第33話 月の影 見上げる太陽④
奈々恵が高校三年になる前にアルバイトを辞めたあと、しばらくしてお店にコーヒーを飲みに行った時に、美登里さんから聞いた話では、あの後その色男が見つかったのだそうだ。
「色男」とは、オオウソツキの宇津木さんのことだ。警察に捕まったということだった。あかね姉さんがお金を持って行かれて大騒ぎしていたあのオオウソツキのことだ。
あかね姉さんは、それを美登里さんに話ながら、悲しそうでも嬉しそうでもあったらしい。さらにその後どれだけかして、その男とお姉さんが並んで歩いている姿を何人かが目撃していた。さらにその後、二人揃って「
男はいつの間にか身体を壊していて半身に麻痺が残り、軽くだが足を引きずって歩いていたそうだ。マスターには相変わらず「儲かる話」をしていたそうだが、それはもはや冗談としてだった。片方が不自由になった男の側であかね姉さんが、座ったり立ったり、手元のものを落とさないか、食べやすいように小分けにしたり等、それはそれはかいがいしく世話を焼く姿が印象的だったと美登里さんが言っていた。
二人は一緒に住むようになり、あかね姉さんが働いて、男が家のことをしてリハビリのような毎日を送っていると言っていた。仕事が午前中に終わる頃に一緒に来て「
ある時、タバコを買いに出て行ったあかね姉さんのことを、男は泣きながらマスターに話をしていたと聞いた。
「ご飯をね、休みの日には炊いてくれてね。米だけは美味しいのを食べたいって言うていい米をね。箸が並ぶんですわ。自分のもね。目の前の小さなテーブルにね。立派なもんじゃ無いですよ。折り畳みのテーブルにね。そこに並ぶんですわ、二人分ね。作りたての味の薄い味噌汁とスーパで買った漬物とね。あぁ、こんな俺にねぇ」
「あぁ、そうかねぇ」
「えぇ……もうありがたいしかないんですわ。あれが居てくれなかったらどうなってたことか。布巾を畳んだり、パンツを畳んだりしてリハビリです。」
マスターが静かに話を聞きながらいて、その前には泣いて話しているいる男がいたんだそうだ。随分と身体も雰囲気も小さくなっていたらしい。あのオオウソツキさんは、随分と違う感じになっているらしいってことを知った。
お医者さんに運が良かったと言われたのは、言葉が喋れることだったらしい。半身の麻痺は日常のリハビリが重要だと言われたと言って、掃除や洗い物、料理や洗濯など担当しているらしかったが、それも嬉しそうに話していたそうだ。どうも主婦的なことが向いているらしい。本人も好きなんだって言っていたそうだ。
その日はちょうどその二人には会えなかったけれど、話を聞いて充分な気がした。
この世には間違いも正解も無いのだと、この町のお姉さんたちはその生き方で教えてくれる。どう思うかは自由だ。どうするかもまた自由なのだ。小さなこの町の中で、このあかね姉さんのことさえも良いように見る人ばかりでは無い。それは簡単に想像が付く。
それでも自分が思うように、お姉さんは選んだ。引き受けたのだろう。大きな覚悟と決断がそこにはあったはずだ。誰にも何も言わずに。決めたのだ。
「やっぱ。男前やん」
勝てない勝てない。お姉さんたちの生き方は真似できないと奈々恵は思った。どうして、例えば目の前にある池のその水に、進んで手を入れることが出来るのか不思議でたまらなかった。 それも苦労することが最初からわかっていて、なのだ。
(これまでの全部が台無しになるかもしれないのに……)
凄い人たちがこの地球には居る、そう思った。奈々恵からすると、それは遠い人たちに思えたが、この町の外側の人たちもまた奈々恵からすると遠くに思えた。
自分は一体どこの誰なのだろうか?
どこに、居るのが、らしい私、なのだろうか……
地上の物語とひとつ出会う度ごとに、奈々恵はそう考えていた。
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恋をするお姉さんたちは、実は恋などしていないことを自覚しているのではないかと、社会に出てから奈々恵は思った。
温泉街の町の外側にある町には、お姉さんたちはいない。町に似たような世界に思えるような酒場はあっても、やはりお姉さんたちとは働き方も働く時間の多さも全く違っている。
サラリーマンや自営や、会社経営や、という人たちの住んでいる世界でも問題は起きているし事件もあるが、被害者と加害者がクッキリと分かれて浮かび上がる。片方が悪い、片方は可哀相なのだという。そこに間違いは無いが、徹底してそれだけの意味で終わっていこうとすることには違和感を感じていた。悪いことをしたものは永遠のように外されていく。被害者の側は悲しみや怒りを抱いて、加害者や犯人を恨んで生きていく。そんな話が多かったように思えた。奈々恵にしてみれば、あれ、よくある話じゃ無かったっけ? と感じることが多かった。
この町の中では、正しいことをする人が正しくて、偉い。間違ったことをする人は糾弾されるべき存在として示される。自分は永遠に蚊帳の外であり、頷きながら嫌だわねぇっていう反応を多くの人がする。
それは、あの蟹座温泉の町の中とは違っていた。
あの町の中では、だれもが間違いを犯す。あるいはいつ自分が間違いを犯すかもわからないということを当り前として踏まえている人が多かった。実際に人を騙したり騙されたり、お金を奪ったり奪われたり、暴力を振るう、振るわれるということも日々起きていたが、誰か全くの潔白な存在がそれらを責めるという風景が無かったように思えるのだ。
誰もが痛い過去を持っていた。抗うことの出来ないことに巻き込まれた人生の人も少なくなかったが、それを受け入れていたように見えた。誰かが誰かを責めて優位に立つことが出来るような場所では無かった。
「ここは地獄やぁ」
「出て行かれんようになるでぇ」
そう言っていた意味は、当時の中学高校生だった頃の奈々恵が感じて受け取っていた意味とはまるで違うものだったのだ。
地獄には地獄用の温かな場所もある。それこそ出ていくことが出来なくなる原因のひとつなのだろう。
この町に自分が居続けるということ自体は、奈々恵にとっては正しくは無いと思えた。それは「目的」というものがあったからなのだと知った。
それは蟹座温泉であろうとその外側に広がっている町であろうと同じことだ。どちらの町も自分にとっての居場所では無いと、奈々恵が思う以上は、その通りなのだ。そこに客観的真実や客観的正解というものが有るわけでは無いのではないか、ということをうっすらと知った。
(ならば、流されてゆけ、私)
高校生最後の年のことだった。
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