第5話 仮にわたしが柏木さんと交際していたとしましょう

「……もしかしなくても見られてる、よな」


 明智先輩と別れて一限の講義が行われる教室に到着した俺が感じたのは、各所から寄せられる視線の多さ。

 銀鏡のように美人でもなければ、特別有名でもない俺へここまで注目が集まることは本来あり得ない。


 原因はわかっている。

 恐らく更科が話を広めたり、食堂での騒ぎをそもそも知っている人が多いのだろう。


 これからしばらくはこの空気に耐えなければならないのか……しんどいな。


 けれど、一人だけ俺へ一切の興味を向けない人物がいた。

 孤島のように孤立した座席に座って講義開始を待つ銀鏡だ。


 昨日の夜のような雰囲気はすっかり窺えず、いつも大学で目にする素っ気なく冷たい表情の銀鏡。

 それが逆に、俺の心を落ち着かせてくれる。


「…………自意識過剰すぎるか。気にしても仕方ない」


 気持ちを整え、少しでも視線を減らすために教室後方の席へ向かう――


「柏木……あんた、更科に酷いことしてたのに、よくもぬけぬけと出席できるわね」


 刺々しい声が降りかかり、行く手を数人の男女が阻んだ。

 中心には更科がいて、俺も何度か話したことがある更科の友人が数人付き添う形で並んでいる。


 その誰もが俺を責め立てるかのような厳しい視線を向けていた。


「……酷いこと?」

「とぼけるつもり? ずっと更科に酷いことしてたんでしょっ!? 彼女を何だと思ってるのよっ!!」


 見るからに怒っていた女性が、いきなり俺の胸を突き飛ばす。

 身体に響く衝撃。

 あまり痛みはないが、危うく倒れるところだった。

 男と女で筋力に差があるとしても、いきなり暴力に訴えられれば驚くし、危険だ。


 もしこれで俺が怪我をしていたらこいつらはどうしたんだろう。

 ……どうもしないんだろうな。

 どうせ「全部あんたが悪いんだからね?」とか被害者面するに決まってる。


「あたしは大丈夫だから。どうせもう、柏木と関わることはないんだし」


 そこへ満を持して口を挟んでくるのは更科。

 あたかも自分は悪くありませんみたいな顔をしていて余計に腹が立つ。


「でも……」

「いいのいいの。これからは八雲先輩が守ってくれるんだから」


 更科が女友達へ笑みを投げると、渋々ながらこの場は引く判断をしたらしい。

 更科を筆頭として俺の周りから離れようとして。


「本当に懲りないですね、あなたは。人前で他者を貶めるのが楽しくて、癖になってしまったのですか?」


 毒を含んだ言葉の出どころは、銀鏡だ。

 昨日に続いて銀鏡が介入してきたことに更科たちも驚き脚を止める。


「……なによ、銀鏡さん。こいつの味方をするつもり?」

「わたしはあなたの行いに苦言を呈しているだけで、誰の味方でもありません。強いて言えば一般常識の味方ですかね。公共の場で騒がない……ましてや暴力を振るってはいけないなんて、今時小学生でも知っていると思いますよ」

「あたしが小学生以下だって言いたいの?」

「少なくとも褒められた行いをしているとは思えませんね」


 ぐるり、と銀鏡は教室へ視線を巡らせた。

 すると視線が合いそうだった人は全員露骨に目を逸らす。


 ただ見ているだけだった後ろめたさがあるのだろう。

 それを銀鏡に咎められてしまったわけだ。


 なにせ銀鏡は二回生におけるヒエラルキーの頂点に君臨している。

 本人に自覚がなくとも、そういう認識をしている人は多いだろう。


 彼女たちもそれは変わらないようで狼狽える素振りを見せていたが、ふと何かに気づいたかのように更科が口元に笑みを刻んだ。


「あ、わかった。銀鏡さん、もしかして柏木と出来てるんじゃない?」


 してやった、という風な表情。

 更科の言葉が波紋のように教室へ広がっていく。


 今度は銀鏡の表情が固まる番だった。


 俺も銀鏡もそんな事実は一切ないと理解している。

 けれど、この状況を目の当たりにした人が信じられるかは別の話。


 普通に考えたら俺なんかと銀鏡に接点がある方がおかしい。

 なのに二日も立て続けに銀鏡が俺と関わっていたら……疑いの目が向けられても仕方ない。


「はぁ……なにかと思えばそんなことですか」


 しかし銀鏡はため息をついて、淡々と返すだけ。


 その目には相手にするだけ無駄だった、という諦観が滲んでいるようだ。


「偶然、わたしの近くで目に余る話をするものですから、口を出さずにはいられなかっただけです。また、柏木さんと交際している事実も一切ありません」

「そりゃバレたくないからそう言うに決まってるでしょ」

「……あのですね、もし仮にわたしが柏木さんと交際していたとしましょう。その場合、あなたは自分が浮気することに夢中になって、パートナーの心が離れていたことにも気づけない間抜けか、繋ぎ止めるだけの魅力がない哀れな女性……ということになるのでは?」

「…………は?」


 眉間を押さえながら銀鏡が口にしたそれを聞いて、更科の顔が真っ赤に染まる。


 俺を嵌めようとした更科からすれば、自分が間抜けや魅力なしと評価されるのは不本意極まりないだろう。

 更科は地方出身の冴えない男子大学生の俺から、イケメンで将来性もありそうな八雲先輩に乗り換えた直後だ。


 怒り狂っていないだけ上出来と思うものの、火に油を注ぐかのように今度は銀鏡が更科へ頭を下げた。


「わたしとしたことが、つい不要なことまで口にしてしまいました。柏木さんの名前も勝手に出してしまって申し訳ありません」

「俺は別にいいけど……」

「……なんなのよ、あんた。意味わかんない」

「わたしもあなたのように非常識な方に理解していただきたいとは思いませんのでお互い様ですね」


 直球の否定にも皮肉交じりに微笑んで見せる銀鏡は、どこか恐ろしく見えてしまった。

 それですっかり更科たちも冷めたのだろう。

 俺たちから遠い席に纏まって陣取り、講義を待つことにするらしい。


 やっとピリピリした空気が和らいでくるものの、俺へ向けられる視線の多さはあまり変わらない。

 その理由にも見当がつくため、大変居心地が悪かった。


「……一限からこれとかやってられるか」


 思わず思考が言葉として漏れてしまう。


 それにしても……また銀鏡に助けられるとは思わなかった。

 後でちゃんとお礼をしないとな。

 銀鏡は望まないかもしれないけど、俺がそうしないと気が済まない。


 幸いなことに機会はそのうち訪れるわけだし。


 そんなことを考えているとスマホが通知を伝えた。

 相手は……なんと、銀鏡だった。

 内容は『今日の午後は空いていますか?』という簡潔なもの。


 それが意味するのは単純明快、遊びのお誘いだ。


 ……本気だったんだな、銀鏡。


 僅かながら騙されている可能性も頭の片隅にあったから、翌日にお誘いが来たことへ驚いてしまう。

 けれど約束を破る気はない。

 今日はバイトがないから授業が終われば帰って家で一人の時間を過ごすだけ。


 銀鏡のそれに付き合う暇はじゅうぶんある。


 すぐさま『大丈夫だ』と返して、ちらりと横目で様子を窺う。


 いつもと変わらない銀鏡の薄い表情。

 かと思えば俺の視線に気づいたのか、こちらを一瞬だけ向いて――口元だけで笑って見せる。


 そして再び通知を伝えるスマホ。


『授業、集中してくださいね』


 ……何もかも手のひらの上ってか?


 敵には回したくないな、本当に。

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