?」班長が目をひん剥く。
区画名『マル五の八』は計画の生命線だった。ここが完全に浸水してしまったら、他区画との行き来ができなくなり、工事そのものが破綻する。
急いでマル五の八へ向かうと、投光器を頭に載せた四角い塊が街の真ん中に立っていた。
鏡餅のように平べったい部品を重ね合わせ、短い鳥足に細長い腕を生やした奇妙な機械。その名は人形重機、戦後急速に進化を続けている歩行型作業機械である。
従来の重機では踏破の難しい入り組んだ不整地……例えば取り回しの良さが求められる都市部の狭い工事現場では、急速に導入が進んでいた。
彼らの会社は、地下通路の中に複数台、小型の人形重機を投入して作業にあたっていた。マル五の八で皆を待っていたのも、その内の一台であった。
「旦那。おーい、旦那あ」
班長は人形重機に近づきながら、操縦担当の「旦那」へ声を掛ける。
しかし重機からはいっさいの返答がない。それもその筈、機体背面にある剥き出しの操縦席には、誰も座っていないのだから。
「何処に行きやがった?」
「知らねぇよお」と、班長を呼びに来た若者が細い首を左右に振った。
ドドド……と、機関部からくぐもった音が、静まり返った水路内に響き渡る。
班長はますます不気味さを覚えた。旦那は大陸から引き揚げてきた元戦車乗りで、人形重機の扱いにも長けた作業員だった。
いつも「重機を離れる時はいつもエンヂンを止めるように」などと口煩かった旦那が、エンヂンを掛けたまま、何処かへ行く事などあるのか?
班長は他の面々の顔を見回した。旦那を知る人間ほど「信じられない」という、顔つきをしていた。
やがて一行は人形重機のあちこちがヌラリと光る液体で濡れている事に気付いた。
意を決した班長が再接近して、表面についた液体を指でなぞった。
液体は無色透明で不快な粘性をもっていた。おまけに、地下水路じゅうの腐臭を凝縮したような、酷い臭いをまとっており、班長は思わず反対の手で指を摘む。
何が起きている?
頭の中に大量の疑問符が湧く中で、班長の肩にドロリと粘液が滴り落ちてきた。
「え?」
頭上を見上げた次の瞬間、班長の首にブヨブヨした細い「何か」が巻き付いた。
そして次の言葉を発する前に、彼の体は軽々と引っ張り上げられた。
他の作業員たちが悲鳴をあげる中、天井から大量の血飛沫が降ってきた。
「バケモノだ!」
誰かの悲鳴が瞬く間に絶叫へと代わり、唐突に途絶える。班長と同じく「何か」に襲われて闇の中に消えていったのだ。
我先にと逃げようとする作業員たち。しかし、彼らが発した悲鳴や足音は全て、ほんの数秒の後にプッツリと消えてしまった。
ヒュロロロロオォ……。
静まり返った地下水路内に、壊れた笛のような、背筋をざわめかせる音色が響いた。
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