第4話 推定美人の胡乱な先輩

「――夢じゃ、ないんだな」


 銀鏡と夜にバッティングセンターで遭遇した日の翌朝。

 俺がスマホで連絡先を確認すると、そこにはやはり銀鏡皐の名前が刻まれている。


 ということは、昨日銀鏡と交わした契約も現実のものらしい。


「……現実味がなさすぎるよな。内容も意味不明だし。遊び相手ってなんだよ」


 友達じゃダメなのか?

 遊び相手って俺の認識からすると友達と似たようなものだと思うんだけど。


 ……まあ、俺は銀鏡が求める通り、都合のいい相手でいればいい。


 変な思い違いをしてはどこでボロが出るかわからない。


「さて、飯食って支度するか。遅刻は勘弁。単位に余裕は持っておきたいし」


 昨日は午後の授業を休んでしまったし、今後は銀鏡の件もある。

 バイトの日程は後から連絡することになっているけど、いつ呼び出しがかかるかわからない。


 それにしても銀鏡は本当に――


「……誰からだ?」


 こんな朝っぱらに届いた通知音。

 相手の名前は明智あけち瑛梨えり……三回生の先輩で、知り合いだ。

 内容は『一限前、いつもの喫煙所で待ってるよ。すっぽかすなんてつれないことはしないでほしいな』というもの。


 明智先輩からこうしたお誘いを貰うのは珍しくない。


「これは、アレだな。昨日のことを知ってるやつだ。気を遣わなくてもいいのに」


 明智先輩は三回生……八雲先輩の同期だ。

 それなら昨日の食堂で起こった騒ぎを耳に挟んでいても納得できる。


 八雲先輩の悪い噂を聞いたのも明智先輩からだし。


 そうと決まればちょっと早めに行こう。

 仮にも先輩を待たせるわけにはいかないからな。


 ぱぱっと大学へ向かう支度を済ませ、指定の喫煙所へ到着する。

 するとそこには一人だけ先客がいた。


 オーバーサイズのパーカーから伸びる、黒タイツに包まれた美脚を晒す小柄な女性。

 グレージュのくせっ髪。

 煙草から白く濁った煙を登らせながら、眼鏡の奥で薄く隈を蓄えた眠そうな目でスマホの画面を注視している。


 隈があっても整った顔立ちは隠せていない。

 本来はもっと美人なのかもしれないけれど、いつ見ても寝不足なのか隈がある。


 その明智先輩がふと顔を上げ、喫煙所の透明な壁越しに目が合った。

 すると煙草を切り上げ――ずに、最後まで吸いきってから喫煙所を出てきた。


「明智先輩、おはようございます」

「おはよう、柏木くん。憎らしいくらいのいい天気だね」


 女性にしては少し低めのハスキーボイスで挨拶を返してくれる。

 微かに漂う煙草の匂い。

 明智先輩はポケットを手探り、煙草の箱を取り出して俺へ差し出した。


「キミも一本どうだい?」

「……未成年に勧めないでくださいよ」

「冗談さ、冗談。なら、こっちをあげよう」


 俺が断ると、明智先輩は肩を竦めて煙草の箱を仕舞い込み、代わりに缶コーヒーを手渡してきた。

 そっちはありがたく貰うことにする。


 そのままいつものように、喫煙所から少し離れて立ち話だ。


「梅雨も間近だというのに、まるで夏まで季節をすっ飛ばしたみたいだ。どうせなら冬まで飛ばしてくれないかな。暑いのはどうにも苦手でね」

「その割にずっと長袖じゃないですか?」

「日に焼けると肌が赤くなってしまうのが嫌なんだ。タイツもその対策だね。でも、暑さを感じないわけじゃない。夏は日傘の出番だよ」

「……あんまり似合わないですよね、日傘」

「酷いなあ、キミは。そこはお世辞でも似合うと言うべきところだよ?」


 それから数秒、不自然な間があって。


「……聞いたよ、柏木くん。彼女を寝取られたんだって?」


 明智先輩が切り出したのは、やはり昨日の件だった。


「まあ、はい。そうなりますね」

「おや? 思ったより大丈夫そうじゃないか。一日空いて落ち着いたのかな」

「それもあります。元々上手くいってないのはわかっていたので別れ話かなと思っていたんですけど、少しだけ斜め上でした」

「……全く、酷い話だね。キミはこんな胡散臭い、一年先に入学しているだけの先輩にすら敬意を持って接するくらい善良な人間だというのにさ」

「明智先輩のことは胡散臭くてもいい人だとわかっているので」

「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。一年前に潜り込んだ新歓コンパでどこにも入れず寂しそうに飲み食いしていたキミに付け入った甲斐があるってものだね」


