くろがね鬼-4
「ここから先は立ち入り禁止だと、何度言わせれば気が済むのだ!」
若い巡査が目を吊り上げて怒鳴る。
「いやはや。そこを何とかなりませんかねえ。ほら、しっかり立入調査の許可は貰っているんですから」
相対しているのは会社員風の青年だった。巡査の高圧的な敵意もどこ吹く風、色白で薄口の顔に気の抜けた苦笑いを作っている。
「許可証あるんだし、お願いしますよぉ」
などと言い、よれた灰色のスーツの内側から封筒を一通取り出してみせる。
「ならん。そんな話は上から聞いていない」
巡査の隣に立つ、もう一人の老警官も憮然と言い放った。
「本件は我々警察の管轄。船内の検分もいま我々が行っている最中だ。どこの許可だか知らんが、貴様の指図など受けるつもりはない」
「終わるまでは誰も通すなというのが上からの命令だ。帰れ、帰れ!」
「あらら。これは残念」
この分では埒が明かない。青年はソフト帽子をもじゃもじゃ頭に載せて、その場を後にした。
奇妙なものを見るような野次馬達の視線を潜り、人がきをかき分けていると、離れた位置に車が一台停まっていた。警察がパトカー代わりに使っている駐留軍のお下がりオンボロ四駆などではなく、ピカピカに磨かれたスポーツカーだ。
青年はその車が、海外のジャギュアという会社が最近売り出した高級スポーツカーであるとに気付いた。極東の島国アキヅには数台入っているかどうかの代物が、どうして田舎の海水浴場に停められているのか。
興味を惹かれた青年は、スポーツカーにそっと近付いてみる。そして車内の様子が見えた所で、意外そうに目を丸くした。
「そこの君。駐車違反の切符を貼るつもりなら、一寸だけ待っておくれ」
振り返ってみると、車の持ち主らしい一組の男女が近づいてくる所だった。
……否、よく見るとどちらも女だ。
「俺……いえ、私があそこに立っている人たちのお仲間に見えますか?」
青年がソフト帽子を脱いで応えると、声をかけて来た方の女がニヤリと笑った。
「冗談だよ。警察ではなさそうだが、縦割りの外にいるが故、現場に入れない役人という線もまだ捨てきれないなぁ」
線の細い女はほっそりした顎に手を当て、値踏みするように青年を見やる。女だてらに開襟の赤シャツに黒ベスト、それにズボンまで履き、男のような出立ちをしていた。
「なるほど。ですが残念ながら、貴女のご期待されるような人間ではありません」
そういうや、青年は困ったような薄笑いを作って名刺を渡した。
「『ワイズマン保険組合』調査員、ニワサメ・ジョウ……ふむん、保険屋か。疑って済まない、僕はサエグス・マキナという者だ」
男装の女、サエグス・マキナが名乗り返す。
「事故の調査ですか?」
と、着物に袴姿の長身娘が尋ねる。
「そんな所です」和かに頷くニワサメ。
「しかしその目論見も潰えてしまったようだねえ。あの調子では浜辺に降りる事もできまい」
マキナは規制線の方角をチラリと見た。
「困ったものです。上司に報告しようにも、一番近い電話を探しに歩き回らなければならない。このスポーツカーに積んだ無線機を使って、いま見ているものをそのまま報告できれば楽なのですが……」
温和に話すニワサメ。一方のマキナも不敵な表情を保って話に耳を傾けているが、纏わせている雰囲気が、ほんの僅かに冷たくなっていた。
「ダッシュボードの周りがカタログ写真と違う。一見すると色味は同じで違和感は無いし、本物を知っている人も少ないから、バレる可能性はまず無い。だがいずれ国内を走る台数が増えてくれば、そうもいかない。隠し方をもう少し工夫されたら如何でしょう?」
「驚いた。車にも詳しいんだな、保険屋くんは」
などと、マキナは拍手を交えて言う。口角や目つきはそのまま、相変わらず笑ったままである。しかしニワサメは、マキナの目の奥に潜む警戒心を確かに感じ取っていた。
彼女だけではない。ニワサメは真っ直ぐマキナを見つつも、後方に注意を向けた。
いつの間にか着物姿の大柄な少女が、ニワサメの斜め後ろに位置を変えていた。会話に混ざらなかったのは、遠慮などではない。怪しげな人物の死角に陣取り、有事に際して動く用意をしていたのだ。
実力は皆目見当がつかない。しかし、自分より大きな相手と真正面からぶつかるのは得策とは思えなかった。
ニワサメは再び困ったような薄笑みを浮かべるや、軽く両手を挙げて降参の意を示した。
「あのぅ。ご気分を悪くさせてしまったお詫びに、何かご馳走させて下さい」
……
その後三人は、浜辺に一番近い駄菓子屋へ場所を移した。海の方角から波の音が微かに聞こえてくる中、三人は店の前に置かれた粗末な木椅子に並んで腰掛け、互いに言葉を交わし合った。
「輸入雑貨の貿易商。それも一人で……なるほど、そういうのもあるのか」
ニワサメはそう呟くと、ラムネ瓶の口側に指を当てて、蓋代わりのガラス玉を中へ押した。
コバルトブルーのくびれた容器にガラス玉が落ち込んでいき、中からシュワシュワと炭酸の泡が溢れ出してくる。
「おっと」
慌てて口に運ぶと、いまいち冷えきれていないレモネードの淡い甘味が、気泡と共に口内へ広がっていった。
「だが今日の目的は仕事ではない、遠足だ。涙なしには語れない苦労の数々が台無しになったサマを見物しに来てやったのさ」
自嘲気味に話すマキナもラムネ瓶を片手に、港町の風景をぼんやり見ていた。
朝一番の仕事もひと段落着いたのか、どこもかしこも、しぃんと静まり返っている。
未舗装の通りを歩く者はおらず、潮風を浴びて色褪せた小さな家々からは、時折生活音や話声が聞こえてくるが、それらも萎むように消えていき、また静寂が訪れる。
そんな中、使用人のシキは主人達の会話に耳を傾けながら、皿に盛られた一銭焼きをモグモグ食べ進めていた。
水で溶いた小麦粉に細かく刻んだ肉片(種別不明)やこんにゃく、それにネギを混ぜ込んで焼かれた生地に、ソースがこれでもかと塗られている。シキは既に三枚ペロリと平らげており、今も四枚目の三分の一が腹の中に収まった所であった。
(……どれだけ食うんだ、この子?)
