第28話 二人連れの理由⑥


 その二人も二人連れ。そして風薫る二人組の薫さんと風子さんも二人連れだ。

 他に「二人組」が多くいる。この店にも数多くやって来る。


 そして、自分の父と母もまた二人連れのはずだった。


 その間に生まれたか、引き受けたかしたのが自分という存在だろう。父、母、子という三つ目の存在である。それは天と地の間に生まれると子という存在に置き換えられる。さらに、数字の最初の1、2、3という数字は三角形を作り、それは創造する、生み出すという意味を持つという。


 奈々恵は、紙とシャープペンシルを用意した。1、と言いながら最初の点を、二つ目の点を少し離れたところに、2,と言いながら描いた。その二点間を結ぶ線を引くと、とある直線が生まれた。


「この二つの点に」


 そう言いながら、今一度紙に一つ目の点と二つ目の点を描く。今度はその二つの間を繋がないまま、三つ目の点を描いた。わざと正三角形になるような位置に描いた点を線で繋ぐと、途端に正三角形が浮かび上がる。ひとつの「点」が二つ発生することで、その二つの点が今度は想像もしなかった「線」を生み出して、この二つの「点」は結ばれてしまう。繋がりを持ってしまうのだ。


 さらにそこに新たに三つ目の点を入れる。最初に登場している二つの点に対して、三つ目の点は最初の一つ目の点とも、二つ目の点とも繋がりを持つことになる。一つ目と二つ目の点は、お互いの存在しか見る先は無い。手元の自分と見る先の二点しか存在しないのだが、三つ目の点が出現することで風景は大きく変わってしまう。


 三つ目の点からすると、最初からあちらとこちらの二点の存在があることに気が付かされるだろう。一つ目から二つ目の点に向って線を引いている状況ならば、自分を追いかけて飲み込み合体しようとしている線という存在があるということになる。

 三つ目の点からすると二つ目の点は見えない。見えるのは線が三つ目の点である自分に段々と近寄ってくるということ。そしてそのまま消失しないままならば、三つ目の点に、二つ目の点からやって来た延びる線は三つ目に一体化を求め、接合部を生み出す。


 この段階で止めると、紙の上の図では閉じられていない三角形が生まれている。まるで鳥のクチバシのように方向性を持っているかのように見えるし、矢印の長い方の棒が無い状態とも見える。

 最初の一つ目の点に向って、三つ目の点からそのままに線を延ばすことでこの三つの点は閉じられることになる。ここにひとつの世界が生まれる。括られた世界の内側とそれ以外の外側の世界と。点と点を繋ぐことで線が生まれ、さらに次の点へと線を延ばして、最初の一つ目の点に帰ることで、今度はそれまでには無かったひとつの「面」が出現するのだ。


「おおっー」


 何かわからないままに、無い状態から有るという状態へ、点が線へ、面へという目の前に発生していることに大きく揺さぶられている自分がいた。何回点を描いても、繋いでも、始まりへと帰せば三角形が生まれる。それが正三角形で無くても、どこに点を三つ目に描いたとしても繋ぐことで変形の三角形が生まれるのだ。


「開く……、閉じる……」


 二つ目の点である状態、この二点間を繋ぐと一本の直線が生まれてしまい、三つ目の点を入れて線を引く状態を起こすとクチバシになって、最初の点に帰すと三角形という面が発生する。

 三つの点とそれらを繋ぐ線によって、一つの面が生まれ出るのだ。この一つの面という存在は、三つの点の存在で出来ている。アニメーションのように二点、三点を繋いだり繋ぐ前だったりを行ったり来たりさせれば、開閉運動しているかのようにも見える。


「2、3、2,3、開く、閉じる。開く閉じる」


 三つの点という存在、協力者が居なければ、ここまでの全てが生まれることは無いっていうことなのかと、ハッとする。世界中にはきっと「点」というものがいっぱいあるはずだ、そう思った。


 例えば点を延々と繋いで線を引いていく遊びがある。点の集合体として見ると何の絵が描かれているのかわからないが、数字が打ってある順に線を引き続けていくと、やがて一つの絵が現れるという遊びだが、結構良くやっていた覚えがある。

