イブの激情に苛まれる日々、そして……

那埜

序章『堕天』

少女と出会う


 電車の窓から見える夕焼けの赤い景色が、席が全て埋まっていた電車の中で鳴羅彩子なるらさいこには灰色に見えていた。


 席に座る少女……鳴羅彩子なるらさいこなる一風変わった名前を持つ16才の少女は多感な青春時代を過ごすはずのが、灰色の青春を送ることを余儀なくされていた。


 そう分からせるように……全てを拒絶させられたように痩せこけているし、煤埃で汚れた白を基調とした長袖の制服の下は……青冷めたように白い。それに加えて彩子は現実に痛めつけられるように全身が痣だらけだった。


 背中まで伸びた黒髪は彩子から逃げるように飛び跳ねていて、少女らしい可憐さも失われたように汚らしい。左腕は包帯を巻いて三角巾で首からぶら下げられてるし、右目は眼帯を付けさせられている。それに制服の下はあざだらけで、素肌も相まって赤っぽい跡が痛々しく見えていた。


 世界というのは、彼女を好ましく思っていないのだろう、まるで縮こまったように低い身長の彼女だが、誰も手を差し伸べるものはいなかった。


 唯一の家族である義父にも、同じクラスの人間にも、無論、この電車に乗っている人間にも、誰にも見聞きされてはいない。

 その証拠に電車に乗る誰も、彩子の姿を見ようとはしない。

 

 しかし、それは致し方ないことだろう。

 誰も赤の他人に触れようとはしないものだ。特に目に見えて問題を抱えているこの少女を。この問題だらけの現代社会を見せつけてくる日本では、誰も彩子の問題を抱えることなど、出来はしない。

 誰もが俯いている、俯いてスマートフォンを眺める。隣の親しきものと話に洒落込む。まさしく灰色の景色。

 彩子の黒い瞳が、世界を灰色に見えるのも仕方のないことだった。

 