内心絶句するニワサメ。この場の支払いを受け持つ身としては、彼女の大食らいが気が気でならなかった。
「それでええと。サエグスさんはハーキュリーズ号の残念な有様を直に見た訳だが、満足はできたかい?」
ニワサメは意識をマキナに戻して尋ねる。すると男装の麗人は首を左右に振ってみせた。
「最初は諦めて帰るつもりだった。だが今はすっかり気が変わってしまった。君が現れたことでね」
上目遣いに見上げる双眸は、獲物を見定めた肉食獣のような鋭さがあった。嫌な予感を覚えたニワサメが、得意の困った笑顔で受け流そうとするより早く、マキナの口が動く。
「さてさて。あれだけ大きな船にどれだけの保険金が掛かっているか。想像がつくかい、シキ君?」
不意に水を向けられたシキが、一銭焼きを頬張ったまま「ほへ?」と声を漏らす。
「君を派遣した依頼主は、さぞや気を揉んでいるだろう。一度に大金が動くんだから、その心労は計りし得ないだろうし、一刻も早い決着を望んでいる筈。なのに肝心の調査員が手をこまねいているせいで、進展が望めない。コイツは困ったことだねぇ」
(脂がのった舌をお持ちだこと)
頬のひくつきを抑えきれないまま、ニワサメはゆっくり口を動かした。
「何が言いたい、お嬢さん?」
「僕は『迅速に動いてくれない』なんて悪評を付けられてしまう調査員のことを思うと、何だか放っておけなくなってねえ。ほんの少しばかりでも、手を差し伸べたいと思っているのさ」
「俺をダシにして、一緒に船へ忍び込もうってか。だとしたら、アンタの言い分はくどすぎるぜ」
ニワサメは明らかにむっとした顔で言う。対するマキナは脚を組み、余裕ぶった態度でラムネをひと口あおった。
「では断るかい?」
「ふざけろ。アンタに言われなくても、どっちみちやるつもりだった……付いてくるのは勝手だが、足は引っ張るなよ?」
「良い返事だねえ。では同盟結成を祝して一つ乾杯でも……」
マキナがラムネ瓶を掲げる。しかしニワサメは盃を交わさず、不機嫌に一人で飲み干してしまった。
……
その日の夕方……。
「ふむん。僕の主義には反するが『急がば回れ』も、時には悪くはない」
三人は海水浴場から離れた位置にある、広い防砂林に場所を移していた。
緩やかに曲がった松の木がみっしり生い茂る一帯は、三人の姿どころか影さえも隠してしまっていた。
薄暗闇に包まれた林の中を進み、やがて平坦な岩場へとたどり着いた。
波によって荒く研がれた黒い表面がずっと続き、その果てには巨大な船がポツンと佇んでいた。座礁したハーキュリーズ号である。
「なるほど。船の周りは潮が引くと、ああも干上がってしまうのか」
感心するように頷くマキナ。
「これならハーキュリーズ号まで歩いて近づけますね」
最後尾のシキも自然の摂理によって現れた天然の通路に、感嘆を隠せないでいた。
「あんまり騒ぐなよ。ハーキュリーズ号の真下に小舟がある。実況見分の警官がまだ残っているんだ」
ニワサメは不機嫌な顔を女たちに向けた。
「単独行動は絶対に許さない。全員でまとまって動いて、手早くお互いの目的を果たす」
「異論はない。だからさっさと君の用事を済ませてくれたまえ、保険屋くん」
余裕たっぷりに答えるマキナ。ニワサメはまた不快そうに顔を歪めると、足早に船へと近づき始めた。
その後ろ姿を見ながら、マキナが意地の悪い笑みを浮かべる。
「見たまえ、シキくん。あの保険屋くん、だいぶメッキが剥がれてきているぞ。叩けばどんどん面白いものが落ちてくる手合いだ」
「もう、お嬢様ったら……」
ニワサメの後ろにマキナ、そしてシキが続く。そして左舷側の大穴から、剥き出しになった通路へ入り込んだ。
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