 その点は数が多いのと、一つの絵を浮かび上がらせるということ自体が目的として始めにあるので、今のこの三角形の話とは直結しないかもしれないが、と考えていた。


「どこまでも延々伸び続ける一つの線、一筆書きのような」


 それがこの点で絵を描くという遊びだろう。


 最初の三つの点が閉じることで三角形になるということは、頭の中で考えているよりも、実際に点をハッキリと紙に描いて、繋いでいく線を引いて、という自分の身体を動かしていくことで、その現実味は嘘のように違っていた。それまでは見えていなかった、シャーペンの先という存在が見えたのだ。これが居るからこそ、それは出現する。ということに驚いたのだ。


 もちろんエアーで描いたとしても、そこに三角形をイメージすることは可能だ。しかし、シャーペンで線を描くという行為を行うのはシャーペン自身では無い。それをそうしようという意思を持つ者が今ここに存在しているからこそ、シャーペンを動かす。そしてこの世に、それまでは存在していなかったものが生み出される。この紙の上に新しく三角形が生まれたのだ。出現した。


「あぁ、これは、どういうこと?」


 私という存在が、思い立つことで、さらに動くことで点が生まれる。そこには点を描くという行為、行動が発生している。それを繋ぐのも、線で閉じて三角形を生み出すのも、私という存在なのだ。

 囲まれた線の内側、外側、と、何度も両方を見ていた。これがペンと紙を使って生み出されたもので、それを生み出した、生み出そうと動いたのがこのシャーペンを手に持つ私で……。


(それが居なければ、この紙は白いままってこと、でもある)


 何が起きているっていうことなんだろうか、とまた森の奥深くへと吸い込まれて行くかのような気持ちになる。わかった、と思った途端に、なんだかわからない混沌がやって来るのだ。呑み込まれて道に迷って森から出られないような。慌てて小さな枝の先にある一枚の葉に近付き、その葉脈を見ている自分に意識を集中させようとする自分が居た。


「子」という自分の存在についてのことをもっと知りたい、そう思った。

 1、そして2。これは二人連れなのだ。

 天と地でもある。それは父、母、でもある。

 その間に「子」が誕生し、やがてこの「子」は次を生み出す1となるらしい。


 いったい、いつか、この自分から生み出されるもの、というのがあるのか、考えられなかった。



 そもそも自分の中からは、この母から生まれたのでは無いのでは、という感情が自分の中から出て来てしまう。安産だった、十年後にやっと生まれたという話は何度か聞いていたが、本質的に自分は母の子では無いという気がしていた。同時に、父の子でも無い、そんな気がしているのも本当のことだった。

 自分の中で父、母、子というセットが全部バラバラなように感じた。本当の「父」「母」「子」という意味を自分はまだ知らないのではないかと、そう思った。


「二人連れ」にはそれぞれの理由がある。事情がある。

 地上での「二人連れ」にそれぞれの物語があるように、きっと数多く存在する「天」と呼べるものと「地」と呼べるものには事情があるのだ。それによって生まれ出る物語はどんどん変わっていくのでは無いだろうか……。


(どのような物語を……はたして意図、したのか……しなかったのか)


 誰が、何処で、いつ、ということもわからない。けれど何か、別のところで人生が創られているような気がした。それは私というこの私では無いところにある、もっと違う立ち位置からの「意図」とか「目的」というものなのかもしれない。それはあるのだろう。そしてきっと「意味」がある。

 探し求め続けることが出来たら、いつか何らかのそこにある「意味」と出会うことが出来るのかもしれない。その可能性と呼ぶことが出来るかもしれないものに気が付いてしまったのだから、知りたいと思う自分の思いを否定しないままに行こうと思った。


 学校でも「路々」でも、こんな話をする相手は居ない。それはかろうじて書店で見つけた雑誌の中に書かれていた文章にヒントらしきものがあった。当然話し掛けても返事は無いが、それでよかった。問いかけ続けることに、自分にとっての意味があった。問いかけ続ける自分でありたかった。いつか、必ず、答えに近寄っていく時はやって来るだろう、中学の頃からそんな予感があった。確証らしきものがあるにはあるが、それは本当にそうなのかどうかはわからない。


(会いに行こう……)


「でも、今じゃ無い」


 自分はこの現場で、今は生きていかなくてはならないことを知っていた。急いではいなかった。


 

 

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