第19話 熱に浮かされて見た妄想

「……思っていたより散らかっていませんね」


 部屋をぐるりと見まわした皐が、マスク越しに俺の部屋の評価を下す。


 普段からちゃんと掃除をしていて本当に良かった。

 ゴミは溜めることなくきっちり捨てている。

 洗濯物もあまり溜め込んでいないし、自炊はサボり気味ではあるものの、生活力の総合評価は中の下くらいではなかろうか。


 ……そんな現実逃避はともかく、俺の心境は穏やかではない。

 まさかこの部屋へ家族を除いて初めて入ったのが皐になるとは。


「慧さんはとりあえず体温を測ってください。その間に買ってきた食品を冷蔵庫に入れておくので」

「……買ってきてもらったものの金は後で返すから、レシートも置いといてくれ」

「返していただかなくて結構です。大した額ではありませんし、レシートもお店で捨ててしまいましたから」

「だったら大体の額で返す」

「いりません。あなたに体調を崩されて困るのはわたしですから」


 皐がテーブルに置いたものを見てみると、冷却シートと書かれていた。

 そういえば風邪の時ってこういうのも必要だったな。


「それも使ってください。自分でつけられますね?」

「俺を何だと思ってるんだよ」


 若干子ども扱いされている気がしないでもなかったが、皐は台所へ消えていく。


 俺の代わりなんていくらでもいるだろうに。

 でも、その素っ気なさは皐なりの照れ隠しなのかもしれないと思うことにして、冷却シートを額に貼ってから体温を測る


 少しして体温計が鳴る。

 表示されていた温度は38.4……朝より上がってるな。

 通りで身体が思ったように動かないわけだ。


「何度でしたか?」


 そこで冷蔵庫に物を仕舞い終えたらしい皐が戻ってくる。

 俺が「38度ちょい」と告げると途端に皐が渋い表情になり、眉間を押さえて深いため息を一つ。


「あのですね、38度の熱はどう間違ってもほどほどではありません。病院にも行ってませんよね」

「怠かったし、こっちの病院のことは知らないからさ。朝に市販の薬は飲んだけど」

「その様子だと効果なし……いえ、罹り始めだったから、今まさに悪化している最中なのでしょうね。熱の他に症状は?」

「喉の痛みと怠さ、悪寒も少々ってとこか。まあ、風邪なんてこんなものだろ」

「……丈夫な身体で良かったですね」


 ジト目でのセリフ。

 どう考えても褒めてはいないであろうそれには答えない。


 代わりに咳払いを挟むも、皐が俺を見つめるまま沈黙が部屋を満たす。


 改めて考えても意味不明な状況だ。

 風邪を引いた俺を心配して皐が物を届けに来るだけでなく、部屋にまで上がり込んでいるなんて。


 でも、部屋に上がって一体何をする気だったんだろうか。


「ところで、食欲はありますか?」

「朝は食べたけど、普段よりはないな。喉も痛いから固形物も食べにくいし。昼は食べずに二度寝したっけ」

「……では、わたしが何か作りましょう」

「え?」


 俺の聞き間違いか?

