蜘蛛人間と戦う
2024年1月30日。
寒空の太陽がいよいよ真上に昇り、全てを照らすような時間。
太陽は街から少し離れた、黒ずみと赤錆に塗れた大きな倉庫をも照らしていた。
その倉庫というのは「売地」の文字が掠れた看板が打ち付けられた建物だった。
すっかり誰もいなくなってしまい、手付かずの場所はまさに隠れるのには打ってつけだった。
例えば、そう……怪物だとか。
その証拠にひび割れた窓に似合うような小さな蜘蛛の巣が張り巡らされているし、穴だらけのシャッターにはところどころ見知った蜘蛛が這っている。
まさに雲隠れするには打ってつけの場所かもしれないと倉庫の前に到着していたヲルトはふと思ってしまう。
その隣でイブは耳にも掛かる長い金髪を触りながら言った。
「さすがだね、蘭ちゃんは。短時間で見つけちまうなんてさ。いい子いい子してあげなきゃねぇ」
「そんな子どもみたいなことしたら、
「私から見れば全員子どもみたいなものさね」
いつも通りの飄々とした態度でにっと笑ったイブは閉め切ったシャッターの前に立つ。
とはいえ穴だらけだから、もはやシャッターの意味を成してはいない。
その隙間からイブは金色の瞳で、中を覗く。
寂れた倉庫とはいえ、その中はとても広い。
今となっては何をしまっていたかは分からないが、大きな荷物をしまうような倉庫だということは容易に想像がついた。
「なにか見えるか?」
「いいや、何も見えないねぇ。倉庫の中はどうも暗闇みたいだ」
「薄気味悪いところだ。まぁ、蜘蛛なんかがいるにはピッタリの場所だな」
「そうさねぇ。戦うにはピッタリの場所だ」
「あまり派手にやらかしてくれるなよ」
ヲルトはそう心配そうな面持ちをして、イブに言いかけた。
だがその心配の対象はイブではない。
……建物に対しての不安だった。
「それは保証できないねぇ。戦いっていうのは周りを気にしていちゃあ成り立たないからね」
「それを気にしてくれよ。上からとやかく言われるのは俺なんだよ」
「細かい奴らだねぇ。せっかく怪物退治をしてやってるのに」
「ま、細かいことでも見逃さないのはいいことだと思うがな」
「それもそうだ」
イブはそう言って包帯が巻かれた右腕であっさりとそのシャッターを開く。
ぎぎぎ、という嫌な音を撒き散らしながら。
それはさも、自ら怪物がいることを告げているような、不快音。
「ヲルトさんはここにいておくれよ」
「言われなくてもそうさせてもらうさ。お前さんの戦いに付き合ってると人間である俺はすぐ死ぬからな」
「いやいや、ヲルトさんは役に立ってるよ。こうして見張り番をしてくれてるんだからね」
「嫌味かよ。俺が言っても何も出来ねえからって」
「誰もそんなこと言ってないじゃあないか。私から見たらバットマンのアルフレッドぐらいには役立ってるよ」
「低い給料のせいで毎月金欠だけどな、バッドウーマン。さっさと殺してこい」
「つれないねぇ」
イブはヲルトに対して笑みを浮かべながら、シャッターの奥へと入っていく。
ヲルトはただその後ろ姿を見つめる。
……その黒が続く空間へと。
ヲルトは感じる。
中には入らずとも分かる。その異質さに。
イブがシャッターの奥へと入っていった、瞬間。その姿は突如として見えなくなった。
その瞬間からヲルトは大いなる不安を感じていた。
そしてその不安を、ヲルトはすぐに直面する。
───シャッターが開かれた入り口が突然、束ねられた白い糸で覆われた。
♢
倉庫の中は、黒一色だった。
使われておらず、中は錆だらけだろうということはイブにも分かる。
だが日中にも関わらず、太陽の光は届いていなかった。
イブは金色の瞳で、倉庫の内部を見つめる。
……変、だね。
暗すぎる。
この倉庫には窓があった。だから太陽の光も差し込むはずなのに、それもない。それどころか、シャッターが開かれた入り口も閉ざされているような気がする。
それに歩いていても、その違和感を感じることができた。
ねちゃり、ねちゃりと何かを踏み潰す感覚。
それはまるで何か粘着物を踏み潰したような感覚だった。
そして、音。
ききき、ききき、と音がする。
それはまるで虫が関節を動かしながら歩くような音。
それは真上から聞こえていた。
ねちゃり。
イブは立ち止まる。
すると、ききき、という音は聞こえなくなった。
「いるね」
イブはその金色の瞳を真上に向けた。
そして、その瞳は黒一色の空間でありながら、はっきりとその存在を見つけた。
意図的に真っ白に敷き詰められた天井、その上を這うように立つ、異形の存在、今回の事件の首謀者。
「───蜘蛛人間かい?」
イブが適当に名付けた怪物の姿は実に奇々怪界だった。
上半身の胴体と顔は人間のような細身な体つき。
だがその腕は虫、あるいは蜘蛛のように細く鋭く伸びる。
その下半身はまさしく蜘蛛。
だが蜘蛛と違うのは八本脚ではなく、六本脚の蜘蛛。
否。
上半身の腕が脚の代わりとして天井に伸びる。
すなわち八本脚の蜘蛛。
すなわち蜘蛛人間。
『しぃぃぃ……』
蜘蛛人間は鳴いた。威嚇の意味も込めて。
それは当然だろう。自分の縄張りに誰かが来たのだ。
そして、金色の瞳で見つめる存在を、その瞳のない金色の目で蜘蛛人間は見つめる。
