第32話 月の影 見上げる太陽③

 美登里さんの言葉をお姉さんは否定しなかった。


「痛いものを持ってるまんまの者は、周りの者をやたらめったに傷つけていくなぁ。本人だけが気付いてないんよねぇ。生まれながらの悪人でも無くて、傷付いてるだけやの。私がそうやもの……。でも、うまく出来ないんよね。生きてくの」


「幸せな野郎だね。憎まれてないんだから」


 美登里さんが言った。


「誰かのことをいつか信じられるようになったらええねぇ。あの人も。私は私の作ってる嘘の毎日の中に居る私に気を向けてくれたっていうことだけにすがろうとしてただけよ。嘘女が嘘男と出会っただけの話。今までの人生ろくなもんじゃ無かったからなぁ、私も。他者ひとも自分も騙して、誤魔化して、逃げて生きて来たんよ」


「お父さんとお母さん……」


「んっ?」


 奈々恵の口からふぃっと出た言葉にお姉さんが気が付いた。


「あ、お父さんとの間にとか、お母さんとの間に悲しい辛いことがいっぱいあったのかなぁって。思ったんです。あっ、お姉さんがって言うわけじゃなくて……皆っていうか……」


「奈々恵ちゃん。そうや、そうなんやって。たぶんな。皆この町に居る人たちはそうやろ。辛いことたくさん経験してきてる。自分が悪いんやけどな、悪いんやけど、そうするしかしょうが無いようなニンゲンになってしもうたのよ。生まれて来て、最初に信じた者に裏切られる、捨てられるって、だって絶望やんなぁ」


「そっかぁ……」


「自分が悪いってわかってはいても、そうしてしまうことっていうのは、これがどうしようもないんよ。やめられへんの、なかなか、なかなか。どっかではわかってるんよ。悪いってこととか。私も身に覚えはあるの。そやけど、その時はもうどうしようもなく、利用したり騙して取ったり、いろいろやってしまうねん。私も叩けば埃が出ますーっ」


「正しく生きるなんて出来ないよね、人って。でもその正しさっていうものに気持ちは負けていくこともあってね」


 美登里さんの言葉にあかね姉さんは頷いた。


「負い目っていうか、自責の念っていうのか…これが歳を取るごとに小さくなっていかないのよ。逆になぁ、大きくなってくの。だから、奈々恵ちゃん。言うとくな。逃げちゃいけないものからは逃げたらあかんよ。それはずっと後から後から追いかけてくるから。もう謝ることも出来ない人もいるしね。旅立ってしもうたわ。ずうっと残るの。残ってるの。消えやしない」


「そやねぇ。本当やねぇ」


 美登里さんもあかね姉さんも奈々恵よりも随分と人生の先を歩いている。たくさんの逃げ出してはいけなかったというような出来事や現場を見たり、自分が体験してきているのだろうとは思ったが、どのようなものなのか想像は出来なかった。



「占星術で、そういうのも見るんか?」


「えっ、はっ。いやそんなところまで、わからないです、私には」


「そうかぁ ははっ。だけど、奈々恵ちゃん、そういうような仕事をする人になっていくのとちゃうか? 私はそう思うわ」


 急な質問に驚いたが、横で美登里さんが頷いたことに気が付いた。


「私は普通にお勤めして、いい人見つけて結婚して欲しいけどね」


 美登里さんのそんな言葉に、あかね姉さんは同意しなかった。


「あらっ。美登里さんがそんなこと言うの? 不思議やなぁ。この娘を見てたら、そうは思わんわ。たぶんいつかこの町には居ない人になるやろ。私とは違う意味でいろんな所のいろんな人の話を聞いたり、話したりするようになるんと違うか? 」


「あら、まぁ」


「あら、あら、まぁ、それって占い師的な?」


 看板娘一号の美登里さんがそう言った後に、二号の奈々恵ががそう言った。


「いやぁ、どうかなぁ、それは」


「いやぁ、どうかなぁ、それはちょっと、ニンゲンが苦手なもので」


 二人に続いて、あかね姉さんが笑いながら続ける。


「あら、私はそうは思わんよ。なんかわからんけど、この町にはおらんようになるねん、この娘は。それだけはわかるわ」


「なんか、あかね姉さんが一番占い師っぽいです」


「きゃぁ。ほんと? 私が?」


「ははっ。ぽいぽい! ホント!」


 笑った。笑いが三人から溢れ出た。



「玉子焼き、美味しくできるといいですね、お姉さん焼くんでしょ」


「奈々恵ちゃんほら、それ。そこやん。そういうこと、言わんのよ、普通は」


「えっ?」


「そうね、そこ。……お姉さんの言う通りやね」


 再び三人は笑った。

 奈々恵は笑ったフリをしたと言った方が近いだろう。たった今お姉さんに言われたことを反芻はんすうして考えていた。


(そ、そういう…とこ? ……)


「もー、作ろうかなぁって、ふわっと言っただけやったのに、なんかそう言われたら、作ってみようかなって本気で考えてしまうやん。材料はあるしなぁ。なら、後は実際に作って、そして食べるっていうことやんか。うわぁー、まじかー。乗り越えてしまうやんかぁー。もうしばらく料理作って無いわ。だって思い出すやろ」


「きっと、いいことありますよ」


「玉子焼きかぁ……高い高い玉子焼きなぁ」


 その玉子焼きの黄色が、幸せの黄色だったらいいなぁと奈々恵は思った。

 その後、翌週のバイトの日に、突然「路々ろろ」の入口の扉を開けてあかね姉さんが大きな声を出しながら顔を出した。


「奈々恵ちゃんいるかぁ? 作ったでぇ! 美味しかった!」


「あっ、そ、そうですかっ。よ、よかったです!」


「後でまたコーヒーに来るわ。それだけ先に言いたかったぁ! じゃぁね」


 そう言ってあかね姉さんは元気に出て行った。慌てて返事はしたものの、その場では何のことかわからずだったが、美味しかったと言っていたことをすぐに思い出して、それは「玉子焼き」のことだとわかった。美登里さんと顔を見合わせて、二人とも軽く頷きながら笑った。作ったらしい。そして、食べたのだと報告に来たのだ。


 玉子焼きのその色が、あかね姉さんの中で変化したように思えた。


(ちょっと寂しくて哀しい黄色から、きっと、元気の出る黄色に……)



 その日、あかね姉さんはコーヒーを飲みに午後の空いた時間にやって来た。


「これから、稼ぐでぇ!」


 そう言っていた姿は逞しい。この町に住み働く女たちは、流れ流れてこの町に到着したという人が多い。それぞれの事情がある。よって規則的な生活ということに縁の無い人も多い。昼夜逆転は当り前のこと。身体を悪くする人も多い。お金に関する事件も多い。そんな中で何度も倒れて、そしてお姉さんたちはこの町で働ける身体である以上は再び立ち上がる。


 そんなお姉さんたちをたくさん見てきた。これはもう消失していく昭和の最後の風景だろうと思われた。都会から離れている地方では、都会にはもう残っていないものがまだ残っているのだ。この温泉町の風習や文化もいつか静かに消えていくのだろう。微かな痕跡だけが、その頃のことを語る人からほんの少し滲むように表れる。


 いつかこの町から出ていって、忘れてしまいたいこともたくさんあるというのに、奈々恵は自分の中に湧き起こる感情が不思議に思えた。





 

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