一話
ヲルトと合流する
2024年1月30日。
それは例年にも増して素肌が火傷するかのように寒い早朝だった。
そんな酷く寒い朝でも警察ともなると動かなければならない。
刑事課から、たった一人しかいない公安の特殊捜査班に転属させられて32年にもなる呂畑ヲルトともなると尚更といったところか。
ヲルトは事件の現場に足を踏み入れると白い息と共にため息を深々と吐き出した。
現場、というのはただの現場ではない。
確かに築数ヶ月も経たない灰色の新築の住宅と、綺麗に手入れされて緑が覆うベランダは普通の住居とも言える。
しかし、玄関の扉を出てリビングに入るや否や、その異常を突きつけられる。
そこには、リビングとキッチンを覆うほどの蜘蛛の巣が張り巡らされていた。
それもまた白い糸でアシダカグモが作りそうなほどに綺麗に角を描いた蜘蛛の巣であるが、人間が握り潰せるほどの蜘蛛が、そんな芸当を出来るわけがあるだろうか?
また、床に横たわるものもあった。
それは一見すると繭のようにも見えるが、明らかに違う。
確かに白く、糸で分厚く巻きつけられた印象を受ける。
だが還暦間近のヲルトほどの長さもある繭が、果たしてこの世に存在するというのだろうか?
いや、とヲルトは心の内で反論する。
なにせ怪物を知る数少ない人類の一人であるヲルトにとって、このような奇々怪界な現象は日常茶飯事なのだから。
「今回もまた、ひでえ現場だな」
ヲルトは細長い繭もどきを目にすると、静かに手を合わせてから目を瞑る。そうして心のうちで唱えてから、目を開けてリビングを見渡す。
「…………まだこの家にいるのか、
「それはないよ」
ヲルトの独り言に対して、言葉を返す女の声。
それはヲルトの背後からだった。
そしてそれは聞き慣れた女の声。
ヲルトはため息を吐きながら、振り返った。
そこには、奇妙な女がいた。
金髪に染め上げられた、背中まで伸びる髪。
袖も通さずに羽織るだけの、黒いコート。
だが何より奇妙なのは……血管が浮き出るほどに不気味な白い肌、包帯を巻き付けた右腕、彫りの深い顔に金色の瞳。
しかしヲルトは彼女が誰かを知っている。
なにせ彼女を封印から解き放って以来、24年もの付き合いがあるのだから。
「イブ」
「遅れて悪かったね、呂畑さん。蘭ちゃんのところに顔を見せていたんだ」
「あぁ、
「蘭ちゃんのおかげでなんとかさね。厄介だったよ。しかしああいうのは一体でも残していたら、また埃のように増えていくからねぇ。蘭ちゃんが焼却弾を作ってくれて助かったよ」
「また物騒なものを……」
「これも必要悪みたいなもんさ。私みたいなものさね」
「まぁ……確かにそりゃそうだが」
しかしイブや
人類は未だにその解決策に活路を見出すことは出来ていない。
1992年。怪物が大量に出現したあの頃から。
あの頃から
それは皺だらけの自分の手を見ても、そう感じる。
「なに、今回もさくっと掃除すればいいだけさね。埃はさっさと掃除するに限るよ」
「しかし、どうする?」
「こうするさね」
イブはそう言ってからヲルトを追い越すように歩き、張り巡らせた蜘蛛の巣を───右手で裂いた。
「な───」
突発的な行動。
蜘蛛の巣は、ただの繋がりを持たない糸に変わってフローリングの地面にだらりと落ちていく。
その糸は無論、繭もどきにもかかっていく。
「何してんだよ、現場を保存することは刑事の鉄則で───」
「言ったろ?埃は取り除くべきなんだって。こんなに綺麗な家に、こんな汚いものを張り巡らせる通りがどこにあるっていうんだい、呂畑さん」
「お前の言い分も分かるけどな……だが」
