第26話 二人連れの理由④
「路々」に戻ると、お客さんから多くお金を頂いていたことを思い出す。釣り銭入れをポケットから出しながら、美登里さんにその説明をした。
美登里さんは、釣り銭の確認をしながら、おっ、という顔をして、言う。
「ホント、随分と弾んでくれたわね、良かったじゃない。そんなに気前のいいお客さんだった?」
コーヒー五杯分にしては五千円とは多すぎる。残りがチップだっていうことだから、その方が多いし、ほんの少しの時間でそれだけ稼いできたよ、ということらしい。
「えっ、とぉ……、何か話していたら変なことになっちゃって……」
「変な?」
「あー、一番偉そうなおじさんにお尻を触られたんです。で、つい、間髪入れず、みたいになっちゃったんですけど、お金頂きますよっ的なことを言っちゃって。しまったっ、て思ったんですけど、もうどうしようもなくその場のおじさんたちやお姉さんにも笑われて。で、お支払いって、五千円札だったのでお釣りを用意しようしたら、後で何か飲んだらいいって、お釣りは受け取っていただけずで。お姉さんがいただいときなさい、って言って……困ったんですけど、それで、もらってきちゃいました」
「ほぉ」
厨房側からタバコを吸いながら出て来たマスターがそう言った。話を全部聞いていたらしい。タバコの煙の向こうに見えるマスターの顔が笑っている。
「何か、そういうことになる子なんやなぁ」
美登里さんに向って、マスターがそう言った。
「そう、そう。この子ね、得な子よ」
美登里さんも笑っている。ウケていると言った方がいいだろうか。結局コーヒー代をレジに入れた後の残りは奈々恵に渡されることになった。一時間半ほど経ってからからコーヒーのセットを回収しに行けば良いと言われたので、時計を確認する。
でもずっと気になり続けているのは、旅館を出て行く時の背後でのおじさんとお姉さんたちの会話だった。もうおそらくそうなのだ。ハズレてやしない。当たりなのだ。それがどこかでそんな気がしていたとは言え、ハッキリと自覚してはいなかったことに、それを正面に置けと言われている感じがして、ため息しか出なかった。
(
毎日開店後に通って来るあの二人連れの、若い女性の方の呼び名である。横に座っている山田のおじさんが何かの折に言ったのを聞いたことがある気がするのだ。最初の二文字。ハッキリとは聞こえなかったが、名前だろうか、と思っていた。
「さえ、明日は休みだ」と、そう言っていたのだ。
確かに、最初の方は名前なのだと、自分には聞こえていたのだ。ほとんど話し掛ける人もいないので、それが彼女の源氏名なのかを確かめる機会はやって来ないままだったが、年齢といい、自分と同じくらいだという話からすると、たぶんビンゴなのだ。当たったところで嬉しくない当たりっていうのもあるのだと思った。
自分と同い年くらいだなんて知らなかった。間違いということはないのか、何度も巡らせてみたが、若すぎるように思えるのは、奈々恵が知っているお姉さんたちの中では彼女だけだった。この町で普通働のは、早くて中学を卒業してからのことだ。
彼女は、今も若いが何年か前にこの町にやって来たと聞いている。まして、彼女はいつも一人で居ることがない。必ずあの謎のおじさんが隣にいる。
町の中での移動の時も、旅館内での移動の時にも、時々見かけた時には、必ず二人であって、彼女が一人で居るというところを見たことが無かった自分がいたではないか。「路々」でバイトをし始める前の自分を思い出す。そんな過去の記憶が帰って来たような気がした。
ここ数年の間、視界に入っていてどことなく違和感も感じながら、見て見ぬ振りをしていた自分がいたのではないかということに、気が付いてしまった瞬間でもあった。おそらく受け入れたくなかった、のだと思われる。
久しぶりに顔を見た休憩中の母に聞いた。ある時、早朝から深夜まで仕事をしていて忙しく、昼間に奈々恵がいる時にしか会うことも無い母に、思い切って尋ねたのだ。
「あぁ、あの娘ね。十五歳になる前にな、中学も行かせてもらえず、売られたんや」
「……」
あまりにもストレートな返しだった。
「親の借金」
「あぁ、そんな……」
「選ぶことなんてできんわね。逃げないように、死なないように、プロの人が付いてる。そんな習慣が染みこんで、もう逃げることも死ぬことも忘れていくねんな。おるやろ。いつもそばに。教育と監視な」
「あ……」
「中学生が親に捨てられてな、知らん温泉街の小さな町に知らんおじさんと来て、何するかわかるやろ。借金分の支払いが終わるまで自由は無いんや。珍しい話でも無いけどな。あんたももうちょっと世界のことわかった方がええで。いくらでもあるわ。道付けたろか……」
「え……」
「若い方が喜ぶしな。あんたも恋とか愛とかいうしょうも無いもんに手出すこと、絶対にならんぞ。そんなもん、一銭にもにならん。ムダなもんや。あんたにはお金を生み出してもらわんとな。ここまで育てるのにいくら掛かったと思ってるねんな。いつでもええよ、私は。ラクさせてや、もう。」
止めておけばよかったのだ。
足元から崩れていく何かを感じていた。
もう元には戻らないんだろう。音こそ聞こえないけれど、仮に建てていた自分の住まいのようなものが完全に壊れていくのを見たような気がしていた。
自分から切り出したことである。話し掛けた自分が悪かったのだ。あの娘とは違った環境で、という意味ではあるけれど、望むような居場所なんていうものは此処には無いのだ。それを理解しろ、受け入れろと言われているのだ。
「土建屋さんの社長とか、会社をいくつも持ってる社長を何人も知ってるわ。まぁ、その前に、この町のストリップでも見に行こうか。毎日何がお金を生み出してるのか、払う人たちはどういう人たちなのか、ようわかる。毎日送り届けてるし、毎日じゃんけんとかでステージの上で本番ショーやわね。へたれる男の人も少なくないけどな。あははっ」
「それは、店に入れるの?」
「一緒に行ったらええんや。通してくれる。大丈夫。たいしたことあらへん、あんなもん。人間っておかしい生き物やわ」
「あ、そぅ……」
行くべきか真剣に迷うことがこれ以後も何度もあった。その度に奈々恵は「今日はええわ」と言って断っていた。
「この世に、慣れていかな、よ。これが世の中なんやから。あんたは一人っ子なんや。親に楽させるのはあんたの仕事。自分の好き嫌いより親や。ここに居られるだけ感謝せんと。」
「や、でも、父さんは……そんなこと」
遮ろうとしたが、何か違うと言いたかったが、それを大きく母は遮っていった。
「ええか。生きてる人間が、一番怖いんや。覚えとき」
父親はずっと宇宙の方を見ていた。母親はずっと大地の方を見ていた。
そう思えた。
それはなんらこの世の、宇宙の法則になど外れてなどいない。全くまるで二人はそのまま過ぎただけなのではないかと、逆に二人はそれぞれシンプルな働きだったのではないかと、奈々恵はずうっと後になってから考えることになる。
だがこの段階ではわからないことが多かった。なぜ、この二人が一緒にいるのかということ。お互いがお互いを許したり、我慢したり出来るのだろうか、ということが謎だった。
父……それでいいのだろうか……
父と母と……なぜ?
母……それがいいのだろうか……
どちらの存在も嫌になっていく、徹底的に受け入れられない時は来る。そういう予感がした。人間として、父、母としてではなく、その歩き方のようなものが自分とは合わない気がした。
ひと言で言うなら、高校生のその時には「大嫌い」だった。特に母のことが。
「大嫌い」を通り越す日がやって来るなんて、思いもよらなかった。
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