第16話

次の瞬間、僕は奥歯を噛み締めて玄関へ向けて一歩踏み出していた。

右手を伸ばしてドアノブを掴む。

しっかりと鍵がかけられているようで、びくともしない。


そんなことをしている間にも中からは怒鳴り声と無き声が聞こえてくる。

その声を聞いていると焦りが浮かんできて、僕はすぐに玄関チャイムを押した。


家の中からチャイム音が聞こえてくるけれど、誰も出てくる気配はない。

だけど怒鳴り声は消えて静かになった。

きっと突然の来客に警戒しているんだろう。


もう1度チャイムを鳴らすと、ようやく足音が玄関へと近づいてきた。

「はぁい」

と、女性の明るい声が聞こえてきて僕の背筋がゾクリと震える。


ついさっきまであれほど怒鳴っていた声が、今は外行きの声に変わっている。

「どなた?」

少しだけドアが開いて中から女性が顔を出す。


僕の母親と同じくらいの人のはずだけれど功介の母親はとてもふっくらした人で、目や鼻が脂肪に覆われていて年齢がわからない。


「あ、あの、僕功介くんと同じ学校の者です。今日は功介くんと一緒に登校しようと思って呼びに来たんですけど、いますか?」

緊張で声が震えて嘘がバレてしまうんじゃないかとヒヤヒヤした。


功介の母親はまじまじと僕の顔を見た後、ニッコリと微笑んだ。

「あら、そうなの」

そう言うとドアのチェーンを外して玄関を大きく開いてくれた。


ホッとしたのもつかの間、玄関先に乱雑に重なっている靴やゴミ袋を見て僕は言葉を失った。

玄関先だけじゃない、その奥に続いている廊下にもゴミが渦高く積み上げられていて、生ゴミが腐ったような匂いが漂っている。


僕は思わず鼻をつまんでしまいそうになったが、必死で我慢した。

テレビとかで見たことのあるゴミ屋敷が、今目の前にある。


この家のゴミはまだ庭まで出てきていないというだけで、足の踏み場はなかった。

「あんたぁ!」

途端に母親が大きな声で父親を呼んだ。


「なんだよ」

奥の部屋から出てきたのは大きな体をした男性だった。

こちらも年齢がわからないくらい太っていて、僕は思わず後ずさりをしてしまう。


「お、おはようございます」

僕は引きつった笑顔を浮かべてどうにか挨拶をする。

父親も母親も大きいのは肉のせいだけじゃない。


その下にしっかりと筋肉がついているのがわかった。

「この子、功介を呼びに来たんだってよ」

母親の声はさっきまでの外行きのものではなくなり、すでにあの怒号を同じ声色になっていた。


嫌な予感に背中に汗が流れていく。

「ほぉ。功介を?」

父親がまるで面白いオモチャをみつけたように目を輝かせて僕を見る。


ここにいちゃまずい。

そう思ったとき、父親の後方、開け放たれたドアの向こうの部屋に小さくうずくまっている女の子の姿を見つけた。


小学校3年生くらいの少女はランドセルを抱きしめるようにしてうずくまり、こちらを見ている。

あれがカンナちゃん!?


「面白い客が来たもんだなぁ」

父親がニヤニヤと笑いながら大股で近づいてくる。

大柄が父親が歩くたびに左右に積み重ねられていたゴミの山が崩れ落ちる。


ナイロン袋の中から汁の入った容器が廊下へ落下しても、誰も気にする様子はなかった。

ずんずん近づいてくる父親に僕はチラリと後方のドアへ視線を向ける。


今ならまだ玄関ドアから逃げることができる。

でも……。

一瞬見えたカンナちゃんの姿が脳裏から離れなかった。


自分の家だというのに怯えきった顔をして、助けてほしそうにこちらを見ていた。

あのままあの子をおいていくわけにはいかない。


「まぁ、ちょっと上がっていけよ」

父親がそう声をかけてきたとき、僕は靴も脱がずに家に上がり込んでいた。

ゴミの上に登りそのままカンナちゃんがいた部屋へと走る。


父親が両手を伸ばして僕の体をつかもうとするから、僕はその瞬間にゴミの間から飛び降りて今度は廊下を走った。

沢山のゴミが散乱していて何度もすべて転びそうになりながらもカンナちゃんがいる部屋に滑り込んだ。


ここはダイニングキッチンのようだけれど、やはり同じようにあちこちにゴミが積み上げられている。

「カンナちゃん、行こう」


僕は震えているカンナちゃんの手を掴んで引っ張った。

カンナちゃんはよろけながらもどうにか立ち上がる。


「この、クソガキが! カンナを離せぇ!」

後方から怒号が追いかけてきても足を止めるわけにはいかなかった。


一番大きな窓まで一直線に走り、鍵を開くと草が生え放題の庭へと飛び降りる。

カンナちゃんが素足なことに気がついたけれど、靴を取りに行くような真似はできない。


庭草を踏みつけてどうにか塀の外へ出るとようやく走りやすくなる。

「一番近くの交番まで行くからね」

走りながら声をかけると、カンナちゃんは唇をギュッと引き結んだまま大きく頷いたのだった。


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