「蜘蛛の巣なんだから、蜘蛛がいるかも知れないっていうんだろ?大丈夫だよ。思うにここはゆっくり食事して出ていった後だ。多分戻ってくることはないよ」
「どうして分かる?」
「なんとなくさね」
イブはそう言って、今度は繭もどきの前に近づく。
歩くたびにねちょりと白い糸が黒い革靴の底についていくが、イブは気にせず歩き、繭もどきの前に膝をつく。
「それよりも先にこの人をどうにかしてあげないとね」
「よせよ、もう死んでいる。そのまま眠らせておけ」
「私もそれには同意見さね。だがね、蜘蛛の糸に塗れて死んだままなんて、可哀想じゃあないか。人間っていうのは人間らしく死ななくちゃいけないのに」
「……人間らしく死ぬって言われてもな。この怪物たちが潜んでいる限りは、そんなことも言えないだろ」
「そんなことはないよ。だから私のように怪物を裁定する存在っていうのも必要なんだよ」
そう言いながらイブは繭もどきの糸を右腕で掴むと、そのまま勢いよく引きちぎった。
白い糸で何重にも巻かれており、さらには粘着性も高いせいで人間では用意には解けないものであるにも関わらず、イブはあっさりと引きちぎって見せた。
そしてその中には……無論、変わり果てた人間の姿があった。
変わり果てた、女の姿が。
「……仏さんの姿もひでえもんだな」
ヲルトはそう言って再び、両手を合わせる。
イブは、意識はなくとも女の無念な感情を感じ取るように目を閉じ、そして開いた。
その金色の瞳を。
「仇はちゃんと取ってやるよ……生まれ出されたことを後悔させるぐらいに」
両手を離したヲルトは、イブの感情を感じ取っていた。
その怒りの感情を。
しかし、一方では呆れていた。
なにせイブという女は……女が被害にあうと見境がなくなる時があるのだから。
どうしてそうなるのかは、未だに知らないが。
「しかし食い方まで蜘蛛と一緒か。そうなると日中は厄介だな」
「……どうしてだい?」
イブは首を傾げながら、その金色の瞳をヲルトへと向けた。
「知らねえのかよ。蜘蛛っていうのは夜行性なんだよ。日中は大人しく隠れて過ごして、夜になったら活発に行動して獲物を捕らえる。そんで食事する時は相手を糸で捕まえて、その体液を根こそぎ取っちまうんだよ……その仏さんみたいにな」
「じゃあ今みたいな時間は動かないってことかい?」
「蜘蛛とほとんど同じならな」
「じゃあ先に見つけて、おとなしい内に殺せばいいんじゃないかい?」
「バカを言うなよ。姿形も分からない正体不明の相手をどう見つければ……」
そう言ってふとヲルトは下を向いた。
正体不明であるが、物的証拠は残っている。
蜘蛛の糸を。
「この糸があれば、その成分を解析して、よしんばその蜘蛛を辿るって方法があるな」
「それは名案さね。で?誰が解析するんだい?今の警察でそんなことできるのかい?もしくは科捜研?」
「科捜研は怪物以外の人間絡みの事件で構っちゃくれねえよ。よしんば依頼したところで、結果が出るのは数日後だ。沢口靖子だって、事件解決するのに数日かかってるだろ」
「そりゃそうだ。なら私たちは岸田森の手を借りようじゃあないか」
「お前……もしかして怪奇大作戦かよ……どんだけ古いんだよ」
「まぁ、そういいなさんな。怪物絡みは蘭ちゃんに頼るのが一番だよ……寝てなければね」
そう言ってイブは黒いデニムからスマートフォンを取り出してから、意気揚々に電話をかける。
「
「どうも太陽が出る時間が苦手らしくてね。おっと、別に吸血鬼だからじゃあないさ」
「血人種と吸血鬼ってなんか違いがあるのか?」