 皐が今、何か作ろうかと言っていた気がしたけど。


「……慧さんが何を考えているのか薄々察せられますが、わたしも一人暮らしをしているんですから料理くらいできます」

「いや、そこの心配をしていたんじゃなくて……ほんとに作る気か?」

「材料は買ってきていますし、見たところ調理器具も一通り揃っているようなので問題ないかと。慧さんがわたしの料理を食すのに抵抗がある、というなら作りませんが」


 どこか不満そうに口にする皐へ滅相もない、と首を振る。

 むしろ興味しかない。

 あの皐の手料理を食べられる機会は金を払っても得られるものじゃない。


「是非、頼む」

「……どうしてそんなに食い気味なんですか。過度に期待されても困ります。人に振る舞うなんて久しぶりなので」

「自分から言い出したのに変なものを作るとは思えないからな」

「食べられるものを作るのは最低限では……?」


 皐に変な顔をされるけど、自炊初心者はそうじゃないんだよなあ。

 一人暮らしを始めた頃のことを思い出すと俺も成長したな。


「とにかく、作ってきますので。お粥と雑炊、うどんならどれがいいですか?」

「……お粥で。喉の調子があんまりだからさ」

「わかりました。わたしのことは気にせず、横になるなりして待っていてください。眠っていたら起こしますか?」

「あー……頼む」


 俺が寝落ちしたら皐も帰るに帰れないだろう。

 なるべく寝ないようにと心に決めながら台所へ向かう皐を見送り、大人しくベッドで横になっておく。


 それにしたって本当に現実感のない光景だ。

 俺の家の台所で大学一の美女とも噂される皐が料理を作っているなんて。


 ……でもまあ、今更な思考ではあるかと途中で投げ出した。


 ベッドで掛け布団にくるまりながら、微かに響いてくる料理の音を聞き流す。

 一人暮らしではあり得ないことに、実家で暮らしていた頃のことを思い出した。


 それにしたって、風邪をひくのも何年ぶりだろう。

 最後の記憶は……中学生か?

 めちゃくちゃな熱が出た俺を一人で残してはおけないと母さんが仕事を休んで、一日中付きっ切りで看病してくれたっけ。


 母さんと父さん、元気にしてるかな。

 最後に会ったのは年末だ。

 今年も去年と同じく長期休みで顔を見せに帰ろう。


 幸い、皐との契約のあれこれでバイトをやめるから時間も去年より余裕がある。


 なんだかんだで感謝だな、などとぼんやり考え事をしているところへ、


「慧さん、起きていますか?」

「……ん、ああ。起きてる」

「それは良かったです。お粥が出来ましたよ」


 皐の呼びかけで閉じかけていた瞼を上げれば、いつも使っているローテーブルにお粥をよそった器とスプーンが置かれた。

 薄っすら湯気が漂う白いお米と、中央に添えられている梅干しの赤のコントラストが鮮やかなお粥。


「お米は買ってきたパックのものを使わせてもらいました。食べられそうですか?」

「……本当に作ってもらえるとは思わなかった」

「わたしを何だと思っているんですか。……少し冷ましてきたので、すぐに食べられるかと」

「…………なんつーか、そこまで気を遣われると逆に気が引けてくるな」


 すぐ食べられるようにちょっと覚ましておくとか、気遣いのレベルが高すぎる。

 ありがたいことに変わりはないけど。

 ベッドを這い出てテーブルの前に座り、早速「いただきます」と口にしてからスプーンを取った……まではいいのだが。


「そんなに見られていると食べにくいんだけど」


 俺の斜め後ろに座っていた皐へ告げると、表情を僅かに硬くして、


「……仕方ないでしょう? こんな形でも料理を振る舞う手前、感想が気になると言いますか」

「味見はしたんだろ?」

「当然しました。自分では大丈夫だと思っていますが、慧さんの舌に合うかどうかはわかりませんし」

「俺も平均的な味覚は持ってると思ってるから大丈夫だろ」


 風邪で変なことになってたらその限りではないけど、というのは言わずに、まずはお粥をスプーンでひと掬い。

 少しばかりどろっとしたそれを口へ運ぶと、優しいながらも確かな塩気を感じた。

 米は柔らかめでほんのり暖かく、昼を食べなかったからか鳴りを潜めていた食欲が徐々に顔を出してくる。


 一口目の総評としては、文句なしに美味しいお粥だ。


「……どう、ですか?」


 俺が一口食べたのに黙っていたからか、皐が痺れを切らして聞いてくる。

 どことなく心配そうな声音。

 振り返ると、変わらず皐は表情を固めたまま。


「何の心配もないくらい美味いよ。程よい塩気と温かさ、米の柔らかさもちょうどいいし」


 率直な感想を伝えると、皐は胸元に手を当ててほっとしたような表情を浮かべた。


「……そんなに気にしてたのか? 俺からすると作ってもらえるだけで万々歳って感じだけど」

「自分で作って自分で食べるなら気にしませんが、慧さん……でなくとも病人に作るとなれば話は別です」

「そういうものか」

「そういうものです」


 一応の納得を経たところでお粥に意識を戻す。

 折角作ってもらったそれを残す気はない。

 しかし自分の減退した食欲と相談しながら、いつもと比べればゆっくりとした速度で食べ進め――


「ごちそうさまでした」


 いつものように口にすれば「こちらこそお粗末様でした」と幾分か柔らかくなった口調で返ってくる。


「全部食べたのですね」

「昼は食べてなかったから、その分かもな。普通に美味かった……って言い方だと変に聞こえるかもしれないけど、風邪で食欲のない身体に染みるっていうか。とにかく、文句のつけようがないくらいには美味かった」