 だが仕方のないことだということは、彩子にはわかっている。

 誰も自分のような存在を助けようとはしてくれないことに。

 そこに失望だとか絶望はない。ただ諦めているだけだ。

 彩子は満席となった席を、その黒い瞳で見つめていた、ちょうどその時だった。


「大丈夫かい?」


 それは陽気なようにも聞こえて、自分の存在をはっきりと告げているようなしっくりする声だった。

 彩子は黒い瞳に映り込んだ、腰までかかる黒コートの人物の顔を見上げた。


「ん?」


 物重たく感じる黒コートを袖にも通さず、ただ羽織っただけの人物は……女性だった。


「かなり痛々しい姿をしているね。綺麗な顔をしているのに、もったいないねぇ」


 まるで口説くような素振りを見せる女性をその目で見つめた時、彩子はその黒い瞳を凝らした。

 そして、その灰色の景色にただ一色───金色に色塗られるような気がした。

 おそらくはその腰までまっすぐと伸びた、飾り物もしないブロンド髪がそうさせているのだろう。

 だが彩子はそれだけではないと思ってしまう。


「……本当に大丈夫かい?私でよければ、話を聴くさね」


 その女もまた、怪我をしているように見えた。

 電車の吊り革よりも高い身長、彫りの深い外国人のような顔つき……だがそれよりも。

 その青白くもあり純白でもある素肌、がんじがらめに巻きつけた右腕の包帯。彩子はそれがいたくたまらずにいた。

 だから彩子は、とたん、立ち上がった。


「おっと」


 彩子に合わせるように一歩引いた女は揺れる電車の中なれど動ずることなく、直立したまま、彩子を自分の懐に招きいれるように抱き寄せた。

 その指の先端まで包帯で巻かれた右腕で。

 抱き寄せられ、全てを受け入れるように豊満な胸に思わず埋めてしまった時、彩子は感じた。

 女の体は、自分の心をさらにめさせるほどに冷たかった。

 しかしその包帯に巻かれた右腕だけは……彼女の本心を語るように熱かった。


「おいおいおいおい。見た目に反して情熱的じゃあないか」


 女の劣情めいた言葉はさておき、揺れる電車の中でなんとか彼女から一歩退くと、その左手で空いた席へと手を向けて言った。


「あ、あの……座ってください」

「ん?」


 女は首を傾げるしかなかった。


「なんでさね」

「だ、だって……怪我をされてるから……」


 彩子は無意識に黒い瞳で、その包帯が巻き付いた女の腕を見つめる。

 その向いた首の方向で女は直感し、そして……電車に響き渡るほどに大きく笑った。

 誰もがその苛立った視線を向けても、気にすることなく女は「ははは」と笑った。


「え……えーと……」

「いやいや、お嬢ちゃん。自分がどういう状態かわかっているのかい?」

「えっと……どういう状態でしょうか?」

「お嬢ちゃん、怪我をしているじゃあないか」

「で、でも」

「でも?」


 幼さを感じさせる小さな彩子の声は、やっとの想いで女に告げた。


「け、怪我をされてるから……あなたは……」

「怪我?私のどこを見て───」


 そう言って女は気付いた。

 包帯を巻きつけた自分の腕を。

 自分では思わない、されど他人であれば怪我をしていると思っているだろう、その自身の右腕を。

 ふと金色の瞳で、包帯で巻きつけて封印した自分の右腕を一瞥した途端───女は爆笑した。

 高く響きわたり、誰も目を向けようとしなかったのに、客たちは一斉にその女を見つめたが、笑い声が聞こえなくなるとまた自分の世界に戻っていく。

 されど女は気にすることはなく、ただ目の前の儚げの少女を見て答えた。


「この包帯のことを言ってるのかい?勘違いさせて悪いさね。これは怪我をしてるわけじゃあないんだよ。ま、ちょっと持病みたいなものだがね、けどこうしていると浪漫に溢れているだろう?」

「浪漫……ですか?」


 彩子さいこはその発言に首を傾げるしかなかった。

 怪我は怪我だ、痛々しいし、辛いし、見栄えもいいものでもない。

 しかし女はその包帯で巻きつけた右腕を見せつけるように、まるで自らを示し、見せつけるシンボルのような扱いをしていた。


「ま、私の方はどうでもいいさね」


 女はそう言って、その包帯で巻きつけた熱い腕で彩子の肩を優しく掴むと、促すように席へと戻した。


「お嬢ちゃんの方がよほど席に座った方がいいさね。あんたみたいに綺麗な顔をした可憐な少女が私のような奴に席を譲るなんて勿体無いことさね。その席は今はお嬢ちゃんの物だよ」

「い、いえ。私は大丈夫です……別に席に座らなくても。今日はたまたま空いてたから座ってただけですし……私なんか別に立ってても」

「それはよくないよ、お嬢ちゃん。席っていうのは誰かが座る為に用意されたものなんだよ。誰にだって座る権利はある。無論、お嬢ちゃんにもね。それにそれだけ怪我をしている人間には当然の権利なんだ。だから席に座ってゆっくりとしておくれよ」

「でも……」


 彩子は今だにその右腕の包帯を見つめていた。

 自分はそれ以上に包帯を巻きつけているのに。

 だが痛みを知る点では自分とこの金色の女は同じ、だから彩子はどこか意固地になってしまっている部分があった。


「優しいお嬢ちゃんだね」


 金色の女はにっと微笑み、続けた。


「私は本当に大丈夫さね、座らなくて。私には座る席はいらないからね。それに」

「それに?」

「そろそろ目的地だからね」


 ───次は×××駅。次は×××駅。


 まるで見計らったように電車の中で車掌の声が響き渡った。

 金色の女は、するとその高すぎる身長を降ろし、彩子に膝まつくように座った。

 そうして彩子の右手を握った。

 包帯が巻き付いた腕ではなく、素肌を白く晒した左腕で。


「お嬢ちゃんの手、冷たいねぇ。でも知ってるかい?肌の冷たい人間の方が、優しい奴が多いんだ」


 彩子の右手を通じて感じる、金色の左腕の体温を。

 それはやはり、冷たく感じる。

 自分の体温すら侵食するほど、冷たく。

 肌と肌が触れ合えば、相乗するように徐々に温かくなっていく物だが、それすらも感じられない。まるで人間に触っている感触ではない。

 まるで……と彩子は思ってしまう。


「お嬢ちゃん、名前は?」

「名前?」


 されど死者は喋ることはない。


「こうして生きてるんだから名前はあるだろ?覚えておきたいんだ、こうして私に話しかけてくれたの名前を。お嬢ちゃんお嬢ちゃんだけじゃ味気ないからねぇ」


 自分なんかの名前でよければ。

 彩子は軽い気持ちで答えた。

 「鳴羅彩子なるらさいこ、です」と。


「ふーん、いい名前さね。彩子さいこちゃん、か」


 女はまるで噛み締めるように言って、笑った。

 そして金色の女は言った。


「私の名前はイブ。ただのイブさね」


 まるで自分の名前に興味がないように、まるで流すように、そう、さらりと言ってのけて───電車は止まった。


「彩子ちゃん、またどこかで」


 そう言って立ち上がってから黒コートをひらりと舞わせるように振り向き、イブはその後ろ姿を彩子さいこの黒い瞳に見せつけながら、電車の降り口へと去っていく。


 その長身で心身共に見せつけるような存在感を放つイブの姿を見て、彩子さいこはふと、呟いた。


「……変な人」


 灰色の景色にあった金色の姿は、徐々に小さくなっていった。

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