くろがね鬼-3


「どうすればたったの三日で、あんなにお部屋を汚せるんですか。どんな才能ですか!?」

 プリプリ怒りながらシキはガス台の前に立ち、朝食を作っていた。


「言いましたよね。あたしが居ない間、せめて最低限のこと位は、ご自分でおやりになって下さいと」

 フライパンの中でクツクツと小気味良い音を立てるハムエッグに塩胡椒を軽く振る。

「すまん、すまん。この三日間はどうも仕事が立て込んでしまっていてねえ。それはもう、身の周りを気にする余裕も無いくらい」

 などと謝るのは、白いバスローブに袖を通した主人のマキナ。シャワーを浴びてすっかり目が覚めた彼女は、台所から少し離れたテーブル席に腰を下ろし、朝食が運ばれてくるのを待っていた。


 オリーブ色の細面に彫りの深い目鼻立ちは、古代の彫像のように精巧な整い方をしていた。加えて褐色の髪を男性のように短く切り揃えてしまっているせいで、線の細い美男子にも見えてしまう、ある種の中性的な魅力があった。


 シキはそんな主人に背中を向けながら抗議を続けた。

「だからって、脱ぎ散らかした挙句に素っ裸で事務所の中を歩くなんて、はしたない」

「流石の僕も素面の時はやらないさ。仕事がひと段落したお祝いにと、お客さんがワインをご馳走してくれたのだよ。いやぁワインは良くない飲み物だよ、シキくん。スッキリ飲めてしまうのに後で一気に酔いが……」

「未成年なので分かりません!」

 不機嫌かつ怒り気味な返答にマキナは「おっと」と肩を竦めて苦笑い。これ以上の弁解は却って悪手だと見切りを付け、今朝の新聞を手に取った。


 新聞も例によって強盗事件の現場に乱入したくろがね鬼の事を報じている。マキナは細い脚を組み直して、別の記事へと目を移す。

大界震だいかいしんから十五年、各地で慰霊祭の準備進む』

 マキナの顔から急に笑みが引いて、細めた目にはたちまち憂いの色が宿りだした。


「できましたよ、お嬢様」

 シキが朝食を運んできた。

 黄身まで火を通したハムエッグに 、付け合わせの茹で野菜にチーズ、こんがり焼き目のついた薄切りの黒パン。

「食べ終わったらお部屋の片付けですよ、良いですね?」

 湯気だつコーヒーを置いて、シキは上目遣いに言う。

「はあい」

 マキナは咄嗟に能天気な笑みを作って、新聞から朝食に意識を向けた。


 ……それからしばらく後、台所の片付けを進めていたシキは、思い出したように主人に質問した。

「それで、今はどんなお仕事を頼まれているのです?」


 食後のコーヒーにありついていたマキナが待っていましたと話し始めた。

「絨毯をね、頼まれたんだ。ただの絨毯じゃあないぞ。伝統あるペルシスの絨毯だ。羊毛をふんだんに使い、複雑かつ艶やかに彩られた紋様は正に絵画……」

 彼女は輸入雑貨の貿易商を営んでいた。ただし店は持たず、従業員さえいない。全てを一人で切り盛りしているのだ。


「コイツは日ごろ懇意にして貰っている、とある社長夫人からの依頼でね。以前から頼んでいた特注品がようやく出来上がり、いまは到着待ち。この三日間はやれ関税だ、やれ書類だ、やれ打ち合わせだのと走り回っていてねぇ。しかし、その苦労も今日で終わり」