「……そう言っていただけると作った甲斐があります」

「言っておくけどお世辞じゃないからな」

「わかってますよ」


 皐がこちらも見ずに立ち上がると、空になったお粥の器とスプーンへ手を伸ばす。


「片付けはいいって。纏めて元気になったらやるから」

「ダメです。わたしが作ったのですから、片付けまでしていきます。慧さんは薬を飲んで大人しくしていてください」

「いくらなんでも過保護が過ぎるだろ……」

「自分の体調を誤魔化そうとする人にはこれくらいでちょうどいいです」


 言葉選びは突き放すそれなのに、行動は甲斐甲斐しくて、そのギャップに思わずくすりと笑ってしまう。

 なんだかんだと言っても優しいんだよな。


 その優しさに寄りかかって本当にいいのだろうかという迷いはあるものの、もう皐は食器を台所へ運んで洗い物を始めている。

 なんとも手際のいいことで。


 俺も薬を飲んで一息入れていると、洗い物を終えた皐が戻ってくる。

 その手にはひょうたんみたいな、見慣れないものが抱えられていた。


「食事も済ませて薬も飲んだなら寝てください。氷枕があれば少しは寝やすいでしょう?」

「……わざわざ悪いな」

「これで出来ることはもうありませんね。わたしがいなくならないと眠れないでしょうから、そろそろ帰ります」


 やることはやったと言いたげに皐が自分の荷物を纏め始める。

 そして俺も戸締りのために着いていき、靴を履いた皐が振り向いて。


「もしも夜のうちに悪化したら迷わず救急車を呼ぶように。他にも何か必要なものがあればわたしを頼ってくれて構いません」

「……それはわかったけど、普通そこまでするか?」

「普通がどのようなものを指しているのか不明瞭ですが、わたしは慧さんに元気でいてもらわないと困るので。これはわたしのためでもありますから、遠慮なく」

「そうはいっても、夜中に呼びつける気にはなれないな。夜道を歩かせるのは危険だし、夜に異性の部屋を訪れることもそうだ。俺が病人であっても変わらない……ってか、俺が皐を騙して襲うかもしれないとか考えないのか?」


 そんなことする気はないけど、と思いつつも聞いてみれば、返ってくるのはさもどうでもよさそうな眼差しを向けて。


「わたしを騙して襲うつもりですか?」


 端的に、聞いてくる。


「……いや、しないけどさ。単に危機管理的な問題で――」

「リスクがあるのはわかっていますよ」

「だったら」

「わたしはこれまで慧さんと積み重ねた時間と、契約を信用しているだけです。一時の欲に流されてわたしを襲うより、継続的に飴を貰う方がお得――そういう風に見せてきたつもりなので」

「男の理性なんて絶対信用しない方がいいぞ? 時と場合によってはオブラートより薄いからな」

「その割に慧さんのそれは破れる気配がありませんね」

「……そういう契約だし、友達相手に求めることじゃないだろ?」

「そう言える時点で心配するだけ無駄というものです」


 ……そう、なのか?


 皐の思考は時々理解が及ばない。


「では、これで。早く元気になってくださいね」

「……ん、ああ。今日は助かった」

「お礼ならわたしだけでなくお二人にも」

「そうだな。復帰したら伝えるよ」


 俺の代わりに皐が自分でドアを開け、くるりと振り返って丁寧に閉めた。


 一気に静かになった玄関で精いっぱいのため息を漏らしてから施錠を済ませ、ベッドへ戻る。


 そして――改めて、思う。


「……これ、現実か?」


 熱に浮かされて見た妄想の夢じゃないことを祈りつつ、氷枕の冷たさに誘われるようにして眠りにつくのだった。


―――

悪いがラッキースケベはないぜ!ぴゅあぴゅあラブコメだからな……(?)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る