「血人種は血を飲むだけの人間さね。吸血鬼はなんでもありの蝙蝠怪人ってわけさ……と」
イブは言い切ったところで電話の向こう側……つまり蘭と話を始めた。
しかしどうにも電話の奥から聞こえるのは罵詈雑言の嵐であり、ヲルトは思わずため息を吐く。
「ごめんごめん、蘭ちゃん。また蘭ちゃんの力を借りたいんだ」
しかしその言葉の返事が、ヲルトには否定の言葉に聞こえていた。
なにせスマートフォンのスピーカーから聞こえる蘭の声はかなり苛立っていた。それは何もこんな早朝から起こされた苛立ちだけではなく、昨夜の事件についてもイブがしでかしたらしく、その怒りをぶつけれているようだった。
「毎回申し訳ないね。そうだ、お詫びにさ。今度うちのバーで出してる酒を飲ませてあげるさね。もちろん無料。この前、年代物のウイスキーが手に入ってね。よければそれをご馳走するよ。どうだい?」
イブがそう言うと、蘭は急に大人しくなった。
どうやら部類の酒好きらしく、特に年代物という言葉には弱いらしい。
こう聞くと人間と変わりはないなと思うヲルトをよそに、蘭は電話の向こう側で今回の趣旨を尋ねていた。
「ちょいと昆虫採集に出かけようと思ってね」
「蜘蛛は昆虫じゃなくて、正確には節足動物だぞ」
「おや、そうなのかい?意外と物知りだね、ヲルトさんは」
「小学校で習うだろ、そんなもん」
「小学校の頃の記憶なんてあったかねぇ。子どもの頃の記憶はいくらでもあるんだがね」
「そんなことはいいから香美蘭にさっさと事情を伝えろよ」
そう言われたイブは蜘蛛の捜索について、改めて電話の向こう側の蘭に説明していく。
そう聞くと、蘭の深いため息が電話口から聞こえた。
……
そうこうして、やがて電話を終えてからイブはスマートフォンをデニムのポケットに戻すや否や、開口一番に言った。
「本当にチョロい女だよ。ま、そこが蘭ちゃんの可愛いところなんだがね」
「よせよ、可哀想に。で?引き受けてくれるんだろ?」
「こっちの場所を伝えたらすぐに来てくれるって言ってくれたよ。本当にいい女だね、蘭ちゃんは。体つきも最高だし」
「おっさんみたいなこと言うんじゃねえよ」
「おやおや、蘭ちゃんの体のことで何も言わないのはヲルトさんぐらいなものさね」
「言うわけねえだろ。仕事相手だぞ」
「本当は抱きたいくせに」
「中年になるとそんな欲は消え失せちまうんだよ」
実際のところ、さすがに人間じゃない相手とセックスはしたくないという本能が働いているヲルトだが、それを言うと話が拗れる気もするのでヲルトは口を紡いだ。
「さてと、蘭ちゃんは1時間後にここに来てくれるみたいだから、それまでに掃除でもしてやろうかね」
「掃除?」
イブの急な言葉にヲルトは首を傾げた。
「掃除だよ。埃は一つでも残しちゃいけないって言ったじゃないか」
「……あぁ、そういうことか」
ヲルトはリビングに伸びた蜘蛛の巣の残骸を見て、納得した。
「本当に嫌な世の中になっちまったよ」
「全くだよ。ま、人間じゃない私が言うのもなんだがね」
イブはそう笑いながら返すと、床に落ちている糸をゆっくりと拾い上げ始めた。
……こう見てると人間には違いない。
そうヲルトは思える。
当たり前だ。格好こそ目立ち、その白すぎる肌には違和感を感じるが、その姿は人間だ。
だがヲルトは彼女が人間でないことを理解している。
その所以たる包帯を巻きつけた右腕を見つめながら、ヲルトは見つめていた。
……それから。
寝不足に苛まれて目に酷い
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