その金色の瞳から感じ取る……殺意に。
『しゃあぁぁぁぁ!』
蜘蛛人間は叫んだ。
それはすぐに激情に変わる。
殺意という激情に。
「おやおや。自分は勝手に人の家に土足で上がり込んだ挙句にあんだけ酷いことをしておいて、いざ自分が同じ目に合うとそんな態度をとるのかい。理不尽極まりないね」
イブは飄々とした態度を徐々に変えていく。
なにせ彼女もまた静かに激情を感じていた。
怪物が人間の社会に入り込んで、人間を餌にする。
そのことも許せないことではある。
しかし特に許せないことは……女を殺されたこと。
「生きていれば、いい女だったことには間違いないのに殺してくれちゃってさぁ……」
その声は徐々に低くなっていく。
いつものような飄々とした軽い態度は、ない。
「普通殺すかね?女だよ?女。殺すってことは愉しみを失くすってことなんだよ。分かるかい、あんたに?あぁ、悪い。分かるわけないか。怪物如きが」
『ッ!?』
怪物如き。
蜘蛛人間はその言葉の意味を理解していた。
すなわち、自分が下に見られているということ。
普通の人間であれば、自らを恐怖の対象とみなし、そして屈服する。
しかし、地面に立つ女はそれすら感じない。
まるで自分を殺せる圧倒的な自信さえ感じさせる。
『しゃあぁぁぁ!』
だか蜘蛛人間は怪物の如き、怒りの声をあげ、口裂け女のように口を開いて放出した───白い糸を。
それは一本だけではない。その口からクラッカーの糸のように何本も真上から放出させる。
イブはそれを避けることなく、ただ浴び続けた。
「…………」
それもまた、奇妙な光景だった。
天井からまっすぐに降る蜘蛛の糸はイブへと螺旋状に絡まっていき、蜘蛛が蜘蛛の巣が作るかの如く、イブを白に巻きつけていく。
そうするとイブの体は、今朝見た死体の如く繭もどきのように白に覆われてしまう。
「…………」
無言。
その様子に蜘蛛人間は実に高揚していた。
なにせ繭もどきになってしまったもので抜け出した者はいない。
粘着質の糸に巻きつけられ体の自由を無くし、抵抗すらできなくなる。
そうなれば最期は自分の餌として末路を迎える。
『しゃっしゃっしゃっ……』
蜘蛛人間は、笑った。
やはり口ほどでもなかった、と。
どんな人間でも、最期にはこうなると。
地面に脚を着くしか出来ない人間に、自分へは一生届かない、と。
人間という存在を内心で嘲笑しながら、蜘蛛人間はその下半身にある蜘蛛の腹部に類似した箇所から白い糸を一本、たらりと天井につけると
静かに地面へと降りていく。
無論、イブを餌とする為。
そうして地面に降り立ち、蜘蛛の下半身で繭もどきの前に立つと、食事に生き急ぐかのように蜘蛛人間はその腕の先を───突き刺した。
おそらくは心臓の位置だろうか、その箇所へと。
『しゃっしゃっしゃっ……』
嘲笑。
あとはその養分を蜘蛛のように奪うだけ。
そう考えていた───しかし、後悔した。
『しゃあぁぁぁぁぁぁぁ』
不味い。
蜘蛛人間はその体でじっくりと味を感じてしまった。
それは美食極める人間の味とは到底思えない味だった。
言ってしまえば……ありとあらゆる残飯をごった煮にした不快な味。
これは本当に人間なのか?
姿形は間違いなく人間だ。
だが……この不味さは人間ではない。
まるで───怪物の味。
「不味いだろ?そりゃそうだ。人間じゃないからねぇ」
そして、声。
聞こえるはずもない、声。
先ほどまで聞いていた飄々とした声。
「前にも言われたよ。私を噛んできた狼男がいてねぇ。そしたらそいつ、私を前にして「不味い」って言ってきたんだ。まぁ、不味いだろうとは思っていたんだがねぇ。しかもレストランの残飯をかき混ぜて鍋にした味とか言いやがる。まぁ、そいつも人間を殺した外道卑劣な奴だったんで殺したがね」
その声ははっきりと繭もどきから聞こえる。
その声に蜘蛛人間は……思わず震えた。
そしてはっきりと思った。
こいつは怪物だと。
人間の皮を被った怪物だと。
逃げよう。すぐに逃げよう。
蜘蛛人間は微塵も情けなさを感じることなく、腕をあっさりと引き抜いた。
その先端は間違いなく、赤に染まっている。
人間のような濃い赤。
違う。人間じゃない。
そうして蜘蛛人間は繭もどきに背を向けた。
その時だった。
ぶちっ、と何かが切れる音。
そして───蜘蛛人間の胴体が突然貫かれた。
「しゃあぁぁぁぁぁぁ……?」
蜘蛛人間はその金色の目で貫いたものを見つめた。
それは筋肉質で太い、腕。黒い腕。
その腕の正体が蜘蛛人間には皆目検討がつかなかった。
なにせ黒い腕を持つ存在はこの空間には入り込んでいない。
入り込んだのは、金髪の女、ただ一人。
そんなわけがない。
そんなわけがないと、ゆっくりと頭を後ろに振り向けようとした時。
「死ねよ」
声。
金髪の女の声。
繭から突き破ってでたイブがその黒く太い右手をあっさりと蜘蛛人間の体から引き抜き、そして全身の力を込めるように───押し出した。
「しゃ───」
蜘蛛人間が声を上げようとした瞬間だった。
───その白い体は赤混じりになって、一直線に吹き飛ばされた。
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