「荷物が届くのですか?」

「その通り。絨毯を載せた船が今日港に着く予定だ。そいつを受け取った足で、そのまま夫人へ渡しに行く。シキ君、もし時間があったら付いて来るかい?」

 突然の誘いにシキは目を丸くする。


「あたしがいたらお仕事のご迷惑では?」

「迷惑なものか、立派な社会勉強の一環だ。それにご夫人は君のような若い乙女に目が……おっと」

 マキナが意気揚々と答えていると、壁かけ電話のベルが部屋中に鳴り響いた。


 最初にシキが受話器を取って応対をしてから「お嬢様。隠澄枡いんすます海運という会社からお電話です」と告げた。

 入れ替わって通話に応じたマキナは、最初こそ不敵に微笑んで「うむ、うむ」と相槌を打っていたが、突然顔色を変えるや、言葉にもならない仰天の声をあげた。


「つつ、積荷の無事は……確認できていないとな。船は、ハーキュリーズ号は……ふむ」

 しばらくして通話を終えたマキナは、げっそりやつれた顔で受話器を戻した。


「どうしたんです?」おずおずと尋ねるシキだったが、また電話が掛かってきたせいで、お預けを食らってしまった。

「もしもし。サエグス……あ、交換局? うん。繋いでくれ」

 了承するや交換局が回線を切り替える。


「もしも……ああ、奥さま。船の事故? さすがお耳が早い……いえ、残念ながら絨毯の無事はまだ分からずで……」

 受話器を耳に当てながら、マキナは困り顔で応対を続ける。

 やがて電話を終えたマキナは、受話器を置いて、深いため息をついた。


「大丈夫ですか、お嬢様?」

 おそるおそる声を掛けるシキ。すると、主人はなだらかな撫で肩を竦めてみせた。

「大丈夫ではないが、僕らのような一個人が、どうこう騒いで好転する問題でもない」


 それからまた椅子に腰掛けると、窓の外へ目を向けた。雲一つない青空が果てしなく続き、輝かしい朝陽がD坂の街並みに降り注いでいる。

 マキナは沈んだ顔でカップの底に残っていたコーヒーをひと息に呷った後、こう言った。

「……さて、シキくん。突然だが遠足なんてどうだい?」

「遠足ですか?」

 きょとんと目を丸くする使用人に、急に調子を取り戻したマキナが、少女のような明るい笑顔で言った。

「そうとも。遠足さ」


 ……


 しばらく後、皇都から郊外へ向かう幹線道路を疾駆する深緑色の自動車がいた。

 滑らかな曲線を描いた小型サルーンで、上品な見た目をしていながら、空気を震わせるエンジン音はまるで肉食獣の咆哮であった。

 排気量2.4リッターの高級スポーツカー、ジャギュア1型である。


「座礁ですか?」

 助手席のシキが怪訝な顔で訊き返してきた。

「今朝がたハーキュリーズ号という貨物船が沖合で故障した挙句、浅瀬に流されてしまったそうだ」

 ハンドルを握るマキナが困惑顔で応える。

「困ったことに引き取る予定だった絨毯は、そのハーキュリーズ号に積まれていた。事故を知った夫人はすっかり動転していてね、絨毯の無事を一刻も早く知りたいと大喚き」


「だからといって、あたし達が現場に行った所でどうにもならないと思いますよ。船の中に入れる訳でもなし」

 シキの冷静な言葉に、マキナは和かに答える。

「正にその通りだが、だからといってなにもせず待っているのも、僕の性には合わない。夫人の意向に沿う訳ではないが、興味本位で見に行ってみようというのさ」

「ああ、それで遠足と仰ったんですね」


 やがて二人を乗せたジャギュア1型は、幹線道路から外れて海岸沿いの国道に入った。

 目指すは皇都の西端、隣県との境に位置する赤睦の海水浴場である。

 交通量がぐんと減り、運転に余裕が出てきた所で、マキナはラヂヲの周波数を変え始めた。


〈大界震の発生から、今年でちょうど十五年になります。当時をよく覚えていらっしゃる方も多いかと思われますが、あの未曾有の災害によって……〉

 大界震の名前が出た途端、車内の空気が変わった。


「もうそんなに経つんですね」

 シキがポツリと呟く。

「そうとも。当時十歳そこらの鼻垂れ娘だった僕が、こうして大人になる位、長い時間が過ぎた」

 マキナは前を向いたまま低い声で応えた。


 ……遡ること十五年前。

 世界を二分する戦争の最中、その大災害は起きた。

 後に大界震と名付けられるその超巨大地震は、世界中の大地を、惑星全土を、一斉に揺らすことで全世界に甚大な被害を及ぼした。

 多くの死傷者を生み、数えきれない廃墟を作りあげた大界震によって、世界各国は戦争どころでは無くなった。


 大界震発生から一ヶ月後、四年もの間繰り広げられた地獄の総力戦は、呆気ない終わりを迎えたのである。

「いまどんな言葉が流行っているか、シキ君は知っているかい?」

「いいえ」


「『もはや戦後ではない』だ、そうだ」

 言い終えるや、マキナはギアを一段階上げて、車を増速させた。


 ……そうして海岸沿いを走り続けている内に、二人は目的地に到着した。

 海水浴場は、赤睦あかむ市という名前の港町にある、三日月形の砂浜だった。


「なるほど。アレはやってしまったなぁ」

 車を路肩に停めるなり、マキナの口から素直な感想が漏れた。

「アレがハーキュリーズ号ですか」

 想像以上の巨体にシキも呆けたように呟く。

 100メートルは優に越えるであろう巨大かつ丸みのある船体が、浜の浅瀬に乗り上がっていた。

 穏やかな揺れる海面は船底の渇水線より下回り、たとえ満潮になったとしても離礁は絶望的だろう。

 だが、万に一つの確率で海に戻れたとしても、航行は無理だとマキナは判断した。

 左舷側には船内が見えるほどの大穴が空いて、煙突まで折れてしまっているのだ。


「しかし、他人の不幸さえ見せ物にしてしまうとは、人間とは度し難い生き物だな」

 マキナは前方に視線を戻す。

 道路端から砂浜へと降りる階段前に至るまで、多くの人々が殺到しており、座礁したハーキュリーズ号の姿を、やいのやいのと賑わいながら眺めていたのだ。


 降車して、少しでも浜辺に近づかないか歩いてみると、階段前には規制線が張られており、案の定見張りの制服警官達が立っていた。

「あの様子では、船に近づく所か、浜辺に降りることさえ無理そうですね」

「そのようだ。とはいえ、収穫も無く手ぶらで帰るのは気が進まん。誰かに話を聞ければ良いが」

 二人が話し合っていると、規制線のすぐ近くから警官の怒鳴り声が響いた。

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