 カラカラと笑う明智先輩は、わざとらしく自分が悪者みたいな言葉を並べる。


 俺が明智先輩と出会ったのは一年前。

 新入生を勧誘するための新歓コンパの場だ。


 結局俺はサークルには入らなかったし、どういうわけか明智先輩も部外者なのに飲みに来ていたわけだけど……それ以来、こんな風にちょっと会って話すくらいの緩い関係が続いていた。


「そういえば、キミは食堂での後の話を知っているかい?」

「知りません。すぐに帰ってしまったので」

「なんとなく想像がつくと思うけれど、八雲は取り巻きたちを連れ回して自慢げに語りながら学校中を歩いていたよ。傍迷惑な同期がいたものだ。アイツの悪い噂は絶えないけれど、そうなるだけの実績がある。一応気を付けたまえよ」

「……気を付けるも何も、もう関わることはないと思いますけど」

「どうだろうね。八雲はああ見えて小さい男だから、ねちねちと付きまとってくるかもしれない。その時は遠慮なく相談するんだよ」

「明智先輩に……?」

「他に誰がいるんだい。これでも私は三回生の間だとそれなりに頼りにされているんだよ? 人望って意味なら八雲なんかに劣る道理はないね」


 喫煙所で管を巻いているところしか見たことがない俺としては信じがたい話だ。

 でも、嘘をつく理由もなく、見栄を張っているようにも見えない。


 ない胸は張っているけど、それを指摘しようものなら何を言われるのかわかったものでは――


「今、ない胸を張って哀れだな、とか思わなかったかい?」

「いえ、あの、全然そう言ったことは思っていません」

「キミはわかりやすいねぇ。別にいいけれど。そうそう、今日の服装を見てなにか気づかないかい?」


 服装? 特に変わったところはないと思うけど。

 いつもこんな感じで部屋着と外出用の中間みたいな、気怠い感じだし。


「鈍いのは非常によろしくないね。女性の服装なんてほめてなんぼだよ?」

「……すみません」

「そんな鈍感童貞男子大学生のキミに免じて答え合わせをしてあげよう。今日はオーバーサイズのパーカーを着ているだろう? で、下は黒タイツ。まるで履いていないように見えないかい?」


 左手でパーカーの裾を摘まんでみせる明智先輩。

 影でより濃くなった太もも近くの黒タイツが見え隠れする。


 悲しい男の性が、そこへ自然と視線を集約させて……履いていないわけないだろ。


「もし履いてなかったら明智先輩は露出狂の変態ってことになりますか?」

「仮に履いていなかったらそうなるかもしれないね。でも、キミは現在進行形で先輩の黒タイツに包まれた太ももを視姦する変態じゃないかな」

「明智先輩が誘導したのにそれは酷くないです??」

「あはは、ほんの冗談だよ。ちゃんとショートパンツを履いているし、太ももくらい好きなだけ見ていけばいい。これも傷心中の後輩へ送る美人な先輩のサービスさ」

「それはどうも。……でも、隈がなくなったらもっと美人だと思いますけどね。ちゃんと寝てくださいよ。またゲームですか?」

「対人ゲームは辞め時がなくて参るね。勝ったら気持ちいいまま再戦するし、負けたら勝つまで終われなくて再戦。それで気づいたら朝だから手に負えない」


 ……本当にこの人は優しいのにどうしようもない人だよな。

 これが常態化してるのだから驚きだ。


「キミが隈のない完全体の超絶美人な私を見たいとそこまで願うなら、ちゃんと寝るのもやぶさかではない」

「そこまでは言いませんけど寝不足はやめた方がいいですよ」

「……それはそうだね。今もコーヒーと煙草で誤魔化してるだけなのはわかってるよ。今日は一日寝ていようかな」

「講義はちゃんと受けてくださいね?」

「別に一日受けなくたって単位は落とさないよ」


 やっぱり俺は明智先輩に人望があるなんて信じられそうにない。

 どうやってもダメ人間側じゃないか?


 それでもわざわざ呼びつけて慰めてくれるあたり、嫌いになれる気がしない。


「でもま、顔を見られて安心したよ。後輩の面倒を見るのも頼れる先輩の役目だからね」

「それはありがたいんですけど……講義は出ません?」

「出て居眠りするか出ないで熟睡するかなら後者の方が有益じゃないか」


 そんな「当たり前のことを聞かないでくれよ」みたいな顔で言わないで欲しい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る